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8/28/2025, 2:52:17 AM

ここにある


そこにあるものに触れようとして彼女は、違和感を覚えた。
例えば学生の頃からずっと使い続けているマグカップ、買ってみたもののまるで使わない万年筆、旅先で買った革製の工芸品、ガラス製の爪やすり、目の前にあるもの全てよく見知ったものなのに、彼女は何かしら隔たりというものを感じた。触れることが出来ないのだ。
彼女は触れようとして手を伸ばす。しかし触れる直前、そこにあるものは淡い光の中に霧散して消えてしまった。彼女が手を遠ざけると、光の粒子を集めながらそれは再生する。ホログラムみたいだと彼女は思う。あるいは自分自身が薄い光の膜を纏っているみたいだとも。
光の中に消えて、再び現れるその現象は美しかった。しばし彼女は、触れられないと分かっていながら霧散する光を追い、漂わせて遊んだ。だが彼女はすぐに気づく──また別の隔たりがあることに。
それは時間だった。ほんの少し目を離している間に、そこにあったものたちは錆びて古びてしまう。
光の中で戯れているほんの数秒のうちに、数年は経ってしまったようだ。壁紙は剥がれ、窓の外の景色は一変した。
彼女と世界の間で隔たりが生じてしまった原因は明白だった。彼女が幽霊になったからだ。
そのことに彼女自身が気づいたのは、この部屋に新しい入居者がやってきた時だった。
長い間、事故物件として借り手がいなかったこの部屋をようやく契約できることになった不動産会社の担当者は、入居者に何度も確認していた。
──お客様、契約なさった場合、三ヶ月分の家賃は必ずお支払いいただくことになります。例えお客様が真夜中に何かを見たり何かを聞いたりしても……お返しできませんがよろしいですか?
新しい入居者は肩をすくめただけだった
──大丈夫っす。俺ってそういうホラーな現象全然気にしない人なんで。
若者らしく、クールに平然と笑っていた。
こうして彼は、かつて彼女が住んでいた部屋で暮らし始めた。みるみるうちに彼は年老いた。朝には黒かった彼の頭髪は、昼にはグレーが混じり始め、夜には白髪となった。刻まれた皺が一段と深くなり、動きさえままならない。彼がそうして老いていくのを彼女は見ていた。
彼女にとっては一週間の出来事。彼にとっては数十年の歳月。
光の中で遊ぶのは、彼が寝ている間だけにした。それが彼女なりの配慮だった。とはいえ彼にとって、彼女のことは、感じようが感じまいが、せいぜい「気のせい」だった。夜中に少し音がしたかもしれない、その程度。若い頃の宣言通り、彼は多少の現象など気にも留めなかった。
そう、彼女はもはや現象に過ぎなかった。幽霊ならば、この悲劇的状況を受け入れなければならない。
訪問介護をへて、彼は老人ホームへと転居していった。彼女にとっては一週間、彼にとっては数十年の同居だったが、互いに干渉したことは一度もない。
部屋にはいくつか、彼の所持品が残された。その中に一台の古びたノートパソコンがあった。この時すでに、外の社会ではあらゆる場面で量子コンピューターが実装されていたが、彼は最後まで古典的なノートパソコンを愛用していた。
彼が去り静まり返った部屋で、彼女はノートパソコンを起動しようと試みた。確かめたいことがあった。
だがもちろん、起動ボタンを押すことが出来ない、実体を伴わない彼女には。
触れることが出来ないと分かっていながら、彼女は何度も試みた。出来ることなら……いや、どうしても知りたかったのだ。
彼女がまだ実体を持っていた頃、彼女は一つの物語を書いてネットに投稿した。プロの作家ではないし完全なる趣味だったが、彼女にとって書くということは、ほとんど本質を曝け出すことだった。だからあの話は彼女自身、彼女の一部だった。例えどんなに時間が経とうとも。
投稿した時は、書いたことだけが彼女を満足させたはずだった。なのに今更になって、気になって仕方がない。あの話は誰かに届いただろうか。もう数十年も昔のことだ。ひょっとしたら百年ほどの年月が経って、投稿サイトごと消えているのかもしれない……でもどこかにアーカイブされていたら? 今もアクセス可能な状態で、誰かがあの話を見つけ出して共感めいたものを感じてくれていたら? そんな淡い期待を、捨てきれなかった。
今日も部屋の片隅で、薄くぼんやりとした光をまとわせて彼女は佇んでいる。
かつて自分が書いた小説の痕跡を探したいが、それも叶わない。ノートパソコンの画面は暗いままだ。
彼女はそうして、ここにあり続ける。どこの世界にも存在を知られぬまま、生きていた時と変わらない孤独の中で。


8/26/2025, 1:04:05 PM

素足のままで



「奥様……いけません。無茶です。素足のままだなんて。フットカバーをお履きくださいませ」

奥様
「平気よ。素足がいいの。だって、あなたの形と滑らかな革の感触を直接肌で感じたいもの。あなただってそうでしょ?……ほら、インソールがしっかり足裏を包んで……吸い付いてるみたい」


「だ、だめです……だめですって。ご勘弁を! 旦那様が見てますから……あっそんなに奥まで突っ込まないでくださいっ……」

旦那
「……」

奥様
「うん……ぴったり。いい履き心地」


「奥様っ……こんな事、いけません、ひ、ひもが解けちゃいます…奥様、どうか」

奥様
「ひもなんかもう、要らないわね」


「あっ!? そんな急にひもを抜かないでください……だ、旦那様、ちがうんです、これはそのっ……」

旦那
「……」

奥様
「優しく履く方が好き?」


「うぅ……奥様の足裏、柔らかすぎてもう……」

奥様
「本当にあなたの中ってぴったりフィットするね。今日も歩きやすいわ。しっかり包んでいてね。さあ、行きましょう」

旦那
「靴の野郎……覚えてろよー!」


「旦那様ぁ、誤解ですぅ……奥様、どうか素足のままはもう、ご勘弁を」



8/26/2025, 6:05:51 AM

もう一歩だけ、


高層ビルの屋上から寝静まった夜の街を見下ろす。
誰も、俺がここにいることを知らない。
ただ昼と夜が過ぎていくだけの人生など、もう終わらせたっていいだろう。

「死ぬか……」

口に出してみても、たいして感慨もない。あとはもう一歩だけ、踏み出せばいいだけだ。屋上フェンスに手をかけたその時だった。
ばさっと羽の音が聞こえた。

「待ちなさい、早まってはいけない!」

振り返ると、やたらと光っているやつがいた。輪っか付きだ。翼もある。

「報われない日々も孤独な夜も意味がある。さあ、前を向いて!あなたのその一歩を闇へと向かわせないで。光に向かって進むのです、一歩ずつでいいから!」

なんとそいつは天使だった。
天使が、輝かんばかりの笑顔で俺に手を差し伸べる。その直後、黒い炎が噴き上がった。現れたのは、漆黒の闇をまとい、獣のような目を赤く光らせた姿。

「甘言に耳を貸すな」

次は悪魔かよ。冷たい笑みを浮かべた悪魔は言った。

「おい人間……なぜやめる? あともう一歩だけ、なんだろ?とっとと終わらせろ。貴様の最後の一歩を見届けてやる、今すぐ死ね」

天使は眩しく光って、悪魔の前に立ち塞がる。

「悪魔め!私の邪魔をするな」
「邪魔なのはお前の方だ。今までお前の言葉で人間が救われたことなど一度でもあったか?」
「……貴様っ」

天使と悪魔は、俺の前で言い争い始めた。
どうやら、俺の命は彼らの長きにわたる諍いの最新ネタらしい。
次第にヒートアップしていく二人を横目に、俺はため息をついた。

「……帰るわ」

死のうと思ってきた場所で悪魔と天使の喧嘩が見られるなんてな。だが死ぬには少し騒がしすぎる。勝手にやってろ。俺はその場を後にした。


──翌日。
今日こそ人生を終わらせようと、俺は再び屋上に来ていた。
やはり、俺には生きる意味なんて見つけられない。
フェンスにもたれ、夜風に吹かれる。残されたのはあともう一歩、終わりに向かって踏み出せばいいだけ。簡単なことだ。

「……もう一歩、か」

と、その時。聞き覚えのある声が聴こえてきた。
あの二人だ。まだいたのか。
しかもなんか、まったりと話し合っていた。距離も近い。

👼「人間ってさ……あともう少しの一歩を頑張れたり、そうじゃなかったり。ほんと未完成で、可愛いよね」
👿「愚かさの極みだ」
👼「諦める寸前で揺らいで、どうでもよいと言いながら嘆いたり……やっぱり目を離せないよ。見守っていたい。あの人間、どうなったかな」
👿「さあね。俺たちは、やつらを引き止め、おだて持ち上げて、落とす、煽る。ただそれだけの役割だ。まさか、俺たちがどうにか出来ると期待していたわけでもあるまい」
👼「……そうだけど」
👿「ならいい」
👼「あのさ」
👿「なんだ」
👼「久しぶりだよね、会えたの……嬉しかったよ、会えて。もう少し一緒にいない?」
👿「……俺はもう行く」
👼「相変わらずだね。私が望むとあなたはそう。いつも、一歩だって来てくれないよね」
👿「天国と地獄の距離だぞ、そう簡単に踏み出せると思うな」


飛び去った悪魔の後ろ姿を、天使はいつまでも見ていた。
​俺はフェンスからそっと手を離す。
​死ぬなんてどうってことないと思っていた俺でも、いざとなると、そのもう一歩が踏み出せずにいる。
​だが、どうやら一歩が踏み出せないのは、何も地上の人間だけじゃないらしい。


8/25/2025, 2:37:35 AM

見知らぬ街



がたん、と音がして体が大きく前に揺れ、僕は目を覚ました。
どうやらうたた寝していたらしい。電車はちょうど停車するところだった。
「お降りの際はお気をつけ下さい」とアナウンスが響く。
降りる人が数人いて、なんとなく僕も電車を降りることにした。
することもない休日の午後、柄にもなくふらりと予定など決めずに家を出た。
だから、降りる駅はどこでもよかったのだ。
ただの気晴らしだった、見知らぬ街を歩いてみよう、なんて思ったのは。
どことなく時間が間延びしたような、よく言えば、のどかさに満ちた小さな街だった。
確かに初めて来た街だったが、こういう地方都市というのは、歩いてみればどこか既視感を覚えるものだから不思議だ。
古びた商店が立ち並ぶアーケードは閑散としているが、完全に機能していないわけでもない。新しい洒落たカフェやヘアサロンなんかもある。
区画整備されたばかりなのか、やたらと広い道路に、新しい遊具が設置されている公園。
都会ではないが、田舎とも言い切れない。どこにでもあるような地方都市。
日本にはいくつこのような街が存在するのだろう。
しばらく、僕は気ままに街を歩いていた。

乾いた風がザワザワと街路樹を揺らすのを見た時、僕はふと、思った──この街を知っている。
よくあるような地方都市の印象。この既視感は、それだけのものだろうか?
あの風に揺れる錆びついた看板を、昔も見たことがなかっただろうか。
秋になれば、あの濃い緑の街路樹の葉が紅く色づくのを、僕は知っているのではないか。
知らないはずのものを『知っている』というの奇妙な感覚は僕を不安にさせた。
思わず、その場で立ちどまってしまった僕に、前から歩いてきた人が声をかけてきた。

「◯◯じゃないか」

名前を呼ばれて、僕は硬直した。
◯◯、という名前は確かに、僕の名前だった。

「お前……帰ってきてたんだな、奥さんが心配してたぞ……どうした、大丈夫か? 顔色が悪い」

知らない人だ。会った事なんてない。
心配そうに僕の顔を覗き込むその人の、名前も顔も僕は知らない。
なのに彼は、まるで古くからの友人のように僕を見ている。この状況に僕は胸はザワザワと騒ぎ出す。

「いつ、帰ってきた? 奥さん心配してたぞ。子供だって小さいのに。何してんだ。もう一ヶ月も、どこ行ってたんだよ……本当にお前は……いや、俺は今は何も言わねえし訳も聞かねえからさ。まずは奥さんとこに行ってやれ、とにかく……お前は戻ってきたんだから」

僕は彼の言うことが一つも理解できなかった。
奥さん、子供……? 戻ってきた?
それは僕のことじゃない。

「人違いじゃないですか」

やっと震える声を絞り出して答えると、目の前の僕の『友人』である彼は、ため息のような息を吐き、静かに目を細める。

「お前は◯◯だろ。何かわけがあってこの街を出たんだろうが、お前はお前だよ、変わるはずもない」

僕は混乱のまま、違うんだ、と呟いた。
彼は優しげな眼差しだったが、その目の端にはどこか、憐れみのようなものさえ浮かんでいた。
気がついたら僕は駆け出していた。恐怖だけが僕を突き動かしていた。僕が僕であることが足元から崩れてしまうような恐ろしさがあった。背後から彼の叫び声が聞こえる。

「おい◯◯、逃げるな、お前の場所はここだぞ! ちゃんと戻ってこい」

叫ぶ声を振り切り、僕は無我夢中で逃げた。
それからあとのことをよく覚えていない。駅まで必死に走って、行き先も確かめず電車に飛び乗った。とにかく遠ざかりたかった。
戻りたかった、僕の街に。
電車を乗り継いで、毎朝利用する駅までたどり着くと、自分の家まで足早に、でも一歩一歩確かめるように歩いた。よく見知ったこの街こそ僕の街、僕の日常があるところ。奥さんも子供もいない。心配してくれるような友人も僕にはいない。何度もそう自分に言い聞かせた。



数年が経った今でも、時折、思い出す。
あの街は、一体何だったんだろう?
白昼夢か、それとも別の世界線か?
どこかの世界で、あの街で生きるもう一人の僕がいて……パラレルワードというSFめいた考えに行き着く。馬鹿げているが、そう結論づけるのが一番しっくり来た。
あの街の僕の『友人』は、一ヶ月ほど僕が不在だったと言っていた。
僕と同じように、あの見知らぬ街で暮らす僕も違う世界に飛んでしまったのかも。
そして空いた穴を埋めるように僕が呼ばれたのかもしれない。

だけど僕は僕のよく知る街に帰ってきた。
いつも引っかかる鍵、育ちすぎた観葉植物、馴染みのソファ、僕の日常。心の底から安堵している、僕が僕のままでいられることに。
それでもふと思ってしまう。
──あの街の『僕』はちゃんと戻ったのだろうか。
──僕があそこで逃げなかったら、僕はあの街で生き続けたんだろうか、もしそうなら、僕は今頃どんな顔をしているんだろう、そして僕が消えたこの街に、また別の僕が迷い込むんだろうか。

結局考えてみたところで、答えなんて永遠にわからない。 
僕はもう、あの街の名前も思い出せない。



8/23/2025, 10:17:49 PM

遠雷


遠雷が鳴った時、あなたは身体を起こした。
窓の向こうをじっと見つめる横顔は、まるで呼ばれるのを待っているみたいだった。
ねえ、と私は、あなたを抱き寄せる。
「私たち、まだ愛し合っている最中だよ」
次の瞬間、暗い部屋を裂くように稲妻が光る。その鋭い光はあなたの本当の姿を照らし出した。
怖くはない。その姿こそ、私が愛したあなただったから。
私たちを咎めるかのように、窓の外では雷雨が激しさを増していた。でも私たちは懸命に熱を交わしあった。
私は知っていた。夜明け前にあなたは去ってしまうことを。
雨の音にまじって私が聞いたのは、雷鳴だったのか、それともあなたの咆哮だったのか。どちらでも構わない──


空一面を不穏な雲が覆っている。
遠くに轟く音を聞いて、私は嬉しくなる。
だけど子供は、灰色の重たい雲に覆われた空が恐ろしいらしい。不安げに私を見上げて聞いた。
「お父さんはどこ?」
あなたによく似た子供だ。私は子供を抱き上げて静かに答えた。
「お父さんはね、あの雷の向こうにいる。お父さんはドラゴンだから大地では生きられないの」
子供はじっと窓の外を見つめた。
閃光が走る。
重々しい空は一瞬白くなり、翼を広げたあなたの影が見えた気がした。

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