靴紐
※ご注意、この話には軽い性的描写が含まれます!
7、8年前、「結び目がほどけない靴紐」という商品が売られていたのを覚えている人っているかな?形状記憶の特殊繊維で、結んだ形を保ち続けるという宣伝文句だった。
私は当時学生でスニーカーばかり履いていて、好奇心でその靴紐を買った。色は青紫と赤紫の二色セット。どんな靴に合うか少し悩んだけど、シルバーのスニーカーに赤紫を通すと意外に映えて、ちょっと嬉しくなった。
外に履いていくと、確かに歩いても解けない。結び方が下手くそな私でも、結び目が緩むこともない。
でもせっかくだから凝った結び方をしてみようと、不器用なりに動画を見ながら「お花アレンジ」と呼ばれる結び方に挑戦した。小さな花の形ができあがったときは、思わず写真に残しておきたいくらい可愛かった。私はその靴紐を気に入り、しばらく毎日のように使っていた。
「解けない靴紐っていうのがあってさ」
部屋に来ていたジュンに、私はその話をした。ソファで身体を寄せ合いながら、なんとなく話題にしただけだった。
ジュンとはもう何度もベッドを共にしていたけれど、付き合っているわけではなかった。友達でもなく恋人でもなく……世間的に言えば、多分セフレっていう関係が一番しっくりくる間柄だった。
「へえ」最初は興味を示さなかったジュンが、私の足首を撫でながら笑った。
「その紐さ、本当に解けないか試してみようか」
未開封の青紫の紐を取り出し、ジュンは私の足首に巻きつけていった。この状況も、紐の繊維が肌をくすぐるのも可笑しくて、私は込み上げる笑いがとまらなかった。ジュンは少しひんやりした繊維を肌に跡が残らない程度に締めつけて、リボンの形の結び目を作った。
「……エロいじゃん」
私の脚をそっと持ち上げて、肌に結んだ紐をしげしげと眺めてジュンは言った。私は笑いながらバカじゃないの、と返したけど、ジュンのそういうところが可愛くてたまらなかった。
その後ジュンは私の背中に腕を回しながら何気なく言った。
「最後まで解けなかったら、ちゃんと付き合おうか」
私はまた笑って誤魔化した──でも、している最中、こっそり結び目を緩めて解いたこと、ジュンは気づいていただろうか。
私とジュンは、一緒に食事もする。でもそれはいつもセックスのあとだ。たくさん動いたからお腹すいたね、とかそんな感じで。つまり私とジュンが会う理由はセックスで、もし付き合うとしたら何を私達の会う理由にしていいか分からなかった。ジュンのこと嫌いじゃなかったのに。嫌いな人とは、しない。でも多分、彼が軽く結ぼうとする人なら、私は軽くほどこうとする女なんだろう。
朝、靴紐はだらしなく解けて足元に落ちていた。
「やっぱ解けちゃったね」
そう言って二人で笑い、その後もう紐のことは話さなかった。ジュンも「付き合おうか」と二度と言わなかった。
ジュンとは大学を卒業するまでダラダラ関係は続いたけど、社会人になると自然に切れた。いまの私のシューズクロークには、パンプスやミュールばかりが並んでいる。靴紐のない靴。脚を綺麗に見せてくれる、そういう靴が好き。靴紐の結び方は相変わらず下手だ。
あの靴紐は、気づけば市場から消えていた。結局、売れなかったらしい。ほどけないはずでも、結んだ以上はいつか解ける。靴紐も、人間関係も。解けたら結び直せばいい──本当は、それができればいいのだけれど。
ソファに寝そべりながら、私は自分の脚を持ち上げて眺めた。
あのときジュンが結んだ足首の結び目は、意外にも綺麗な形だった。
ジュン。あのエロくて可愛い男。今ごろ何をしているんだろう。彼女の足首に、リボンの形に紐を結んだりしているのかな。ほどけた結び目の先なんて確かめる気にもならないけど。
答えは、まだ
俺は地球を守る正義のヒーローを生業としているのだが、最近この星の住人が本当に守るに値するのかどうか疑念が生じている。俺が守るべき人々はその内側に、憎悪と蔑みを捨てきれず歪んだままでいる。俺が外敵を蹴散らしても、翌日にはもう彼らは争いの火種を撒いている。その中で正義を掲げて戦うことが今や重荷だ。
きっと誰もが「正義は勝つ」という物語を俺に重ねていた。そこにはいつも分かりやすい答えがあった。正義の敵がいつも悪とは限らないのは、彼らの方がよく知っているだろうに。
鏡の中に映る自分は、皆が憧れるという仰々しいコスチュームに身を包みんでいる。俺は結局、彼らが物語を信じたいが為に、分かりやすい答えを求めるが為に作り出された都合のよい虚像に過ぎず、本当の俺自身は、真の正義には程遠いところにいるのではないか。そんな考えが俺に取り憑くようになってしまった。
今日も、どうしたいのか答えが出ないまま地球にやってきた異星の怪人どもを見つけては片っ端から叩き潰す。答えを出せないもどかしさは、奴らの血が飛び散り肉を砕く手応えを感じた時、一瞬消え去った。奴らの肉片を踏みつけながら、俺は血で汚れた自分の掌を見る。べっとりと血をまとわせた掌はやけに熱く、その熱はじわりと心地よく身体に浸透する。いつかこの熱は暗い炎となって何もかも焼き尽くす──ふとそんな想像が頭をよぎり、俺は掌を握りしめてその熱を隠した。
センチメンタル・ジャーニー
僕はセンチメンタルな人間だ。若い頃はそれを理由にからかってくる奴もいて、自分のセンチメンタルな部分にコンプレックスを持っていた。だが今はもう、自分のセンチメンタルさを受け入れつつある。
僕のような人間は、旅行に限らず全てのことがどうしてもセンチメンタルになってしまう。ショッピングでも読書でも、筋トレさえもどこかセンチメンタルだ。
もちろん旅行は、日帰りだろうが一ヶ月の長期旅行だろうがセンチメンタルになる。やはりジャーニーといえばセンチメンタルだと僕は思う。センチメンタルじゃないジャーニーを想像してみてほしい。ロジカル・ジャーニー? クール&ドライ・ジャーニー? そんなの僕はごめんだ。ジャーニーにセンチメンタルはつきもの、傷ついた心のままに泣いてこそだ。
さて、今は九月の中旬。実はこの季節こそセンチメンタル・ジャーニーにピッタリのシーズンだ。センチメンタル・ジャーニーというと、枯葉舞い散る秋深まる頃が似合いそうだけど、初心者にもお勧めしたいのが九月のセンチメンタル・ジャーニー。センチメンタルの理由はなんでもいい、終わってしまった恋、全てがうまくいかない人生でも。
乗り込んだ列車の車窓の外を流れていく景観は、まだ夏の風景。だけど夏に生い繁った鮮やかな緑が、いつの間にか薄れていることを知る。「季節が行ってしまう感」に傷ついた心を重ね合わせて、思いっきり胸を締め付けられてみる。切ないBGMを流せば効果up、センチメンタル全開でいこう。
さらに旅先でふらりと入った良さげなカフェで甘いスイーツを注文するのもおすすめ。「人生に必要な甘さとは……」なんてセンチメンタル気分を爆上げできる。
僕的には観光客でにぎわう有名店より、地元の常連客しかいないような店の方がベター。程よい疎外感があり、良質なセンチメンタルを味わえる。
余裕があればフラフラと歩いて傷口をえぐるセンチメンタルスポットを探すのもいい。でもどんな旅であろうと、センチメンタルを思う存分満喫する、それが僕のセンチメンタル・ジャーニーだ。
ちなみに僕はほぼ毎月センチメンタル・ジャーニーに行くのだが、他の旅行客を見た時、あ、この人今センチメンタル・ジャーニー中だなってピンとくるようになった。ふと遠い目をしたり風に吹かれたりなんかしてたら、もうほぼセンチメンタル中だと思っていい。
僕くらいになると、これは傷心したてのセンチメンタルだな、とか、いつまでも過去を引きずるタイプのセンチメンタルか、とか色々分かるようになる。ちょっとした連帯感は感じるけど声をかけたりはしない、センチメンタルなんで。せいぜい軽い会釈をするくらいだ。
でも過去に一人だけ。一目みて、これは気合いの入ったセンチメンタルだって分かって意気投合した人がいる。今の妻です。
君と見上げる月…🌙
「ねえねえ、見てよ、月がきれい、すごく大きいよ!」
夜空にぽっかり浮かんだまんまるな月を見て、僕は思わず叫んだ。
「まだ月が地表に近い時間帯だからそう見えるんだろう」
父はその時何かを読んでいたのかもしれない。めくるページから目も上げなかった。
「外に出たら、もっときれいに見えるよ」
僕は父を外に誘った。父にも明るくて大きな丸い月を見て欲しくて。
「夜は冷えるから外に行くなら何か羽織っていけ」
でも父はそう言っただけだった。
外に出た僕はしばらく一人、明るく光を放つ月を眺めていた。何か意地のようなものがあったのか、僕は父が外に出てくるのを待っていた。結局父は外に出ることもなかったし、そろそろ中に入れ、と声をかけることもなかった。いつの間にか僕はそのまま寝入ってしまって、気がついた時にはもう家中の電気が消え静まり返っていた。僕のことはすっかり頭から抜け落ちてしまったらしい。
笑える話だが、いつも僕の胸をちくりと刺す忘れ難い記憶だ。
父は万事そんな調子の人だった。冷たい人ではないけど、自分の世界が何より大切で、その閉じた世界に生きているような人。
あの夜、大きな月を一人で見ながら僕は気づいた。父にとっては、息子である僕も父の周辺にぼんやりと存在しているたいして興味の持てないものの一つにすぎないと。
母はそんな父に見切りをつけたのかすでに家を出てしまっていた。母が去った朝でさえ父は、いつもと変わらず新聞を広げ黙ってコーヒーを飲んでいた。
そして母が家を出た時僕を連れて行かなかった理由の一端を、今では理解している。結局僕もまた、父と同類の人間だということだ。感情をおざなりにしがちという点で特に。
父がこの世から去ってから結構な年月が経ったのに、そんなことを思い出しているのは、今夜の月がやけに明るくあの夜を思わせるからかもしれない。
「I love you」の洒落た言い回しとして「月が綺麗ですね」というのは有名だけど、実に適切な意訳だと思う。一緒に月を眺めたいと思うのは、そういうことだ。父と一緒に月を眺めたかった幼い頃の僕が、今ではひどく懐かしい。
小さい頃の1人きりの月見が原因というわけではないが、あまり月を見上げようとは思わない。それでも月の美しさは理解しているつもりだ。
今夜の月。白く澄んだ光は僕にも届く。もし今夜、あの月の光を誰かと共有するとしたら、僕と同じように1人で夜空を見上げる見知らぬ誰かがいい。
空白
問1〜3の「 」の空白に当てはまるものを、それぞれ①〜③の中から適切なもの選んでください。
問1
彼女には度々眠れない夜が訪れる。何度寝返りを打っても眠りは遠のくばかり。夜更けに訪れるこんな空白の時間というのは厄介であることを彼女は知っていた。無限のようであり、決して無限ではない空白の時間。彼女はベッドを出て、恐る恐るpcの白い画面に「 」を打ち込んでいった。
①優しい目をしたあの人への想い
②癒されないまま放置された傷跡
③世界を自分に都合よく塗り替えるための嘘
問2
彼女の心を掬い取るように言葉は溢れ出す。空白でしかなかったはずの自分の心の奥底から思いもしない言葉が引き出され、彼女自身が驚いたくらいだ。彼女は無心でキーボードを打ち続ける。その行為はどこか「 」に似ていると彼女は思う。
①降り積もった新雪に足跡をつける遊び
②夜行列車に片道切符だけで乗車すること
③秘められた欲を顕にする官能的な行為
問3
空が白み始める頃、ようやくまどろみが彼女を包み込む。彼女はもう自分の中の「 」に気づいている。彼女は自分の内側に「 」が広がっていくのをとめることが出来なかった。
①全てを断ち切ってしまいたい衝動
②叶わないと知りながら芽生えてしまった恋心
③どんなものでも埋められない空白