.力を込めて
「昔の映画とかで、気に食わないやつにシャンパンをぶっかけるシーンは観たことあるけど……」
そう言うと、隣の彼は、くつくつと笑った。
「ローストビーフをぶん投げた人は、初めて見たな」
私は少し眉をひそめ、右手を軽く握っては開いた。
まだグレービーソースの残滓が、そこにまとわりついているようで、匂いを嗅ぐ──うん、良い匂い。
「罪深いことをしてしまったわ」
「そうだね」
「ローストビーフに罪はなかったのに」
私がため息をつくと、彼も「たしかに」と首を振った。「あのローストビーフは美味かった……」
一瞬の沈黙のあと、私たちはお互いの顔を見合わせ、もう堪えきれないというように吹き出した。
「あいつの顔、見た?」
「人間って、本当に驚くと口が開くんだなって思ったよ」
「ぽかーんって、ああいう時の表現に使うのね」
彼は頷くと、首元のネクタイを緩めながら言った。
「……あのスーツも可哀想に。仕立ては悪くなかったのにな」
「ローストビーフとシャンパンを同時に投げつけられて、一晩のうちに耐え難い仕打ちを受けさせてしまったわ」
丈も裾も、ぴったりと体型に合ったオーダーもののスリーピーススーツ。
生地も厚手で、市販の既製品とは違っていた。
手首にこれ見よがしにつけていた金の腕時計にも負けない風格のあるスーツだったのに。
もし、と私は思った。
──もし、あいつがその服装にふさわしく、真の紳士であったなら、あんなことにはならなかったはず。
私は、ひとつ息を吐き出すと、隣の彼に向かって右手を差し出した。
「ありがとう」
「……何に対しての、“ありがとう”?」
「あの子のために、一緒に闘ってくれたことに対して」
言葉に出すと、鋭い痛みが胸に広がった。
今夜の同窓会に、あの子は来なかった。
元々、こうした集まりには顔を出したがらない子だったから、一緒に行ってもいいかと連絡が来たときには驚いた。
……驚いたけれど、嬉しかった。
せっかくの同窓会だから、を合言葉みたいにして、二人で洋服を買ったり、美容院で髪を整えたりした。
二人で懐かしい話をしながら、私は、あの子が、高校時代の淡い憧れをまだ引きずっていることを知った。
そして、それを理由に同窓会に参加しようと思っていることも感じた。
だから、余計に許せなかったのだ。
耳によみがえってくる、最低なあいつの笑い声。
──実はさあ、卒業式で、俺、告られたことあんだよねぇ。男に。
誰、誰、と囃し立てる周りの人間たちも気持ち悪かった。
──え? さあ、誰だろうなぁ……。あ、でも、俺、そいつに言っといたんだわ。今日の同窓会、気持ちわりーから、お前、絶対に来んじゃねぇぞって。
出席者の名簿のなかで、当日、会場に来なかったのは、あの子だけだった。
あの子は、あいつの自己顕示欲を満たすためだけに、同窓会に誘い出されたんだ……。
思い出すだけで、腹が立つ。
苦い唾が口に溢れてきて、なのに、上手く飲みこめない。
ざわざわと腕に鳥肌が立った。
「お礼を言われる筋合いはないよ」
差し出した右手に、厚い手のひらの感触がして、ぐっと握り返された。
ハッとして、顔を上げると、彼の真剣な眼差しが、私の顔に注がれている。
「俺が、あんな風に人の心を踏みにじるやつは許せなかったってだけで」
静かな声音が、じわりと私の耳に沁み渡って、ふいに涙腺が弛んだ。
ああ、待って。待って。
「これからさ」と、彼はそう言うと、ニッと口の端を上げて悪戯っぽく笑った。
「あの子も誘って、三人で飲み直さない? どっかスーパーでも寄って、日本酒とワインと焼酎の瓶、買ってこうよ」
どうしよう。
なんだか、急に海の中に落っこちてしまったみたい。
息を吸おうとしても、喉の奥に塩辛い水が流れていく。
溢れ出た涙が顎を伝って、ぽたぽたと玉を成してアスファルトに落ちた。
「どう?」
「いいね。それって、最高だわ」
私は嗚咽をこぼしながら、頷いた。
握った手に、力をこめて。
2022/10/08
10/8/2022, 8:35:19 AM