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10/8/2022, 8:35:19 AM

.力を込めて

「昔の映画とかで、気に食わないやつにシャンパンをぶっかけるシーンは観たことあるけど……」
そう言うと、隣の彼は、くつくつと笑った。
「ローストビーフをぶん投げた人は、初めて見たな」

私は少し眉をひそめ、右手を軽く握っては開いた。
まだグレービーソースの残滓が、そこにまとわりついているようで、匂いを嗅ぐ──うん、良い匂い。

「罪深いことをしてしまったわ」
「そうだね」
「ローストビーフに罪はなかったのに」
私がため息をつくと、彼も「たしかに」と首を振った。「あのローストビーフは美味かった……」

一瞬の沈黙のあと、私たちはお互いの顔を見合わせ、もう堪えきれないというように吹き出した。

「あいつの顔、見た?」
「人間って、本当に驚くと口が開くんだなって思ったよ」
「ぽかーんって、ああいう時の表現に使うのね」
彼は頷くと、首元のネクタイを緩めながら言った。
「……あのスーツも可哀想に。仕立ては悪くなかったのにな」
「ローストビーフとシャンパンを同時に投げつけられて、一晩のうちに耐え難い仕打ちを受けさせてしまったわ」

丈も裾も、ぴったりと体型に合ったオーダーもののスリーピーススーツ。
生地も厚手で、市販の既製品とは違っていた。
手首にこれ見よがしにつけていた金の腕時計にも負けない風格のあるスーツだったのに。

もし、と私は思った。
──もし、あいつがその服装にふさわしく、真の紳士であったなら、あんなことにはならなかったはず。

私は、ひとつ息を吐き出すと、隣の彼に向かって右手を差し出した。
「ありがとう」
「……何に対しての、“ありがとう”?」
「あの子のために、一緒に闘ってくれたことに対して」
言葉に出すと、鋭い痛みが胸に広がった。

今夜の同窓会に、あの子は来なかった。
元々、こうした集まりには顔を出したがらない子だったから、一緒に行ってもいいかと連絡が来たときには驚いた。
……驚いたけれど、嬉しかった。

せっかくの同窓会だから、を合言葉みたいにして、二人で洋服を買ったり、美容院で髪を整えたりした。
二人で懐かしい話をしながら、私は、あの子が、高校時代の淡い憧れをまだ引きずっていることを知った。
そして、それを理由に同窓会に参加しようと思っていることも感じた。
だから、余計に許せなかったのだ。

耳によみがえってくる、最低なあいつの笑い声。
──実はさあ、卒業式で、俺、告られたことあんだよねぇ。男に。
誰、誰、と囃し立てる周りの人間たちも気持ち悪かった。
──え? さあ、誰だろうなぁ……。あ、でも、俺、そいつに言っといたんだわ。今日の同窓会、気持ちわりーから、お前、絶対に来んじゃねぇぞって。

出席者の名簿のなかで、当日、会場に来なかったのは、あの子だけだった。
あの子は、あいつの自己顕示欲を満たすためだけに、同窓会に誘い出されたんだ……。

思い出すだけで、腹が立つ。
苦い唾が口に溢れてきて、なのに、上手く飲みこめない。
ざわざわと腕に鳥肌が立った。

「お礼を言われる筋合いはないよ」
差し出した右手に、厚い手のひらの感触がして、ぐっと握り返された。
ハッとして、顔を上げると、彼の真剣な眼差しが、私の顔に注がれている。

「俺が、あんな風に人の心を踏みにじるやつは許せなかったってだけで」
静かな声音が、じわりと私の耳に沁み渡って、ふいに涙腺が弛んだ。
ああ、待って。待って。

「これからさ」と、彼はそう言うと、ニッと口の端を上げて悪戯っぽく笑った。
「あの子も誘って、三人で飲み直さない? どっかスーパーでも寄って、日本酒とワインと焼酎の瓶、買ってこうよ」

どうしよう。
なんだか、急に海の中に落っこちてしまったみたい。
息を吸おうとしても、喉の奥に塩辛い水が流れていく。
溢れ出た涙が顎を伝って、ぽたぽたと玉を成してアスファルトに落ちた。

「どう?」
「いいね。それって、最高だわ」
私は嗚咽をこぼしながら、頷いた。
握った手に、力をこめて。


2022/10/08

10/5/2022, 8:30:54 AM

.踊りませんか?

「やっぱり、歩きにくいわ」
足の折れたヒールを、宙に向かって蹴り出した。
それは思ったような放物線は描いてくれず、ゴトリと数歩先に落ちて転がった。
残された方のヒールを脱いで、手に持つと、同じように放り投げる。

折れていようが折れていまいが、高さが一〇センチもあるようなヒールに、私は慣れていないのだ。
それを言うなら、借り物のひらひらしたワンピースも。小さなバッグも。真珠のネックレスとイヤリングも。

足の裏に、芝生の冷たさが沁みた。
でも、気分は悪くなかった。
紺色の夜空に、金色のコインのように輝く月が浮かんでいる。
その光の下、裸足でダンスだなんて──まるで映画みたいじゃない。

私は中庭の中央に滑り出すと、少しつま先出ちになって、静止した。
自分の影を抱くように、そっと腕を広げる。

頭のなかで、音楽を鳴り響かせながら、最初のステップを踏み始めると、周囲の雑音はゆるやかに遠のいていった。
自分が作り出す風の感触を肌に感じて、心のままに身体を動かす。

軽やかに跳ねる鹿のように地面を蹴り、宙を舞う。
そうしたかと思えば、獲物を狙い森の中を疾走する狼のように、靭やかで力強いジャンプを繰り出す。
追って、追われての、影とのダンス。

徐々に呼吸は熱を帯び、脈打つ鼓動が、もっと、もっと、と踊れば踊るほど、私に訴えかけてくる。

……ああ、あなたはそこにいるのね。
すっと、そこにいたのね。

汗がキラキラとした玉になって飛び散っていくのを目にしたとき、頭の先から足の先まで、痺れるような快感が走った。

腕に抱いた目に見えぬ影が──過去の自分が、じっと私を見つめ返しているようだった。
その瞳の中で、誘うように光の輪が踊っていた。


2022/10/05

9/27/2022, 11:25:43 AM

.通り雨

「何読んでるの?」
声をかけると、彼女がこちらを見上げた。
眼鏡越しの鋭い視線とかち合う。

読書の邪魔をして悪いと思ったけど、こんな風に二人きりになれるチャンスは二度と巡ってこないだろうから、俺はその場に居座った。

「──文化祭、始まったばっかだけど」
へらりとした笑顔を浮かべ、ちょっと肩をすくめてみせる。

頭上には灰色の雲が迫ってきて、今にも降り出しそうな気配がしていたが、校内は浮かれた雰囲気で満たされていた。
がやがやとした人の息遣いを遠くに感じる。
廊下に貼り付けられた、催し物を宣伝するポスター。色とりどりの紙の花と風船で飾り付けられた教室。
体育館では、軽音部が爆音で音楽を奏でている。

「なんていうか、その、こんなとこで、一人で本読んでるの、見つけちゃったから……何読んでんのかなって、気になってさ……。思わず、声かけちゃった。ごめん」

あ、どうしよう。
俺、すげぇ、から回ってる気がする。
うざいって思われてそう。

「あー……まぁ、その、別に文化祭だからって、関係ないよな。何しようと、個人の自由っちゃあ、自由っていうか」
背中に冷たい汗が流れ、顔に浮かべた笑みが強ばる。

「──はあ」
彼女がため息をついて、俺から視線を外した。
このまま睨んでいても、埒が明かないと思ったのか、読んでいたページに指を挟んで、表紙を見せてくれた。
『十月はたそがれの国』……作者は、レイ•ブラッドベリだ。

「あ、タイトルだけ、知ってるかも。有名な作家だよね。他にも、なんか、映画になった本とかあるんだっけ」
急いで、口からついて出た言葉を並べた。
海外の作家の本なんて、『ハリー・ポッター』くらいしか読んだことがないのに。

「なんか、あのぉ、なんだっけ。温度みたいなやつ」
必死になって、彼女が図書室で読んでいた本のタイトルを思い出そうとする。
少し前かがみになって本を読んでいる姿。ページをめくる手つき。静かな彼女の横顔……。

「“華氏四五一度──この温度で書物の紙は引火し、そして燃える”」
「えっ?」
ふと、目の前が暗くなった。
制服のスカートが衣擦れする音。
ほのかに甘いような匂いがして、それが彼女の髪の匂いなのだと気付いたときには、もう遅かった。

「ねぇ、モンターグ君。あなたは、本が好きなの? それとも、読書好きな女の子が好きなだけ?」
耳に吹きかけるように囁かれた言葉が、まるで呪文のように俺をその場に縛り付け、呼吸を奪う。

「──あ、雨だ」
彼女はそう言うと、くるりと踵を返した。
手に持った本が濡れないよう、かばうように。
灰色の雲から滴り落ち始めた雨が、ゆっくりと地面の色を変えていく。

立ち尽くす俺を置いて、颯爽と去っていく彼女の背中を、俺は苦しいほど鳴る心臓の音とともに見送った。
火照った頬を濡らす雨の冷たさに、これは通り雨のようなものなのだろうかと考えながら……。


2022.09.27

9/20/2022, 8:36:08 AM

.時間よ止まれ

時の流れというものは、誰の上にも等しく流れ、そして不可逆なものらしい。
あの頃はああだった、こうだったと思い返すことはできても、誰も過去へ戻ることはできない。

──あの子と私が出会ったのは、いったい、いつのことだっただろう?

あの子が私の前に現れたとき、あの子はまだ小さくて、お父さんに抱えられていた。
水族館を歩き回って、はしゃぎ疲れたのか。
お土産コーナーにいるというのに、少しふてくされているみたいだった。

「ペンギンさん、可愛かったねぇ。あ、ほら、キーホルダーがあるよ」
「イルカさんのクッキーもあるぞ。チョコとバニラ味だって」
でも、あの子は唇を尖らせて、お父さんとお母さんに話しかけられても返事もしなかった。
いやいやと首を振って、早く帰りたいといわんばかり……。

だったのに──私と目が合った瞬間、茶色い瞳が大きく見開かれ、まるで流れ星が落ちてきて、その瞳に宿ったように輝いた。
「この子がいい!」
小さな手をこちらへ伸ばし、転がり落ちそうなほど身を乗り出してくる。
私はびっくりしてしまった。

「それがいいの?」
「本当に、これがいいの?」
お父さんとお母さんが、何度も聞いたけど、あの子は頑なに「この子がいいの」と言い張った。
真っ白なイルカでもなく、水玉模様のジンベイザメでもなく、ぎょろりとした目のウツボのぬいぐるみを抱きしめて。


──あれから、いったい、どれだけの月日が経ったことだろう?

あの子は、自分の足でどこへでも歩いていけるようになって、私にだけ教えてくれる内緒話をすることもなくなった。膝の上に私を乗せて、一緒に本を読むことも、ベッドで一緒に眠ることも。

今、あの子が夢中なのは、ちっちゃな子猫だ。
食べちゃいたいくらい、可愛らしい。白と灰色の縞模様で、ふわふわの毛並みと、よく動くしっぽの持ち主。

「みーちゃん、おいで!」
あの子が、おもちゃを手に子猫を呼ぶ。
でも、子猫は私のお腹にじゃれついて、見向きもしない。
ご飯の時も、お昼寝する時も、夜、ベッドで丸くなるときも、私たちはいつも一緒だ。

でも……これからずっと一緒、なんてことは、きっとないの。
今この瞬間も、時は流れ、過去のものになってしまうから。誰も、過去には戻れない。

だから、どうか──時間よ、止まって。
この温かさが消えないように。


2022.09.20

9/17/2022, 12:32:48 PM

.花畑

──あの人は、「緑の手」の持ち主だった。

花畑を吹き抜けていく透明な風を頬に受けながら、私は空を見上げた。
雲ひとつない。夏の照りつくような日差しは過ぎ去って、眩しいばかりの光が降り注いでいる。

目を閉じて、両腕を大きく広げた。
深く息を吸うと、一面に咲く花の香りが、鼻腔を通り、肺へ、身体の内側に染みわたった。

一身に光を浴びて、咲き誇る花たちのなかに立っていると、自分もその一部になったような気持ちになってくる。
あの人が、大切に育て愛した花たち。
そして、私もまた、慈しんだ、可愛い花たち……。

「ごめんね」
私は呟くと、柔らかな花弁を引きちぎった。

もし、すべての人が、何かしらのギフトを持って、この世に生まれてくるとすれば──たしかに、あの人は、「緑の手」の持ち主だった。

どんなに育成が難しい花も、あの人の手にかかれば、美しく咲き誇った。
あの人が愛情を注げば、注いだぶんだけ、花たちがそれに応えるように。

丘一面に広がる花の絨毯を見れば、きっと誰もが分かるだろう。あの人がどれだけ愛情深い人だったか。
だから……そう。私は、失いたくないの。

目の奥が痛み、喉から熱い塊がこみ上げてくる。
震えが足元から這い上がってきて、胸が苦しくなった。

もし、すべての人が、何かしらギフトを持って、この世に生まれてくるとすれば──私は、何かと引き換えにしか、何も得ることはできないのだ。

握りしめた拳を開くと、茶色く変色した花弁が舞い落ちた。
水面に投げ入れられた石が、同心円の波紋を生むように、私を中心として、次々と周囲の花たちが首を垂れ、地面に倒れ始める。

辺り一帯に充満していた優しい花の香りが、急速に薄れ、代わりに腐臭が立ちこめた。
あの人に贈るはずの花束も、あの人が帰ってくる場所も、何もかも枯らしてしまった。

ああ、どうして私は──、
ただ抱きしめるだけで、あの人の病気が治るギフトを授からなかったの?


2022.09.17

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