行かないで (10.25)
ダンッ
興奮した先生の足音に飛び起きる。足利義…わからない。眠気に負けた赤い字が見事に踊っている。修正テープをカチリと開けて、またすぅと意識を持っていかれそうになったその時。
「えへへ、おやすみなさーい♪」
きゃらきゃらと高い声。ぶうんという羽音も相まって反射的に手ではたき落としたその先には、透明な翅をきらきらとさせた妖精がいた。
「な、何するのよ!眠りなさいっ」
オニは外、と言わんばかりに金色の粉を投げつけてくる。しかし空いた左手でしっかりガードしたので効果なし。
「眠ったら授業なんて一瞬よ!願いを叶えてあげてるんじゃないの。離してっ」
これは夢かな、と思いながらジタバタする小人をつまみ上げる。思いっきりあっかんべーをする姿はなかなか愉快だし、このまま見ていたいのだが。
「君さ、僕の専属にならない?」
「…はあ?」
「夜全然寝れないんだよ。昼夜逆転ってやつ。薬とか、親が心配して飲めないし」
そう言うと急に黙り込んで、じいっと目を見てくる。
「猫飼ってない?犯罪に興味は?まさかロリコンの趣味ないでしょうね?」
「…全部ないから」
「よし合格」
「そんで、わしは今まで元気に生きとるんじゃ」
今年で100になるじいちゃんの、最近の口ぐせである。
どこまでも続く青い空 (10.24)
「上手ですね」
テンプレの台詞にため息をつく。ひとつ深呼吸して
「彼女の『英雄』はどうですか?」
と尋ねた。先生の顔はちょっと困った風に歪んで、しかし嬉しそうに答えた。
「表現はいい。勇ましさが目に見えるようだ。だが鍵盤のタッチが粗い——-あぁ、君の機械的繊細さが欲しいですね」
機械的、ね。
ピアノも無理か、とさして悔しがるでもなく思う。
「上手」「すごい」「賢い」「天才」
聞き飽きたうすっぺらい感想。
理由は明白、自分はいつも成長しないから。何をするにもどんよりと厚い雲が心を押しつぶして、夢中になれる光を見つけられないから。
ありがとうございました、と一礼して出た教室の外には、いつもの少女がいた。
「タッチが粗いってさ」
「もちろん練習してきたよ!指先がちょっと裂けちゃったけど」
絆創膏だらけの指先を見て震えた。あぁ、狂ってる。
だが彼女の空はきっと、どこまでも青く希望で満ちているのだろう。
なんて羨ましい。なんて清々しい笑顔。
ふと、彼女に恋したら夢中になれるかな。と血迷った事を考えて嘲った。
声が枯れるまで (10.22)
むかしむかし、あるところに光のように凛と透き通る声で歌う少女がおりました。彼女の歌は悪しき気を晴らし、病を治すことができたので“奏鳴の巫女”と崇められていました。
そんな彼女にも治せない人がいました。青白く痩せた少年です。最後まで歌えば治るはずなのに、何故だか途中で胸が苦しくなるのです。
「巫女さま、巫女さま。どうしたの?」
「大丈夫。今度は歌ってみせるわ」
それでも辛くてむせてしまいます。
「巫女さま、巫女さま。無理しないで」
「大丈夫。ちょっと変なだけなのよ」
やっぱり痛くて声が詰まります。
「巫女さま、巫女さま。もういいよ。来てくれるだけで嬉しいんだ」
だいじょうぶ、と言う声は枯れていました。とその時、苦しげなうめき声が耳を貫きました。彼の命はもうほんの少しだったのです。もう一度歌おうとした少女はしかし、青年のどこに力があったのか、強く口を押さえられて叶いませんでした。
「——-、歌わないで。1人の女の子として、これからも生きて」
少女の名前を呼んで、そう言い残した青年は静かに眠りについたそうです。
始まりはいつも (10.21)
————はもう彼女いるらしいよ!
始まりはいつも、酷くあまい匂いがする。
くらくらする頭ばかりたっぷりとあまくて、何かがチクチクと胸を裂いてくのを不気味な笑顔で誤魔化している。
————ごめん、他に好きな人がいるから。
始まりはいつも、耳が燃えたのだと思う。
かっと熱くなったと思えば、羽虫がたかるようなぶうんという音で何も聞こえなくて。異様に顔が赤いのを自覚して、そっと握った指先の冷たさに震える。
始まりはいつも、すきま風が吹いて。
カチカチと歯を鳴らして、ベッドを恋しがりながら古びたふとんに体を縮めている。
————別れて、くれないか?
始まりはいつも、終わりさえわかっているのに。
あまくあたたかくとろけた時間に脳を溶かしこんで、喜んで思考を放り捨てるのは何故なのだろう。
忘れたくても忘れられない (10.17)
「もー!いい加減変えてよそれ」
ミソッソソ〜ファラッララ〜♪と愉快な音で鳴るスマホを取って、青年はケラケラと笑う。
「いいじゃん『茶色の小瓶』。俺らの馴れ初めだもんな?」
「だから絶対それ嘘じゃん!」
ムッとして返しながらも口元が緩んでしまうのが止められない。
あれは小学生の時。なぜか突然しりとりをやろう、と誘われた私は彼と話せるのがとっても嬉しくて。ずっと喋っていたいと3日間もしりとりを続けたのだ。“ルリビタキ”とか、意味も知らない言葉を調べる、なんてズルもしたけど。
その3日目、直前に音楽の授業であの曲をリコーダーで吹いた私は、「りゃくちゃ」と返した彼の言葉に意気揚々と「ちゃいろのこびん」と叫んで負けたのである。
「嘘じゃねぇよ。あん時のおまえのドヤ顔、マジで可愛かったって」
「またからかう!」
そう彼をつつくとまた着メロが鳴る。思わず吹き出していっぱいに満ち足りた顔で笑った。