Midnight Blue
その絵は未完成だった。
一面、midnight blueの色だけで塗り潰されたキャンパス。
同じ色を何度も重ねた筆の跡が、夜の波のように濃淡を作り出している。
美しい青だった。孤独の生々しさや肉体の熱を静かに吸い取ってくれるような、深い黒さを帯びた青。
きっとこの絵を描いた人は、今も夜の深淵に一人佇んでいるのかもしれない。虚しささえも背景にして。
この人が描いてくれた深い青の中に身を任せてしまいたかったが、朝に順応しなければならない僕は、人混みに流されてその絵の前から立ち去った。
君と飛び立つ
私たち夫婦は、これまで旅行らしい旅行をしたことがなかった。
結婚して数年目で私が病気になってしまったから。あなたは職場と家と病院を行き来する日々。
ごめんね。こんな事になってしまって。
ある日、夫がぽつりと言った。
「君が退院したら、夜間飛行に行こうよ。セスナに乗って、夜景と星空を見るんだ」
私は思わず笑ってしまった。
夫からそんなロマンチックな提案をされるとは思わなかったから。
でもそうね、忘れてたけど、そういえばあなたって、そんな事を言えちゃうようなロマンチストだったね。悪くないわね。
────
しかしその願いは叶わなかった。
君が病室から戻る日は、とうとう来なかった。
小さな飛行場に着くと、古びたセスナ機が待っている。
乗り込むとシートの冷たさが気になった。
君は驚くだろうな。僕が一念発起して小型機の免許を取ったと知ったら。
そんな事にお金をかけるなんて、と怒った顔が目に浮かぶよ。
プロペラが回って、窓の外の灯りが小さな粒になって視界の下へと遠ざかっていく。
空を飛ぶようになって、僕は不思議な感覚を覚えるようになった。
それはね、時間認知の歪みだよ。
長く空の上にいると、地上とは違う時間軸の中にいるような感覚に陥ってしまうことがあるんだ。
例えば、朝日に向かって飛ぶと、太陽は動かずまるで朝焼けの中を永遠に飛んでいるように思えるし、日没に向かって飛ぶと、夜へと駆け足で進んで、時間を先取りしたみたいな感覚になる。
……僕はワクワクしてしまってね。
地上では知り得ない空の秘密を知った気分だ!
この歳になってもまだ、世界に驚かされるなんて……それがただの幻想だとしても。
「ずっと朝のままのデート」「夜へと駆けていくデート」なんて言ったら、君はきっと笑うだろう。
僕は独り、夜明けの空へ向かった。
もしかしたら、この不思議な時間感覚の中なら、君がいた朝に戻って、君と過ごす時間を永遠に出来るかもしれない。
そんな馬鹿げたロマンを、胸に抱きながら。
きっと忘れない
恋愛なんて、ぶっちゃけ僕の人生には必要ないと思っていた。
だけどあの夏、君が駅のベンチで、「もう少し一緒にいたいかも」と笑った時、僕の心臓はうるさいほど鳴り出した。
でもすぐその後、君は目を伏せた。
「ごめん、今のは忘れて」
――忘れないよ。
そう言うのが正解だったのか?
でも、僕は胸がざわついて何も言えないままだった。
今でも思う。あれは、ちょっと……ずるいだろ。僕の心に勝手にデータを書き込んで、即削除、みたいな。
夏が終わった時、君は友達のままで離れていった。
僕も忘れることにしたんだ、以下は脳内で作成した忘却メモ。
君について忘れること
・待ち合わせた場所で会えた時の、照れくさそうな笑顔
・ソフトクリームの下手くそな食べ方
・キラキラ光って見えた髪の毛
・サイズの合ってないブカブカの服
・語尾に「〜的な?」をつける口癖
・メニューを選ぶ時全く迷わないこと
・駅の改札で、うまくタッチできずにもたついていた後ろ姿
・家族とうまく行ってないと打ち明けてくれた時の横顔
・ずっと大切そうにしていた、ちょっと変なキーホルダー
全部まとめて削除したつもりだったんだけど。
この間、君を見かけた。
隣には恋人らしき人。
なのに僕の頭の中では、あの夏の君の笑顔や寂しい横顔がリプレイされていた。
「うわ、削除したデータだぞ、勝手に再生されるのやめてくれ!」
って心の中で叫びたい気持ちだったよ。ほんと情けなかった。
君は今、幸せ?
そうでありますように。
僕は、あの夏から恋なんて必要ありませんので……
誰か忘却の仕方を教えてください。
なぜ泣くの?と聞かれたから
なぜ、泣かないの?と私は男に聞き返した。
泣く理由なんて、数えきれないほどあるでしょ?
第一、この世で生きている事自体、ほとんど悲しくて嘆かわしいことでしょ?
嬉しくても悲しくても、それは涙になるんだよ。
ずっと泣いたことがないんだ、と男は言った。
俺は泣き方がわからない。
そう呟いた男の顔は、溢れるほど涙を流して泣く人たちの誰よりも泣いているように見えた。
ふと、私は彼の為に泣きたい、と思った。
その思いは胸の奥からやってきて広がり溢れて止まらなくなった。
男の頬に手を伸ばし、泣き方がわからない彼の為に、私は泣いた。
なぜ泣く?男が再び問う。
理由なんてどうでもいいじゃない、と私は答える。
男はそれ以上問うことをしなかった。
ただ静かに私の頬をつたう涙を見つめていた。
城の回廊の一番奥の部屋で、年老いた女王は一人横たわっていた。
もう息も細く体を動かすことも出来ない。
かつて栄華を誇ったこの国は、腐敗し傾きかけていた。
女王はただ国を守る為に、強硬な手を打ち続けた。
国は建て直ったが、代償として彼女に残されたのは孤独だった。
魔女と呼ばれ恐れられ、誰も彼女に近寄らない。
老いと病に蝕まれ死を目前にした今、豪華なベッドに寝かされてはいるが部屋は冷たく、彼女に寄り添うものは誰もいない。
魔女に相応しい最期だ、と彼女は自嘲して目を閉じる。どのみち白く濁った目は、何も映し出すことはできない。
意識が遠のいていく中、彼女は悟った。やっと待ち望んでいた終わりがくるのだ。
その時だった。
こつ、こつ、と磨き上げられた石床を踏む足音が響いた。
規則正しいその音は、彼女の遠い記憶を呼び起こした。
この足音は……彼だ。
忘れるはずがない、この足音だけは。
幼い日のこと。彼の目を盗んではよく広い城の中を駆け回って隠れた。大きな柱の影、迷路のような庭の茂み、誰も入ったことのない塔の上。
けれどいつだって彼は彼女を見つけ出した。足音は必ず彼女のすぐ近くまで来て止まる。呆れたような嗜めるような声を聞くのが好きだった。
「姫様、そこにおられるのでしょう?」
彼の足音を聞けば安心したものだ。いつも必ず見つけ出してくれる。クスクスと笑いをこらえながら身を潜めていたっけ。どんなところに隠れたって彼は彼女を一人にはしなかった……まさか、迎えに来てくれたんだろうか。
「姫様」
足音はとまり、懐かしい声が彼女を優しく呼ぶ。
魔女と言われた自分が、姫様などと呼ばれたのが可笑しくて、彼女は深い皺に刻まれた顔を綻ばせた。自分が自分らしくいられたのは、父王の前でもなく母君の隣でもなかったのだと今更ながら思い知る。
彼女は最後の力で目を開く。白濁した瞳ではもう何も見ることはできない。でも彼女には分かる。そこに立っていたのは、とうに亡くしたはずの、ただ一人心を許した人。
「お迎えにあがりました」
――もう誰も来ないかと思ってた。みんな私を恐れ忌み嫌って近づかなくなってしまった。
「私がおります、姫様」
――懐かしいね。あなたは逃げて隠れた私をいつも見つけ出してくれた。
「本当はいつも、心配でいても立ってもいられなかったのです……私はもう二度とあなたを見失いたくはございません」
差し伸べられた彼の手に、彼女はそっと手を重ねた。
「さあ。行きましょう」
――何処へ? 私は何処に行ったらいい?
「どこへでも。あなたは自由です。どこに行かれようとも私がお供いたします」
自由、という言葉に彼女は少し震えた。自由とはどんなものだろう?
女王は彼の手に支えられながら冷たいベッドから抜け出した。身体は少しも重くなかった。
空が朝焼けに染まる頃、城の長い回廊に立つ番兵は、微かな足音を聞いたような気がした。
その二つの足音は、何かに怯えるでもなく急ぐでもなく、軽やかに響いていく。番兵は身構えたが足音はすぐに消え、静寂だけが残された。