台風が過ぎ去って
台風がこの街を襲ったとき、あの影を見たのは何人いただろう。吹き荒れる風の中、確かに黒い影はいたのだ。建物の中へと急ぐ人を突き飛ばし、街路樹を揺らし、窓ガラスを叩いては割り、駐輪場の自転車を蹴り倒していく影を私は窓から見ていた。影は、けたたましく笑っていた。
影と目が合ってしまったのは、プランターを玄関に運び入れている時だった。向かいの家の庭に咲いたテッセンの花を、影は乱暴に握り潰して引きちぎっていた。影は私に気づいて顔をこちらに向けた。輪郭もはっきりしないような黒い影なのに、その表情が分かってゾッとした。影の空洞のような目。その目が私を見ていた。ニタリと笑って影は言った。
「よう。おいでよ。俺の嫁にしてやる」
瞬間、黒い風が竜巻のように巻き上がった。身体が浮くような気がして私は咄嗟にプランターを抱えてしゃがみ込んだ。影は私に覆い被さって耳元で囁く。
「知ってるぞ、お前。お前、俺のこと見てただろ。お前も壊したいか?だったら俺と一緒にこの街、全部めちゃくちゃにしてやろうぜ」
怖くなって私は影を押しのけ、プランターを投げ飛ばして家へ駆け込み、鍵を回した。影はドアを壊れそうなほど強く叩き、しつこく叫び続けた。
「こいよ、俺の嫁にしてやるって言ってんだ!」
私は耳を塞ぐ。ドアを叩く音は強まっていき、影の叫び声なのか暴風の音なのか分からなくなる。私はただ、早くこの暴力が過ぎ去ることだけを祈っていた。
台風は街に爪痕を残して去っていった。
暴風雨の後の、やけに晴れやかに澄み切った空を見て私は胸を撫で下ろす。でもあの影の笑い声はまだ耳の中に残っていた。
街のみんなは何も言わなかったけど、あの影を見たのは私だけじゃないと思う。
だってあの台風が過ぎ去った後、街の人々は少しおかしくなった。誰もがどこかピリピリし始めて口数が少なくなった。笑顔は消え、目に翳りを抱えたまま下を向いて歩くようになった。何かを疑うようであったり、常にどこか怯えていたり、何かを必死に押し殺していたり、あるいは無気力さを隠しもしなかったり。街の人たちは変わってしまった……きっと私と同じように、あの影に何かを囁かれたんじゃないだろうか。
気がつけば私も、あの影のことばかり考えている。あの、台風の中で好き勝手に暴れていた影。この街をめちゃくちゃにしたように、人々の心まで破壊して傷を残していったみたいだ。妙なことばかり考えてしまう。あの影は、見た人の心をかき乱してひっくり返し、隠さなくちゃいけないものまで揺り起こす、そんなものだったとしたら……? 影はあの空洞のような目で私の心の奥に何を見たんだろう──いや、あの影のことを考えるのはやめた方がいい。知りたくもない自分を知ってしまいそうな気がする。
でもあれ以来、台風が近づくたびに、ごうごうと音を鳴らして吹き付ける風の中にあの影を探してしまう自分がいる。あのネジの外れたような、バカバカしくて原始的な喜びのような笑いが暴風の中に紛れ込んでないか、確かめずにはいられないのだ。
9/12/2025, 11:00:11 PM