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9/12/2025, 11:00:11 PM

台風が過ぎ去って


台風がこの街を襲ったとき、あの影を見たのは何人いただろう。吹き荒れる風の中、確かに黒い影はいたのだ。建物の中へと急ぐ人を突き飛ばし、街路樹を揺らし、窓ガラスを叩いては割り、駐輪場の自転車を蹴り倒していく影を私は窓から見ていた。影は、けたたましく笑っていた。

影と目が合ってしまったのは、プランターを玄関に運び入れている時だった。向かいの家の庭に咲いたテッセンの花を、影は乱暴に握り潰して引きちぎっていた。影は私に気づいて顔をこちらに向けた。輪郭もはっきりしないような黒い影なのに、その表情が分かってゾッとした。影の空洞のような目。その目が私を見ていた。ニタリと笑って影は言った。
「よう。おいでよ。俺の嫁にしてやる」
瞬間、黒い風が竜巻のように巻き上がった。身体が浮くような気がして私は咄嗟にプランターを抱えてしゃがみ込んだ。影は私に覆い被さって耳元で囁く。
「知ってるぞ、お前。お前、俺のこと見てただろ。お前も壊したいか?だったら俺と一緒にこの街、全部めちゃくちゃにしてやろうぜ」
怖くなって私は影を押しのけ、プランターを投げ飛ばして家へ駆け込み、鍵を回した。影はドアを壊れそうなほど強く叩き、しつこく叫び続けた。
「こいよ、俺の嫁にしてやるって言ってんだ!」
私は耳を塞ぐ。ドアを叩く音は強まっていき、影の叫び声なのか暴風の音なのか分からなくなる。私はただ、早くこの暴力が過ぎ去ることだけを祈っていた。

台風は街に爪痕を残して去っていった。
暴風雨の後の、やけに晴れやかに澄み切った空を見て私は胸を撫で下ろす。でもあの影の笑い声はまだ耳の中に残っていた。
街のみんなは何も言わなかったけど、あの影を見たのは私だけじゃないと思う。
だってあの台風が過ぎ去った後、街の人々は少しおかしくなった。誰もがどこかピリピリし始めて口数が少なくなった。笑顔は消え、目に翳りを抱えたまま下を向いて歩くようになった。何かを疑うようであったり、常にどこか怯えていたり、何かを必死に押し殺していたり、あるいは無気力さを隠しもしなかったり。街の人たちは変わってしまった……きっと私と同じように、あの影に何かを囁かれたんじゃないだろうか。
気がつけば私も、あの影のことばかり考えている。あの、台風の中で好き勝手に暴れていた影。この街をめちゃくちゃにしたように、人々の心まで破壊して傷を残していったみたいだ。妙なことばかり考えてしまう。あの影は、見た人の心をかき乱してひっくり返し、隠さなくちゃいけないものまで揺り起こす、そんなものだったとしたら……? 影はあの空洞のような目で私の心の奥に何を見たんだろう──いや、あの影のことを考えるのはやめた方がいい。知りたくもない自分を知ってしまいそうな気がする。
でもあれ以来、台風が近づくたびに、ごうごうと音を鳴らして吹き付ける風の中にあの影を探してしまう自分がいる。あのネジの外れたような、バカバカしくて原始的な喜びのような笑いが暴風の中に紛れ込んでないか、確かめずにはいられないのだ。

9/12/2025, 5:06:18 AM

ひとりきり

あなたが私の部屋にやって来るのは、いつも深夜。予告なんてなし。ちょうど私が寝入る直前、ほんの少しの隙を狙うようにして、あなたはやって来る。
あなたは当然のように私のベッドの中に滑り込む。
「天国みたいに温かい」
ようやく満たされた──そんな風に聞こえて、私はため息をつく。 

「あなただけは何処にも行かないでね。あなたがいなくなったら私、本当にひとりきりになっちゃう。そしたらもう、生きていけないよ」

このセリフを言う時、あなたはいつも枕に顔を押し付けて弱々しく笑ってみせる。表情もセリフも芝居がかっていて、もはや冷笑する気にさえならない。

次の日の朝、通知が来たあなたは急いで着替えて髪の毛を整える。私がシーツに残ったあなたの匂いに埋もれてる間に、あなたはドアを閉めて男の人のところへ行く。あなたにとって私をひとりきりにすることは、息をすることのように簡単らしい。


9/10/2025, 1:18:54 PM

Red,Green,Blue

①【色の終わり、空白の始まり】

この家を出るわ、と私は言った。
もう終わりにしたいの。

頬を膨らませ、怒りに足を踏み鳴らして小さな女の子が喚く。
「あたしを置いていくなんて許さない!」
ごめんね。あなたは連れて行けないの。
私は小さな女の子を赤い部屋に閉じ込めた。

穏やかな微笑みを浮かべて静かな男が優しく問う。
「この家の外には、あなたを微笑ませてくれるものがあるのですか?」
そんなの家の外にも中にもあったためしがない。
私は静かで優しい男を緑の部屋に閉じ込めた。

母によく似た女が縋り付いて引き止める。
「行かないで、行かないで、行かないで」
もうあなたの思い通りにはならない。
私は母によく似た女を青い部屋に閉じ込めた。

三つの部屋の扉を閉ざしたとき、家は音もなく崩れた。壁も床も天井もすべての色が溶け合って消え去り、残ったのは目が痛むほどの白だけになった。



②【Red Girlの涙】

緑色の髪の毛が素敵な男の子。
初めて会った時から、はにかんだ笑顔が私を虜にした。
彼は生まれつき色が分からない。モノクロの世界に生きている。
でも色の違いは色の違いは濃淡で分かるんだ、と彼は言った。
モノクロの彼の世界はそんな風に色が溢れている。
一番濃い色は赤なんだって。
だから私は赤に染まった。服も靴もバッグも全部赤。髪の毛も赤くしてマニキュアもリップも赤。赤いピアスに赤いコンタクト。
彼が見ている世界で、私を見つけてほしい。彼の目に真っ先に飛び込むのは私であるように。
だけど彼が選んだのは、青いジャケットを颯爽と着こなすあの子だった。
緑の髪の毛と青いジャケットはこれ以上ないくらい似合ってる。並んで歩く姿はとてもステキだった。
全身赤に包んだ私を見た人は皆笑った。
「滑稽だね」「全然似合ってないよ」
私は恥ずかしさのあまり俯き、悲しみの中で涙を流す。涙は青い色をしていて私の赤と混じり合った。
気がつけば、赤と青は混じり合って紫になった。
毒の色?ううん、これは私だけの新しい紫。この紫を一人でも大丈夫の色にするんだ。

9/8/2025, 2:31:26 PM

仲間になれなくて


闇夜の森へとあたしは一人、踏み出した。
背後であの子の哀しげな遠吠えが聞こえる。ごめん、一緒には行けないの。今回ばかりは来ちゃだめ。優しいあの子は連れて行けない。
一人で進むしかない。森の奥深くに棲むあいつらに会うためだから。

毛むくじゃらの巨体、耳まで裂けた口、くさい息、黒くて長い爪が伸びた手足、瞼のない黄緑の目は闇の中にギョロリと光る。頭に角を生やした奴、全身鱗だらけの奴。どんな奴もみんな醜い。醜いのは見た目だけじゃなくて心もだ。命なんか虫ケラみたいに思ってる凶悪な奴ら。森の奥にはそんな奴らが棲んでいる。

あたしの顔は森の木の枝に引っ掻かれて傷だらけ、足も泥でぐちゃぐちゃ。
それでもあたしは奴らを探して森の奥を彷徨う。あいつらの仲間になるために。
散々歩き回って、あたしは叫んだ。
「ねえ! あたしをあんたたちの仲間にしてよ!」
木の影から大きな影が揺れてニヤついた顔が現れる。ニターっと広がった口から牙が飛び出し涎がダラダラと落ちる。ちっとも怖くない。
あたしは言った。
「あんた達化け物なんでしょ。あたしを化け物の仲間にしてよ」
化け物たちは大笑い──俺たちの仲間になりたいんだってよ!
一匹の化け物が足を投げ出して言った。
「仲間になりたいなら、この足舐めな」
汚い足。硬い指毛がびっしり、黒い爪は尖って刃物みたい。匂いも酷い。だけどあたしは必死で舐めた。這いつくばってぺろぺろと。きっと娼婦ってこんな感じだ。舌が痛くて気持ち悪かったけど、あたしは娼婦になった気分で上目遣いで舐めてやった。
化け物はあたしを見下ろして鼻で笑った。
「本当に舐めやがった!」
別の化け物が言った。
「なあ、なんで俺たちの仲間になりたいんだ?人間のくせに」
それは……とあたしは口を拭って、化け物たちをまっすぐ見ながら言った。
「あたしは、化け物になって人間たちに酷いことをしたいの」
へえ、と化け物はせせら笑った。
「人間どもに、どんな酷いことをしたいか言ってみな」
あたしは目を閉じて思い浮かべる。あたしをこの森へ向かわせた奴ら。親、先生、教室の子。あたしの周り全員だ。あたしを苦しめてあたしを無視してあたしから全部奪ってった奴ら。あいつらにはどんな酷いことをしても足りない。あいつらと同じ人間なんかでいたくない。
「腹を切り割いて生きたまま内臓を引き摺り出してやる。顔の皮膚を全部削いで口に詰めてやる。歯を折って目をくり抜いて髪の毛を燃やす。逃げられないよう足をハンマーで粉々にしてやる。生き埋めにして恐怖を与えて、永遠に忘れられない苦しみを味合わせるの。もう二度と生きたいって思えなくなるほどの苦しみを」
あたしが一気に言うと、化け物たちはまたもやお腹を抱えて大笑い。
「笑わせんな!」
「その程度かよ?」
「つまらんつまらん。やっぱ人間ってクソだわ。聞くだけ無駄だった」
化け物たちに笑われて、あたしは顔をぐちゃぐちゃにしながら言った。
「どうやったらあんた達の仲間になれるの?」
化け物は大きな目玉をギョロリと回しながら言った。
「人間のまま惨めったらしく生きてる方がお似合いだぜお嬢ちゃん」
「あたしがもっと醜くなって酷いことが出来るようになったら、あたしを仲間にしてくれる?」
「イヤだね。人間ってだけでお断りだ。ここまで来た勇気に免じて食わないでやるからさっさと帰んな。今のままで十分醜いぜ、お嬢ちゃん。クソみたいに惨めだけどな」
化け物たちは長い爪であたしをつまみ上げた。
あたしを森の外に放り投げた後、化け物達は闇に紛れていなくなった。
やっぱりあたしは誰の仲間にもなれないんだ。
やっぱりあたしはどこまでも独りなんだ。
あたしは地面に突っ伏して声を上げて泣いた。死んじゃいたかったのに涙は全然止まらなかった。

ふと気がつけば、あたしの背中に温もりがある。クンクン、という小さな鳴き声。置いてきたはずのあの子。唯一あたしを傷つけないでいてくれる優しい飼い犬。千切れんばかりに尻尾を振って鼻先をあたしの背中に擦り付けてる。
「ばか。化け物に見つかったらどうすんの」
止まらない涙を、温かい舌が一生懸命舐めとっていく。あたしは、ただ一匹の優しい小さな生き物をぎゅっと抱きしめる。トクトク、と少し早い鼓動があたしを包んでくれて胸の奥がじんわりと熱くなる。
その時微かに、笑い声が響いたような気がした。あいつらだ。化け物たちのあざ笑う声──ほらな、やっぱりお前は俺たちの仲間になんかなれないだろ。命の温もりに縋るなんて吐き気がする。俺たちには全く理解できないね。
化け物たちの声は頭の奥でこだまする。
──その犬を殺して食ったら、お前を仲間にしてやってもいいぜ。そんなちゃちな温もり、さっさと潰しちゃいな。
あたしは胸の中の小さな温もりを強く抱きしめて、ただただ震えていた。

9/7/2025, 3:08:52 PM

雨と君


朝、雨の音で僕は目を覚ました。空いっぱいに広がった灰色の雨雲が太陽を隠している。朝のはずなのに夜の続きみたいに薄暗い。朝のようなそうじゃないような。少し前の僕だったら、この曖昧さを好んでいた。
だけど今は違う。取り残されているような不安を、灰色の空に重なるようになった。年齢的なものかもしれないし、安定しない社会のせいかもしれない。僕の人生は不確かでこの先も曖昧で朧げなまま、ただ日々が過ぎていく。雨だからこんな風に気鬱になっているんだろうか。ならばこんな日は、雨を理由に、ベッドに潜り込んでいたい。
それなのに、容赦してくれない君がいる。
ベッドの端で、僕をまっすぐに見つめているのは分かってるんだ。
頼むからそんな風に見ないでほしい。僕は君のその目にどうしても逆らえないんだよ。
とうとう根負けした僕はベッドを出た。
着替えてレインコートを羽織った僕に、君は跳ね上がって喜び、待ちきれないとばかりに、リードを咥えて来て僕に差し出す。
──分かったよ、君が行きたいなら。

外に出ると、雨はますます強まっていた。灰色の雲はさらに空を重たくして、朝とは思えない暗さで、まるで時間が逆行してしまったかのよう。薄暗い、雨音に包まれた灰色の街。出歩いているのは僕らくらいだった。
──ほらな、僕ら以外誰も歩いてない。
なんだか心許ない。僕らだけ別の世界にポツンと迷い込んでしまったみたいだ。

だけど、君は軽やかに水たまりを飛び越えた。雨も泥も跳ね上げては遊ぶ。時々振り返って僕を見る君のその仕草に、僕もつい笑ってしまって。
水たまりを跳ね飛ばして遊ぶ君を、雨に濡れながら眺めた。帰ったらずぶ濡れの君を毛をタオルで拭いて綺麗にして、僕はあたたかいコーヒーを淹れよう。遊び疲れた君は僕の膝の上で丸くなって眠る。そして僕は、君のつやつやの毛並みを撫でて、君の温かな体温と寝息に、とてつもない幸せを感じるんだ。
でもこうして雨の中、水たまりで跳ねて遊ぶ君を見ているのも悪くない。君はすごく素敵だ、何もかも自由だ。世界が灰色でも君がいれば僕はいつだって、いい気分になるんだ。

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