誰もいない教室
放課後の夕暮れ時、誰もいない教室に幽霊が出る。幽霊に見つかったら一生取り憑かれるんだって。
という噂を確かめるために、僕とリョウジは下校せず、ひそかに家庭科準備室に隠れていた。
リョウジが、肝試ししようぜ、と言ったとき、クラスのほとんどはその誘いに乗らなかった。習いごとがあるから、とか適当な理由をつけて断っていた。
僕も塾があるから嫌だったけど、リョウジに押し切られてしまった。塾なんか体調悪いんで休みますって言っとけよ。そう凄まれて、ほぼ強制参加。
静まり返った校舎は、やっぱり独特の不気味さがあった。
家庭科準備室の大きな戸棚の影、リョウジとピッタリとくっつきあって僕らは隠れていた。リョウジの息遣いと少し汗ばんだ肌。リョウジはいつも少し体温が高かった。
「ねえ、やっぱり帰ろうよ……」
「お前までビビってんじゃねえぞ。今更やめられるかって」
「リョウジは家に帰らなくて大丈夫? お母さん、心配しない?」
「うるせえ、黙れチビ」
リョウジはぶっきらぼうに言うと、僕をどついた。リョウジが不機嫌になった理由は、なんとなく察していた。リョウジのお母さんはシングルマザーで夜に働いている人だっていう噂。でも正直、そんなのどうでもいい、幽霊も。僕は塾に行かなかったことが親にバレたらどうしよう、そればかり気になっていた。
突然、ガラリとドアが開く音がして、僕らは咄嗟に息を殺した。
家庭科準備室に入ってきたのは、僕ら4年の担任の平崎先生と6年担任の柴野先生だった。
明日ここ使うから、とか、準備手伝うんで、なんていう話声。
先生達がいなくなるまで、僕らは微動だにせず、じっとしていた。先生達は僕らに気づいてない様子で話していた。
先生同士で喋っているのを聞くのは、なんだか新鮮だった。僕らと話す時とは違って、先生っぽくない。平崎先生も柴野先生も同じような年代だからか、砕けた口調だった。僕らが隠れていることも知らず、先生たちは気軽な感じで会話を続けていた。
「平崎先生、どう? 今のクラス」
「あーまあまあっすよ」
「あの子どうよ?」
「……ああ、山下リョウジですか?」
「そうそう、山下。あいつ問題起こしてない?」
「今のところ大きな問題はないっすね、でも嫌われてます、クラスのみんなに」
「あーやっぱそうか、2年の時俺も受け持ったけど、その時も嫌われてたわ、山下」
「でしょうね。わかりますよ、嫌われるの。我が強すぎっていうか、幼いですよね。4年生にもなればもう少し社会性身につけるはずなんだけど、親がアレだから仕方ないところもありますけど」
「平崎先生気をつけろよ」
「え、何がですか?」
「山下の親、色目使ってくるから」
「マジっすかーやば。キッツイですね」
「だろ? 親も息子も痛々しいよな」
「親子で誰にも相手にされないのに気づいてないのか。なんか……哀れですよね。」
「だな、哀れだわ」
先生達の会話は、大体こんな感じだった。やれやれしょうがないよなって、仕事の愚痴を言い合うみたいな軽い感じで。
僕もリョウジも声を殺したままだった。リョウジはずっと俯いていたけど、先生の言ってることは全て理解していたと思う。
そして先生達の言ってることは、全部本当のことだった。
リョウジは嫌われ者。クラスのほぼ全員が彼を嫌っていた。女子なんか結構露骨に嫌っていたとは思う。でもリョウジは気づいていなかった。
授業中に大声で喋って平崎先生の邪魔をして相手にしてもらって喜んでる。山下リョウジはうざい奴。それがクラスメイトの共通認識だ。嫌われてることにも気づかない鈍臭い奴。
露骨ないじめがあれば、リョウジも自分がクラスのどの位置にいたか気づいたのかもしれない。でもそんな明からさまな事をするわけもない。
クラスメイトがしたのは、無視でもない、リョウジの事を軽く扱うことだった。いてもいなくても、どうでもいい奴。リョウジが何を言っても、あーそうだね、とか、うんうん、で流す。何も分からない幼稚園児を相手にするような感じ。
僕くらいだった、リョウジの言うことを聞くのは。まあそれもほぼ無理矢理ではあったけど。もっと言えば、僕はリョウジにあてがわれた人質みたいなものだった。僕がいなかったらリョウジだって、誰も相手にされていないこの状況に気づいたのかもしれない。
先生たちが部屋を出て行った後もまだ、リョウジは俯いていた。
何を言っていいか分からず、恐る恐る僕が帰る?と聞くと、リョウジは無言のまま立ち上がった。
それから僕らは、家庭科準備室を出た。足早に歩くリョウジを僕は追いかけたけど、どんな言葉もかけられなかった。
学校を出るまで、先生達には合わずに済んだ。用務員のおじさんに見つかってしまったけど、ありゃお前ら何してんだ、早く帰れ先生に怒られるぞと、言われただけだった。
逃げるように校門を抜け、僕とリョウジは、ずっと無言で歩いた。別れ道まできたところで、じゃあまた明日、とだけ僕が言うとリョウジはやっと顔を上げた。
その時の顔がいまだに忘れられない。
小学校4年生なのに一気に年老いたような顔。もう全部へし折られてしまって、悔しがることも忘れてしまって、悲しむにも悲しめない、生気を奪われて途方に暮れた顔。
あの日以来、リョウジはすっかりおとなしくなった。誰とも話さなくなり、僕にさえ話しかけてくることはなかった。そしてリョウジが黙り込んでいれば、誰も彼には話しかけない。
リョウジとは中学まで一緒だったけど、あれから同じクラスになったことはない
見かけることも声を聞くこともなかった。登校していたのかどうかさえ、僕は知らない。
あまり思い出したくはない話だ。
いくらリョウジがうざい奴だったからとはいえ、暴力をふるうとか。加害するような奴ではなかったのに。ただその存在が鬱陶しいというだけで皆……僕自身を含め、彼を遠ざけた。あの時僕はリョウジになんの慰めの言葉もかけなかった。むしろ、リョウジが話しかけてこなくなったことに一番ホッとしていたのは僕だった。
だがあの時大人の不用意な発言で、リョウジの何かが奪われたことを一番よく知っていたのも僕だった。
それは、ひどく気持ちの悪いものだった。直接手を下さなくても、無自覚な言葉がナイフ以上の刃となって、リョウジを抹殺したようなものだ。それがクラスメイトではなく大人達によってなされたこと。その無慈悲さが怖かった。
今日、数十年ぶりに、小学校、中学校を過ごしたこの街に戻って来ていた。
車で懐かしい道を運転中、通りを歩いている男が、僕の視線を引いた。猫背で俯いて歩く姿、服もヨレヨレで匂いが染み付いていそうな汚い男。僕の何倍も年老いているように見えた。なんとなくあれがリョウジのような気がして、そうではありませんように、と僕は願っていた。どうか子供の頃の悲しみをリョウジが引きずっていませんように。どうか、心が打ち砕かれたままでいませんように。
男の横を通り過ぎる瞬間、男が僕の視線に気づいて顔を上げる。
心臓がどきりと跳ね上がった。
男はやはり、リョウジだった。そしてリョウジはあの時と同じ顔をしていた。あの日、学校を出てからの別れ道、あの時からずっとそこにいるみたいだった。無邪気さも何もかも一瞬で潰されて、無力さだけが剥き出しになったまま、リョウジはそこにいた。
リョウジの過去のある一点だけを見つめたその眼差しは、僕自身のことも見つめていた。
──僕は何もしなかったのだ。リョウジから逃れたくて、僕はクラスメイトの残酷さも大人の残酷さも見て見ぬ振りをした。僕はそれを隠し続けてきたんだ、僕自身からも。それは完全に僕のエゴのために。
幽霊に取り憑かれたように生気のない焦点の合わない表情のままリョウジは、車で去っていく僕をずっと見ていた。小さくなっていくリョウジの姿をバックミラー越しに認めながら、僕は理解した。僕は一生、あの視線に取り憑かれたままだ。
信号
木漏れ日の光を一つ一つ拾い集めるように歩く。
落ち葉は全部踏み潰して歩く。踏み潰す音はサクサクと軽やかで全然痛そうじゃない。
アスファルトのひび割れを避けながら歩く。ひび割れが突然裂けて落ちたらどこに行くんだろう。
下校中、私はいつもそうして時間をかけて歩く。
あの信号機のところまで。あの信号機は、赤が長いから。赤信号が、前を歩くあの子達と私を遠ざけてくれるようにと。
あざ笑う声の中に聞こえてきたのは私の名前だった。時折振り返って突きつけられた冷たい視線が私を俯かせた。私はそれが全部分からなくなるまで、ゆっくりと歩く。あの信号機の赤は長い。
どうか、あの子達と赤信号で一緒に止まることがありませんように。
言い出せなかった「」
会議室のドアが閉まれば、彼のショータイムの始まりだ。
「OK, guys,準備は出来てるか?君たちの報告が楽しみで、昨夜は眠れないほどだったよ。興奮してるんだ。ここは会議室じゃなくて遊園地か?なんてな、はっはっは!さあ始めようぜ。おっと、その前に一つ話をさせてくれ。今の若いやつらはスマホに夢中だろ?いや、批判するつもりはない。俺はそんな器の小さい男か?そうじゃないだろ?ただな、昔はこうじゃなかった。俺の肌が桃みたいにピチピチに瑞々しかった頃は……」
お決まりのイントロから繰り広げられる若き日の栄光。
guysこと我々は、窓の外の景色に目をやった。
「その時俺はなんて言ったと思う?」「相手は黙っちゃってさ!」「俺のファンクラブにでも入りたいのかよってね」
時計の針はなかなか進んでくれない。いつまで続くんだ、このワンマンショー。
途中退場もできやしない。俺は立ち上がって拍手を送りたいほどだった。
「すごいよ、ボス!あなたの話はいつも……」
喉まで出かかった言葉を飲み込む。結局いつも同じだ──言い出せなかった。
「ものすごく、つまらない!!」
secret love
私の家にはお父さん専用の部屋があるのだけど、私はその部屋がどこにあるか知らない。それを知っているのはお母さんだけで、お父さんはそこから出てこない。私はお父さんの顔も見たことがない。
時々、家の中にくぐもった低い呻めき声が聞こえるんだけど、あれがきっとお父さんの声なのかなって思う。壁の向こう側のどこかにお父さんがいる。
この間、お母さんから鍵をもらった。お母さんは言ったの、あなただけの秘密の部屋を作りなさい、って。そして私はこっそり、愛し方を受け継いだ。
愛する人を誰にも分からない場所に隠しておくんだって……なんて素敵なんだろう。ドキドキしちゃった。きっと私はあなたの為に部屋を整える。どんな部屋にしたい?花も飾りましょう。カーテンの色はあなたが決めて。その部屋にあなたを隠してあげる。そこでずっと愛し合うの。決して人には明かせないような愛し方で。
ページをめくる
図書館で借りてきた本を読んでいたら、ページをめくるたびに妙な音がした。
「あっ」とか「んんっ」とか、誰かの息づかいのような。気味が悪くて本を逆さにして振ってみたら、本の中から「すみません」と声がした。
……なんとこの本のページとページの間に、幽霊が取り憑いていたのだ。
事情を聞くと、彼は生前この本を読み終える前に不慮の事故で亡くなり、どうしても結末が気になって本に憑いたらしい。とはいえ、実体のない幽霊じゃページをめくることもできず、悶々としていたんだとか。
本に取り憑くなんて妙な話だったが、よっぽど最後まで読みたかったんだろう。気の毒に思った僕は、幽霊と一緒にこの本を読み進めることにした。
最初はタイミングが合わなかった。そりゃそうだ。本を読むっていうのは、本来一人で行うべき孤独な作業なのに、それをシェアするなんて。僕がページをめくると「まだ」と咳払いされ、幽霊が「次いって」とせかす時には僕がついていけず。
けれど半分を過ぎる頃には、僕が「いい?」と聞き、幽霊が「ん」と返事して、めくる。そんな呼吸が自然に合ってきた。
気がつけば感想を言い合うまでになっていた。「この展開どう思う?」「まあ、そう来るかって感じ」なんて。
ちょっとした不思議な連帯感が生まれつつあった。人生とは、ページをめくっていくようなものだと言うけれど、案外二人でめくるのも悪くないのかもしれない。相手は幽霊だけど。
最後のページまでたどり着いたとき、幽霊は満足そうに「ありがとう」とだけ言い、すっと消えた。部屋には、ぱたんと本を閉じる音だけが残った。
なあ、幽霊。案外楽しかったよ、二人で本を読むというのも。また誰かとこんな風にページをめくる日が、僕にやって来るだろうか。その時が来るかどうかは分からないが、それまで僕はまた一人、ページをめくることにするよ。
ちなみに僕らが一緒に読んでいたのは物語とかではなく、『読むだけで話し上手になれる、会話の間なんかもう怖くない』というハウツー本だ。
……取り憑くほど執着したなんて、幽霊は生前よっぽど会話下手だったんだろう。僕と同じだ。どうかあの世で役立っていますように。