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.花畑

──あの人は、「緑の手」の持ち主だった。

花畑を吹き抜けていく透明な風を頬に受けながら、私は空を見上げた。
雲ひとつない。夏の照りつくような日差しは過ぎ去って、眩しいばかりの光が降り注いでいる。

目を閉じて、両腕を大きく広げた。
深く息を吸うと、一面に咲く花の香りが、鼻腔を通り、肺へ、身体の内側に染みわたった。

一身に光を浴びて、咲き誇る花たちのなかに立っていると、自分もその一部になったような気持ちになってくる。
あの人が、大切に育て愛した花たち。
そして、私もまた、慈しんだ、可愛い花たち……。

「ごめんね」
私は呟くと、柔らかな花弁を引きちぎった。

もし、すべての人が、何かしらのギフトを持って、この世に生まれてくるとすれば──たしかに、あの人は、「緑の手」の持ち主だった。

どんなに育成が難しい花も、あの人の手にかかれば、美しく咲き誇った。
あの人が愛情を注げば、注いだぶんだけ、花たちがそれに応えるように。

丘一面に広がる花の絨毯を見れば、きっと誰もが分かるだろう。あの人がどれだけ愛情深い人だったか。
だから……そう。私は、失いたくないの。

目の奥が痛み、喉から熱い塊がこみ上げてくる。
震えが足元から這い上がってきて、胸が苦しくなった。

もし、すべての人が、何かしらギフトを持って、この世に生まれてくるとすれば──私は、何かと引き換えにしか、何も得ることはできないのだ。

握りしめた拳を開くと、茶色く変色した花弁が舞い落ちた。
水面に投げ入れられた石が、同心円の波紋を生むように、私を中心として、次々と周囲の花たちが首を垂れ、地面に倒れ始める。

辺り一帯に充満していた優しい花の香りが、急速に薄れ、代わりに腐臭が立ちこめた。
あの人に贈るはずの花束も、あの人が帰ってくる場所も、何もかも枯らしてしまった。

ああ、どうして私は──、
ただ抱きしめるだけで、あの人の病気が治るギフトを授からなかったの?


2022.09.17

9/17/2022, 12:32:48 PM