『やさしさなんて』
「君が悪いんじゃないよ。全部僕のせいだから。僕が悪いんだ」
夫は終始、穏やかだった。
私をまっすぐに見つめて、他の人と関係したことを告げた。
少し間を置いて、本気なんだ、と言う。
夫の静かな口調に、頭の中がカッと熱くなった。
相手の方が本気?じゃあ、私は何?
「だからごめんね……別れてほしい」
夫の目にはもう私はいない。別れる別れない、の議論すら夫の中では終わっている。
「君もきっとすぐに他にいい人が見つかるよ」
きっとすぐに? 夫はもう私を過去にしている。
「君はやさしい人だから」
その一言は、ナイフみたいだった。
私のやさしさなんて、世界の中でなんとか泳ぐために身につけた仮面のようなものだったから。
自己保身の為のやさしさ、装った穏やかさなど見抜かれるに決まっている。
君はやさしい人だからという夫の言葉は、君の薄っぺらさに飽き飽きしたよ、と言われているみたいだった。
「地獄に堕ちろ」
滑稽なほど、自分には不似合いな言葉が口をついて出た。夫は一瞬だけ言葉に詰まって瞬きをしたが、すぐに微笑んだ。それからまるで子供を諭すように言った。
「うん、きっと僕らは地獄にいくんだろう。君は何も悪くないよ。君はずっと優しかった」
僕ら。
夫は、なんのためらいもなく、僕らと言った。
僕らって?
一緒にいる人、パートナー、同じ価値観、同じ感情を共有できる人。
夫が言った『僕ら』の二文字を定義して、私は傷つく。
夫の些細な言葉にどれほど私が傷ついても、夫は少しも傷つかない。私がいくら口汚く罵っても、私が一晩中泣いても、夫には何も響かない。真に愛する人を得た者は、強いから。
夫は私を捨て去った。
私にやさしさ、という偽りの仮面を被せたまま。
翌朝、私は鏡の中の自分を見た。ゆっくりと微笑んでみる。
やさしい穏やかな仮面は歪んだまま張り付いて、もう剥がせない。
これが私の顔だ。その顔のまま私は呟く。
「地獄に堕ちろ」
虚しく愚かな言葉は、夫を呪うのではなく私自身を切り裂いていた。
『風を感じて』
「風を感じるのって、気持ちがいい」
とあの子は言った。
苦行とも言える暑さが続いたあの夏、僕たちが出歩くことができたのは夜だけだった。
湿気混じりの夜風を、彼女は心地よさそうに受けていた。頬に、こめかみに、風を受けながら彼女は軽やかに歩く。ダンスしているみたいに。
「なんだか、愛されてるみたい」
彼女はそう言って笑った。優しげな笑顔が、いつまでも僕の胸を締め付けていた。
だからね。
僕は死んだ後、風になったんだよ。
彼女の髪の毛を撫で、頬に触れる。
もう一度微笑んで欲しいから。
彼女の頬を伝う涙をそっと攫ってしまいたいから。
「夏休み、どうすんの?」
「……まだ決めてない」
「実家は? 帰んないの」
「お盆あけ、すぐゼミの実習あるし」
「ふーん……」
当たりさわりのない言葉が、ぽつりぽつりと私たちの間に落ちて、静まり返った。
何度目だろう、この湿った沈黙。
あなたが私の部屋を訪れるたび、名前のつけられない何かが、胸の奥で膨らんでいく。学生最後の夏だというのに、言えないことばかりが積もっていた。
テーブルの上には、二人で分け合った炭酸の缶。
もうぬるくなって汗をかいていて、私たちの肌みたいだった。
蒸し上がった夕暮れの部屋で、二人ともキャミソールで、剥き出しの肩が何度も触れ合っていた。
西日はまだ窓から差し込んでいて、カーテンをすり抜け、あなたの細い鎖骨のくぼみに影を落としていた。
夏の夕暮れは、好きじゃなかった。
いつまでもだらしなく日が残っていて終わらない。だから願っていた、早く夜になればいいと。
会話の途切れた私たちは、動けずにいた。
どちらか少しでも動けば何かが崩れそうで、私たちは息を潜めるようにじっとしていた。
静まり返った中、あなたの細い指が、炭酸の缶の縁をゆっくりとなぞる。
あなたは、炭酸を喉に流し込んだ。小さな喉が少しだけ上下する。西日があなたの濡れた唇を照らしていて目が離せなかった。
炭酸を飲み終えたあなたと目が合って、それはまるで合図みたいだった。
私はそっと、あなたの手を取った。
あなたは何も言わなかったけど、指先は離れなかった。
私たちは無言でしばらく見つめ合った。
やっと私が絞り出した言葉は、暑いね、みたいな意味のない言葉だった。
「……でも、もうすぐ夜になる」
普段無口なあなたが言った言葉を覚えている。その一言に託すみたいに、私たちは身を寄せ合った。
夏のせいだった。
炭酸がぬるいのも、私たちの関係に名前がつけられないのも、全部夏のせい。
私たちはその夏、二人とも実家に帰省しなかった。
ただ、ぬるいソーダの味と夏の長い夕暮れを共有した。私たちはいつも性急だったけど、それは始めだけだった。あんなにもゆっくりと丁寧に、胸が苦しくなるくらい静かに過ごしたのは、あの夏だけだ。でも、私たちは肝心なことは言葉にしなかった。
夏が終わる頃、あなたはやっぱり何も言わないまま、私から遠くへと行ってしまった。
あの時言えばよかった。
言えずにいたのは、「行かないで」とか「また会いたい」とか、そんな言葉じゃなくて、たった一言だったのに。
いやあ、参った、参った。
探し回ったんだ、この炎天下。コンビニを何軒も回ったよ。
悪いな、結局見つからなかった。お前の好きなピースもとうとう販売中止だってよ。俺がタバコやめてから何十年も経つから、全然知らなかった。
お前のピース、今年はなしだ。ははは、ザマアミロ。いい機会だからお前も今後禁煙な。
今時タバコなんてな、害悪扱いだぞ、吸ってる奴のほうが珍しい。でもコンビニ行ったらレジの向こう側にぎっしり陳列されてるのにな、みんなどこで吸ってるんだろうな。
すまん、花も忘れた。
いいだろ花なんか……いつもならユキエが用意してたから、すっかり忘れてたよ。
ユキエは今、入院してる。時々……わけの分からないことを言うようになった。認知の症状の出方は強弱があるようですね、なんて医者は言うんだ。
もどかしい言い方しやがって、まだらボケってやつだよ。
ちゃんと夫婦やってきたつもりだったのになあ、何十年も。誰?って言われるとやっぱりきついもんはあった。
なんかあいつの夫である身分をべりっと剥がされたみたいでなあ、怖かったよ。
ずっと考えてるんだ。
お前が生きてたら、ユキエと夫婦になったのは、やっぱりお前だったんだろうってさ。
気持ちっていうのは変わらないもんだ、特にお前みたいに若くてポックリ逝った野郎は、女心に残るんだろうな。俺の心にもしっかり残ってるぞ。
なあ、恨んでるか? ユキエと一緒になったこと。俺だって知ってたさ、お前とユキエがお互い憎からず思ってたのは……バカじゃねえのか、なんでお前ユキエに何も言わなかったんだよ。ユキエの心を宙ぶらりんにしたんだよお前は。
もしお前とユキエが一緒になったんなら、一番喜んだのは俺だからな。
最近よく思うんだ……お前がまだ生きていてユキエと結婚してたら、どんな夫婦になったんだろって。お前なら、ボケたユキエに誰って言われて、俺に泣きついてくんだろうな、とかな。
おい、俺のこと恨んでるなら化けて出てきていいぞ。
寂しいユキエにつけ込みやがってと、罵るのでもなんでもいい。俺のところに化けて出てきてくれよ。俺は待ってるんだ、お化けのお前が俺の前に現れるのを。
もうずっと、ずっと待ってるんだ。何十年も。
なんで化けて出てきてくれないんだよ。
お化けでいい、顔を見せてくれ。
暑くて毎晩寝苦しいんだ、エアコン代わりにお前で涼んでやるからさ、年寄りになった俺を見て笑ってくれよ。
八月、今年もまた墓前にて
あなたが、あの人のことを褒めた夜、私は眠れませんでした。
あなたが褒めるのもよくわかります。
あの人の美しさは決して、顔立ちやスタイルの良さだけではありませんでした。
あの人の価値観、自由な精神があの人を輝かせているのです。
あなたがその輝きに目を奪われるのは、当然のことのように思えます。なぜなら、あなたとあの人はよく似ているからです。あなた方は精神の自由さにおいて同じ光を放っているかのようです。私には到底辿り着けず、だからこそ焦がれてやまない光です。
魂の共鳴、というものがあるのだとしたら、きっとあなた方にそれは起こりうる、そんなことさえ思うほどです。
あなたの隣にいることは、私の誇りでした。指に光るシンプルなリングは、愛の証であるとともに、平凡な私にささやかな優越感さえもたらすものでした。
ですがあの日、あなたの瞳にあの人の影が宿ってから、私は平穏ではいられなくなりました。
心の奥が焼けつくように疼きます。焦燥感を煽るように胸を打ち続ける熱い鼓動は息苦しく、私から眠りを遠ざけました。
あなたは何も変わらないでいてくれました。
あなたは私の話に耳を傾け、手を握り優しく微笑んでくれます。
ですがその瞳の奥で見ているのはあの人でした。私の言葉を聞きながら、あなたはあの人の為の言葉を探しています。
いっそのこと、あなたとあの人に憎悪を向けることができたならば良かったのにと思います。
私の中に小さな子供がいて、暴れているのです。
四六時中私だけを見て、私以外の誰も褒めないで、言葉を尽くして私だけを愛してと叫ぶ子供です。
自分へ向けられるはずの愛を失う恐怖に怯える子供を、私は必死に宥めました。
私がここに来たのは終わらせるためです。
嫉妬に支配され、心が蝕まれていくことに、疲れ切ってしまいました。
終わらせて自由になりたいのです、あなた方のように。
羽などなくとも、私はきっと自由になれるはずです。
空を掴むように身を投げ出す。それだけが私の中で確かなことでした。
そしてその時こそ、私はきっと自分の光を見いだすことが出来ると思うのです。
今、私を現実に繋ぎ止めるのは、手すりに触れた指先の冷たい感触だけです。
窓の下を見ることはしませんでした。
目を閉じれば、心地よい冷たい風が私の額を撫でていきます。
自由になれる、その熱い鼓動だけが私を突き動かしていました。
雨上がりの空を、電車の中から眺めていた。
まだ灰色の雨雲の残る空、虹が薄くかかっている。
ふと昔のクラスメイトのことを思い出した。
あいつ。
いつもしょうもない嘘ばかりついていた、あいつ。
「虹のはじまりを見たことある」「人面犬も飼ってるし」
あいつはいつも、そんなバカみたいな嘘をついては得意げな顔をしていた。
小学六年生にしては、あまりに拙く幼い嘘に、みんな呆れて反応もしなかった。
クラスの女子が言ってた。
「またあんな嘘ついて……やっぱお父さんいないから構って欲しいんじゃない? なんか可哀想。っていうか痛々しい」
可哀想、痛々しい。
その言葉に俺はぎくりとした。
俺にも母親がいなかった。ちゃんとしてないと、俺もあいつみたいに痛々しくて可哀想だと思われる、子供心に強烈にそう思ったことを覚えている。
あいつが誰からも見向きもされない嘘をつくたび、ヒヤヒヤした。
なんでそんな嘘をついてまで人の気を引こうとするんだ、可哀想だなんて思われて、余計惨めだろって。
そして俺は、そんな事を思う自分が嫌だった。
あいつ、今どうしてるだろう……。
「おー! 久しぶりじゃん、元気?」
突然、声をかけられ顔をあげて、ぎょっとした。
目の前には、まさにそいつがいたからだ。記憶の中のしょうもない嘘ばかりついていたあいつ。大人になったあいつが俺の前に立っていた。
「俺だよ、覚えてね? 小学校一緒だったよなあ、懐かし!」
正直、戸惑っていた。
子供の頃のあいつの嘘と、俺の後ろめたさが一気に蘇る。
「お前今何やってんの? 俺は今さ、ゲーム開発の仕事してんだけどさ」
奴は昔と変わらず、一方的にまくしたてる。電車の窓の外に視線をやると、ぱっと笑顔になった。
「お、虹」
そしてスマホの画面を差し出して言った。
「これみて」
思わず、あ、と言ってしまった。
そこには虹のはじまりが映っていた。きらきらと光る草原に、虹が溶け込むように降り立っている。
「今、俺が作ってるゲーム。これスタート画面」
奴は、目を輝かせて語り出す。ストーリーはこうだとかキャラ設定はこうだとか。
子供の頃、教室で聞いたバカみたいな嘘の話だ。
俺は思っていた、こいつ、頭の中でこんなにも生き生きとした世界として広げていったのかって。
「発売したら絶対プレイしてよ、めっちゃ面白いから! あ、俺ここで降りるわ、じゃーな」
そういい残すと、奴は慌ただしく電車を降りてしまった。
電車の中に残された俺は、言葉もなくただ呆気にとられていた。
……そうか。あいつの嘘は夢であり、クリエイターとしての原点だったんだな。
溢れる想像力は、奴を惨めになんかしてなかった。
惨めだったのは俺の方だ。
痛々しいだとか可哀想だとか、あいつを同類にして一番見下していたのは、俺だったんだ。
ごめん……お前の嘘は、俺の弱さを暴いてるみたいで、怖かったんだ。
お前のゲーム、絶対やるから、絶対に。
そう伝えればよかった。
俺は窓の外を見る。
もう虹は、薄くなって今にも消えそうだった。
あいつが作り出した虹のはじまり。俺は電車に揺られながら、消えかかった虹をいつまでも眺めていた。