やわらかな光 (10.16)
「この絵を引き取って貰えませんか?」
私がその提案を受けたのは、頼まれてから20年も経った後だった。
厚い布で丁寧にくるまれた変わらぬ美貌の女性を迎えると、まるで素朴なスープが身体に染み渡るようなあたたかい感動が押し寄せた。小さな花束を後ろ手に、こちらを振り向いてはに噛んだ笑顔を見せる女性。豊満な体つきの一方で幼なげな表情、幸せそうに咲き誇る周りの花々もよく近づくと、どれも少し枯れているのがわかる。
どこか切ない寂しさを覚える「秋の女」に初めて出逢ったのは、仕事も妻も失った日だった。
薄暗い美術館にやわらかな光が差し込むよう設計されたつくり。その頬に涙すら感じさせる女に取り憑かれた私は、毎日引き寄せられては永遠に眺めていた。
その美術館が閉館になると聞いたのはそれからすぐのことで。女性を引き取って欲しい、という願ってもない頼みをされた私はしかし、受け取ることは出来なかった。あまりに美しく儚く、幸せをいっぱいに感じようとしている彼女を沈んだ私の元に置くわけにはいかなかった。
ベッドも机も白い私の部屋に秋の女を座らせてもらった。と、その瞬間草花が一息に芽吹いたように胸は晴れやかになって。瞬きを一つ、うっとりとした私はそぅとその頬に唇を寄せて、永遠の眠りについた。
高く高く (10.15)
たん、たん、たんっ
軽快な縄跳びのリズム。朝日がほの暗く冷たい庭をキラキラと差す。
298、299、300
汗を拭って玄関を開け放つと、汲んでおいた牛乳を一気飲み。それからマジックペンの筋でしましまになった柱に背をピッタリとつける。
———私より15㎝上くらい、が理想かな?
小学生の頃、その呪いの言葉を受けてかれこれ10年間このルーティーンを続けている。
骨に刺激を与えたら背が伸びるとか、牛乳を飲んだら伸びるとか。合ってるかなんて知らないけれど、信じるしか道はなくて。
「きたっ176.0!」
アイツは161.0㎝だから、間違いない。絶対。
掠め取った彼女の身体測定の紙を思い出して、ガッツポーズしながら跳ねる。あのあとめっちゃ怒られたけど。体重は見てないのにな。
高校生になってやっと彼女の背に並んで、最近ついに念願の上目遣いに射抜かれた。条件を満たした今日こそ、こ、っ告白する。
自分にそう言い聞かせてごくりと唾を飲む。
高く、高く。それだけを目指した10年間。
果たして彼は望みを果たせたのか。それはまた別のお話。
ココロオドル (10.9)
「今週日曜空いてる?じゃあ海王星行こう」
「ちょっと待って、空いてるなんて言ってないし海王星も行かない」
うそつき!暇だって言ってたくせにぃと膨れるどうしようもない幼馴染をシッシッと追い払う。
「あんたね、いくら片道5000円で行けるってたってまだまだ危険なんだよ?宇宙に放り出されて窒息死とかマジあり得ないから」
そんなの0.5%だよ〜と笑うから宝くじ当たるより確率高いっつーのとデコピンする。可愛い顔して恐ろしい子だ。
「太陽系の1番外側まで行ったら何が見えると思う?海王星の青と地球の青じゃどっちが綺麗かな?ねぇねぇ、ワクワクしないの?」
無視。
ワクワクに命は換えられません。
「しょうがないな。サプライズしたかったんだけど」
顰めた顔のまま振り返ると、幼馴染がにんまりとして口を開く。
嫌な予感。
「海王星ってダイヤモンドが降り注いでるんだって」
うわ、それは。なかなかちょっと、いや、かなり。
「行きたい」
「君はホント、わかりやすくって可愛いな」
また負けた。
私には、ぺろりと出された憎き舌を睨むことしかできないのだった。
束の間の休息 (10.9)
「♪〜〜」
あと少し、あと少し、、っ
息が細く震えて緊張が首を絞める。
ブレスはまだなのに、腹から息が届かない。
「「フっ……‼︎」」
束の間、清い流れが濁り狂った。5人しかいない合唱部。2人消えれば致命傷なのは明白で。
「ほんっとにごめん。オレが我慢しきれなかったばかりに…」
「お前のせいだけじゃないさ。合唱は団体戦だろ?」
そう言いつつ声に悔しさが滲んでいる。当たり前だ。最後のコンクールだったんだから。
「でもさ、私は嬉しかったよ?」
穏やかにまぶたを閉じた部長が歌うように言う。
「私たち2人して消えて、一緒に吸って。なんだか、ちゃんと合唱してるんだぁって思えたから」
ゆったりと視線を上げた彼女は、幸せそうに微笑んだ。
過ぎた日を思う (10.7)
え?——あぁ、ごめんね。“ブックストア”って私のあだ名だったから。小学校の頃の。
ちょ、ダサいとか言わないで。
呼んでたのは一人の男子だけだよ?「ブックストア、今日読んでるのは何の本なん?」みたいに、毎日私の読書に干渉してくるだけ。
別に悪口じゃないし困ってなかったけど、ある日宿題で
「嬉しかったことも、嫌なことも、今のみんなの気持ちを教えて」
って作文を渡されたんだ。それで——何となくあだ名のことを書いたら、すぐ呼び出されちゃって。
ほら、あの頃いじめとか問題だったじゃん?だから、仕方ない。
でもね。
次の日名字で呼ばれたら、肺が急にちっさくなって息が苦しくなったの。視界がじんわり滲んで、よくわかんないけど嫌だーって。
先生はからかってると思ったんだろうけど、私にとってはアイツからの“特別”のしるしだったの。些細な会話の繰り返しが、私の大好きな時間だったんだよ。