いつもは泣かないあっちゃんが、火がついたように泣いた。
僕はびっくりして、あっちゃんの顔をまじまじと見つめていた。
何が理由だったかなんて、今とはなっては覚えてない。
ただ、あっちゃんが泣いた。
あの強いあっちゃんが。
まさかあっちゃんが泣くなんて、僕は夢にも思わなかった。
だって、あっちゃんはみんなのヒーローだった。
いつも笑顔で、困っている子がいたら真っ先に助けて、みんなをぐいぐい引っ張るリーダーだったから。
でも僕が一番心に残っているのは、泣き喚いたあっちゃんじゃない。
泣き疲れて僕の肩に寄りかかってきた、ぐずぐずのあっちゃんだ。
僕のTシャツをびしょびしょ濡らすほど涙を流したあっちゃんは、泣き疲れたのか半分眠るように目を閉じて、まだ鼻をグスグスすすっていた。
頬には、幾すじもの涙の跡がついていた。
あの時、僕は思ったんだ。
もし僕が犬のマロンだったら、あっちゃんの頬をぺろぺろ舐めるのに。
そしたらあっちゃん、くすぐったくて笑うかもしれない。
僕が泣いた時、マロンがそうやって顔を舐め回して思わず笑っちゃったみたいに。
でも僕は犬じゃない。
ぺろぺろするわけにはいかない。
だから結局、僕は何もできなかった。
すぐ隣であっちゃんが泣いているのに。僕はあっちゃんの涙を拭う勇気すら出せなかった。
そして今日。
あっちゃんがまた泣いた。
あっちゃんの涙を見るのは、あの幼い日以来だ。
惜しげもなく流れる涙は、あの時と同じだった。
あの頃と同じく日焼けした、でもすっかり丸みなんか消えて細くなった頬に涙が流れていく。
きっと今、あっちゃんの涙を拭うのは、隣にいる人のほっそりした指なんだろう。
彼女の前では、あっちゃんはこんなにも素直に笑って泣けるんだ。
あっちゃん、君はちゃんと見つけたんだね、一緒に笑って泣ける人を。
少しだけ思っていた。
あの頃、あっちゃんの笑顔も泣き顔も一番近くで見ていたのは僕だったのに。
やっぱりあの時、犬の真似でもいいから、あっちゃんの頬を舐めときゃ良かった。
そしたらあの時、僕があっちゃんを笑顔にしたかもしれないのに。
結婚おめでとう、あっちゃん。
どうか、お幸せに。
めちゃくちゃ幸せになってくれ。
いつもの朝食の時だった。
妻が突然、「私、過去に戻れるんだよね」と言い出したのだ。
僕は、持っていたトーストを落としそうになった。
「え、まじで?」
まじでまじで、と妻。オレンジジュースを一気飲みして妻は言った。
「なんか私、そういう能力あるみたい」
まじなのか。僕は身を乗り出して妻に質問した。
「すげーじゃん。どうやって過去に戻るの? タイムマシン作った?」
「タイムマシンなんて、そんなすごいのじゃなくて」
妻はころころと笑って言った。僕は妻が楽しそうに笑うのが好きだ。
「なんかね、念じたら、シュッていけちゃうんだよね」
「そんな簡単なんだ?」
「ねえ? 意外とシンプルなんだよね」
過去に戻れるという常人ではあり得ない事態なのに、めっちゃ普通に受け入れる妻。僕は妻のそういうところも好きだ。一緒にいて飽きないとはこういう人だ。
「で? 過去に戻って何してんの?」
僕は興味津々。前のめりで妻に聞いた。
「んーたとえばさ、ヘアサロンとかでオーダーした髪型となんか違うって時とか、ネットで数量間違って注文したやつ取り消したりとか、そういう小さい後悔とか失敗をリセットしたりとか、その程度だよ」
「へえー! 便利な能力」
それから僕は、ちょっと考えて、笑って言った。
「何度か過去に戻ってるんだ?」
「まあね」
「失敗をリセットするために?」
「そんなとこ」
「じゃあ……僕と結婚したことについては、君は失敗じゃないって思ってくれてるんだね。僕との結婚はリセットされてない」
妻は、あはは、と軽やかに笑った。
「そんなこと考えたんだ?」
「僕との結婚は……失敗じゃない?」
「当たり前でしょ。失敗だなんて思ったことないよ」
「でも君を好きな人は僕以外にもいたろ?」
「あら、知ってた? そう、いたわね……でも何度過去に戻っても、私はあなたを選ぶに決まってる」
妻の言葉に、僕は胸がじんわりと温かくなった。
「何度でも僕の妻になってくれてありがとう」
テーブルの上で僕と妻は手を握り合った。妻の照れた笑顔を見ながら、僕は改めて目の前の愛する人と、夫婦でいられることの幸せを噛み締めた。
「私、もう過去に行くのやめようかな」と妻が言った。
「え? せっかくの能力なのに、勿体無い」
「なんかリセット癖ついたらやだし」
「リセット癖?」
「そう。何回か過去に戻ってリセットしてみて……私も考えたんだけど、失敗も後悔もさ、なかったことにするよりも、笑って教訓にするとか乗り越える方がいいと思うんだ。よく考えてみればさ、髪型とか過去に戻ってまで、どうしてもやり直したいことじゃなかったし」
失敗したとしても、笑って教訓にし乗り越えるという前向きな妻の考えは、僕も大いに賛成だった。
「二人でいれば、どんな困難もどんと来いだ」と僕は言った。
妻は、頼もしいね、とにっこり笑った。
「あなたと、どんな未来を過ごすのかとても楽しみ」
妻は、輝くような笑顔を僕に向けてくれた。
僕は思いを馳せる。この先、歳をとっても僕らはずっと、こうして2人で笑い合っているだろう。
■■■■■
ある日、僕は目覚めて、違和感に気づいた。
一人だった。隣にいるはずの妻がいないのだ。
ん?
妻?
何でそんなことを思ったんだろう、僕はれっきとした独身者なのに。
だけど何でだろう、結婚していた気がする。そんな記録どこにもないのに。
夢でも見てたんだろうか、妻がいるなんて幸せな夢を。
妻がいて、未来を語り合って……そんな幸せな夢。
枕元に置いたスマホを手にとった。
妻と一緒に撮った写真があるはず……またもや妙なことを思った。
もちろん、そこには誰かとの思い出の写真なんて一つもない。
何で存在しない妻の思い出なんて……
妻?
どんな顔の妻?
僕は妻だと思う人の顔を思い浮かべようとするのだが、なかなか思い出せなかった。
おぼろげでぼやけている。
夢の中で見る人なんて、そんなもんだ。
すぐ忘れるだろう、夢のことなんて。
僕はベッドから出て朝食を用意した。
ぼんやりしてしまってトーストを焦がしてしまった。
真っ黒になったトーストを見て、これは失敗だな、と僕は一人呟いた。
失敗。
失敗、失敗、失敗、とその言葉が僕の頭の中で繰り返された。
そう、失敗だったんだ、彼女にとっては。
だから彼女は、やり直したんだ。彼女って誰? やり直すって何を?
自分でも、何だかよくわからない。
分からないまま、僕の胸には、強烈な悲しみと寂しさが広がっていた。
僕は、一人テーブルにつき、失敗して黒焦げになったトーストを齧った。
トーストは苦くてパサパサしていて、涙が込み上げてくる。
ぽろぽろと溢れた涙は、いつまでも止まらなかった。
家族とさえ関わらないように生きてきて、もちろん誰にも心を許したことのない僕にとって、true loveなんて類の言葉の意味を考えようとすると、頭の中に霞がかかったようにぼんやりしてしまう。まるでブレインフォグみたいだ。
ストレスに近い状態じゃないかと思う。
愛について考えるということは、愛を得られない自分についても考えなくてはならないということ。
だからごめん、true loveって競走馬にもいるよね、なんて茶化すくらいしか思いつかなくて。
true loveどころか打算的愛にも縁遠い僕は、世間から断罪されている気分になる。
愛を知らない人生なんて恥ずかしくないの?みたいに。
そんなことはないのかもしれないけどね、どうも卑屈になってしまうみたいだ。
だから僕はまず、小さな打算から始めてみようと思う。
ほんの少し、手を差し伸べるところから。
自分だけの小さな満足の為だけでいいから。
true loveにはほど遠くても、これが僕の一歩となるのなら。
「またいつか書けると思ってる?
多分君ね、使い果たしちゃったんだよ。
才能じゃないよ。
君が一番分かってるよね。
君に才能なんてあるわけない。
君が持ってたのは、運。ちっぽけな運ね。
それが尽きたってだけ。
自分で自分のこと賢いと思ってるんだろ?
なら諦めた方がいいって分かるよな。
他にやりがいのある仕事たくさんあると思うよ」
憧れだった、あの才気あふれる作家に言われた辛辣な言葉は、今でも俺の耳にこびりついている。
あれは呪いか?
だとしたら、今でも十分その効力は絶大だ。
一度地方紙で貰った評価(それもたまたまだったに過ぎない)にしがみつき、それっきり鳴かず飛ばずだった。
甘えていた俺。逃げてばかりいた俺。
あの人の言葉は、そんな俺を打ちのめすのに十分だった。
痛いほど真実だった。
あの人の言う通り、才能もなく、ちっぽけな運を使い果たした俺には何もない。
それでも俺は、あの人の言葉を墓標にはしたくない。
まだ断片しか見せてくれない物語の先を、俺が見たいから。
俺の中にまだ、語りたい声が聞こえてくるから。
俺はまだ物語を書くことをやめてないよ先生。
悪かったな、賢くなくて。
星を追いかけて
①星へ駆ける
馬にまたがり、彼は星を追っていた。
目指すはあの一番輝く星。
冬の夜空に、どの星よりも早く光るあの星だ。
彼は信じていた。あの星に追いつけば誰も見たことのない世界にたどり着けると。
「星に追いつこうなんて馬鹿げてる」
大人たちは笑った。
けれど彼は走った
だって、追いつく気でいたからだ。
未知の果てに何があるか知りたかった。
馬の脚が地を蹴るたび、空気を裂いて進んでいく。
視界に入る景色は次々と背後へと流れ、
冷たい風は熱に吹き飛ばされた。
「星が逃げるなら、僕が速くなればいいだけだ!」
走れ、もっと速く、前へ進め。
彼の胸の奥で、未知への渇望が燃えている。
それが燃え続ける限り、星は遠くない。
大人たちが笑う中、彼は夜空の奥へと消えていく。
ほら、見ただろう?
一瞬、星が彼の頭上で大きく瞬いたのを。
追い続けることで、それは彼の道になったんだ。
②彼女の星
「未練があるなら、追いかけてきてもいいよ」
彼女はそう言うと舞い上がり夜空に消えていった。
風変わりな子だった。
地球には調査に来たのだという。
「何の調査?」
「決まってるじゃない、地球人についての調査」
「じゃあ僕は調査対象というわけだ」
「そのようね」
「何か分かった?」
「地球人はNetflixとガリガリ君が好き」
「そうとも限らないさ」
「あとキスが下手」
地球人代表として大変申し訳ない。
僕のキスは下手だけど、キスが上手な人もたくさんいるって。
もし何億光年か先、君に再び地球人の恋人ができたとしたら、その時はキスがうまい相手だといいね。
ただ言い訳をするならば、彼女のキスはとても……コズミックすぎるというか、ここに書くのも憚られるようなものだった。
まるでブラックホールに吸い込まれるような。
ともかく彼女は夜空に消えた。
ーー未練があるなら、追いかけてきてもいいよ
そんな言葉を残して。
しまった、どの星か聞き忘れてしまった。
これじゃあ、追いかけようがないな。
ロケットもないし。
なんて追いかけない理由を幾つも並べて、僕は夜空を見上げる。
この夜空に無数に散らばる星の何処かに、彼女の星がある。
彼女のことを想いながら、僕はいつまでも夜空の星達を見上げていた。