「まだ続く物語」
あなたが生まれたのは夜明けだった
空は深い深い青色をしていた
私はあなたに希望という名前をつけた
あなたが息をしているか心配で私は眠れなかった。
一日中あなたと二人きり
夜も昼も眠れなくて私は時間を無くしたみたいだった
あなたが初めて話した言葉が何だったか覚えてない
書き留めておけばよかった
ママでもパパでもないことは確か
あなたが初めて私以外の人と長い時間を過ごした時
気が気じゃなかった
迎えに行った時あなたは一人で積み木を積んでいて
その小さな背中に涙がとまらなかった
あなたは自分は悪くないと主張した
目に涙を溜めて気丈に振る舞うあなたは、昔の私に似ていた。
どうか私に似ないでと抱きしめた。
元気いっぱいに走り出していくあなたを送り出した
もう手を繋いでくれなくなったあなたを
背中のランドセルが小さく見せていた
あなたは帰らなかった
前方不注意の車はスピードを落とさなかった
血の通わない肌はあまりにも白かった
小さな体が受けた痛みを思って私は体中を掻きむしった
あなたの写真を、私は選べなかった
今日、風を感じた。
あなたの歩く姿を思い出す
歩きはじめの頃、あなたはたどたどしく足を踏みだし、何度もよろめいた
あなたの歩く姿で、あなたの機嫌が分かった
あなたは俯いて歩き、乱暴に歩き、弾んで歩き、歌いながら歩いた
私にはあなたと紡いだ物語がある。
私に残されたのは、あなたが不在の物語を続ける痛みと祈り
あなたの物語は、永遠に輝きを失わない
早朝の湖。
湖面には山の影が揺れている。
湖の中央にボートが一艘。
ボートには釣り人が一人。
静かだった。
穏やかで風も音もない。
釣り人は糸を垂らしたまま、
ただ水面を見つめていた。
ふと、気配を感じて
釣り人は空を見上げた。
その音ははじめ、小さかった。
ばさり、ばさり。
釣り人は気付く。これは羽の音。
優雅な羽音と共に、どこからともなく
鳥たちが現れた。
不思議な鳥たちだった。
朝の光を受けて、羽は青にも灰色にも見えた。
彼らは一声も発さず、
美しい隊列を乱すことなく
湖の上空を目指してやってくる。
釣り人は目を細めた。
何という鳥だろう……見たことがない。
渡り鳥にしては、季節外れだ。
隊列飛行を保ったまま、鳥たちは
ゆるやかな弧を描くように滑空し
湖の中心へと進む。
静かな湖面が、空と鳥達を
鏡のように映していた。
上も下も青く澄んでいる。
現実とは思えないほど美しい。
釣り人の頭上で鳥たちは、大きな羽を
さらに大きくふわりと広げた。
鳥は、キラキラと輝いてそのまま消えた。
あっ……思わず釣り人は声を出す。
釣竿を、湖の中に落とすところだった。
鳥たちは、キラキラと眩い光を放って、
姿を消していった。
まるで、薄い空気の膜に
吸い込まれていくみたいだ
鳥たちは次々と、輝いては消えていく。
……最後の一羽が消えた時
釣り人はまだ、呆然としていた。
幻だったのだろうか?
だけど、あの羽音は耳に残っている。
夢だったんだろうか?
いや、あれは奇跡だ。神の奇跡。
奇跡でなければ、あんな美しい光景があるだろうか?
釣り人の頬を、涙が伝った。
確かに見た、この目で。
鳥たちが、この世界ではない別の世界へ
渡っていくのを。
奇跡の瞬間に、立ち会ったんだ。
何ということだ。
こんな事が起こるなんて。
人生で一番、美しい瞬間だった。
ーー数百年後。
空から、鳥達が消えていた。
「特別報告〜鳥達の不在について」
2050年以降、都市部において発生していた鳥類の減少は、山間部においても同様に減少が進んでいたと思われる。
現在、観測可能な鳥類は、世界全体で18種類のみ。
全て厳重な保護観察下にある。
考えられる鳥類の現象理由は、いくつか考えられる。
都市化、温暖化による急速な生息地の消失、長距離電波と各国の監視ドローンの空域干渉など。一部の国家間では、戦略的通信領域として上空の優先権を争い、国際法で認められていない小型無人機の飛行、またはその衝突が度々確認されている。
鳥類の急速な現象は、これら様々な要因が複合的に重なった背景があると考えられる。
現状として、多くの鳥類は絶滅種、もしくは絶滅危惧種として登録されている。
なお、絶滅、という表現に関して、異議を唱える研究者もいる。
彼らによると、絶滅というのは適切な表現ではなく、消息不明という表記が実状に近いということだ。
彼らの主張は、鳥類は自らの意志で地球で生息することを諦め、より住みやすい別の時空へ渡った、というものである。
この説に関しての、科学的説明は未だなされていない。
勿論、公式な学説として認められてはいない。
しかし世界各国で鳥類の「異様な消失」に関する報告(例:一瞬で群れが消えた、飛翔中に突然見えなくなった、その他多数)が少なくないことは、決して看過できない。
また、この説を主張する研究者の一人は、次のように述べている。
地球上の全ての空から鳥達が消えた。
年々、あらゆる種類が消えていく。
大抵の鳥達は、飛行中に、渡りの途中で姿を消していった。
そして、その全てが一瞬のうちに消失していったのだという。まるで空気中に溶けてしまうように。
彼らはどこに行ったのか?
答えは誰にも分からない。
しかし、鳥たちが突然消え去るという現象は、別時空への渡り、とは考えられないだろうか。
彼らは人類との共存を回避したうえで、より良い環境を求め別時空へと旅立った。これが私の立てた仮説である。
もしそうであれば、いつか、彼らはまたこの地球に帰ってくるのではないか。
鳥達が、この空に回帰する可能性は残されているのではないか。
それまでに私達が出来ることは何なのかを、考えなければならない。鳥達が再び、この空で生きようと思える空にする為に、私達が出来ることを。
「ドロドロですね」
僕がドロドロだと診断されたのは、ベタつきが気になり始める梅雨の入り口だった。
会社で実施された定期健康診断の時だ。
「病気というわけではありませんが、かなりドロドロしています。このままでは心筋梗塞になる可能性もあります。さらさらになる為の生活習慣見直しをお勧めします」
医者にそう言われて、僕は父のことを思い出した。
父は、心筋梗塞で亡くなったのだが、かなりドロドロした人物だった。ああはなりたくない。
僕は、さらさらになる事を決意した。
帰宅して妻に告げると、すでにサプリが用意されていた。
僕のドロドロを、彼女は既に予知していたのだ。
「ドロドロなら、これが効くよ。飲み続ければ、さらさら効果が表れるんだって」
多分、生活を共にする彼女は、僕のドロドロにいち早く気づいていたのだろう。だとしたらきっと、嫌な思いをさせてしまったに違いない。
僕は反省した。父のようになりたくないのだ。
妻の為にも僕は、さらさらになるべきだ。
ということで、僕はとりあえず、妻の用意してくれたサラサラサプリメントを飲むことにした。
一週間、二週間……サプリを飲んでいるが、何も変わった気がしない。
でも妻は言った。
「続けることが大事よ」
僕はサプリの摂取を継続した。
二ヶ月後、会社で部下に言われた。
「最近……なんかさらさらしてますよね」
「え、そうか?」
「いい感じっす」
やっと効果が出てきたのか。
若い部下に、いい感じ、なんて言われると悪い気はしない。
というか、とても嬉しかった。
ヨシッとガッツポーズをしそうになって、やめた。僕は分かりかけていた。さらさらしている、というのはどういうことなのか。
ガッツポーズなんて、さらさらした男の反応じゃない。悪い気はしないね、くらいの反応がちょうどいい。やはり、サプリの効果は出ている。
その日を境に僕は、「さらさらしてるね」と言われる回数が増えた。
確かに、僕はさらさらしてきた。
肌のベタつきもなくなり、若干くせ毛の髪も、さらさらと風になびくようになった。
何より変わったと思うのが、何事もさらっと流せるようになったことだ。
最近の僕の口癖は、「まあいいや」だ。
悲しいことや不満があれば、その感情にのみ込まれてしまう前に、まあいいやと流すことにした。
父にはできなかった事だ。
ドロドロしているより、さらさらしている方が、人間として品がある。上位にいるというか。
そんなわけで僕は「どんな時もさらさらであろう」と心に決めた。
誰に何を言われても、さらっと受け流す。
怒りも失敗も嫉妬も承認欲求も、さらさらと。
人間関係において発生するマイナス感情は、さらりと受け流すに限る。
指からこぼれる砂のように、ふるいにかけた小麦粉のように。
僕はどんどん、さらさらしていった。
部長の嫌味もさらりと流し、苦手な飲み会のお誘いもさらりとかわす。
僕がさらさらになっていくのを、妻も褒めてくれた。
「凄くさらさらしてきたね。いいじゃない、サプリ続けて本当に良かったね」
僕は、まあね、とさらりと返した。
さらさらであるというのは、気分がいい。
身も心も軽い。
僕はもう、歩く音さえ立てない。なんなら空気の方が重いんじゃないか、重力なんてあったっけ? と思うほどだ。
人間関係もかなり、変化した。
相手が上司でも部下でも、聞きたくない話はさらりと流す。会話はいつもスムーズに。
「聞いてるのか」と不満気な相手には「聞いてません」とさらっと答える。
「まあお前なら仕方ないか、さらさらしてるもんな」と許されるようになった。
さらさらには、罪がないのだ。誰も責められない。
なぜなら、つかめないから。
でも中には、許せない奴もいるらしい。僕の同期がそういう奴だった。
「お前、何でそんな感じになっちまったんだよ……!」
彼は、さらさらとは真逆の男だ。
嫉妬心や野心を隠しもしない。気に食わない事には何事も突っかかるような男。
まあ、よく言えば熱血漢。
「最近のお前は、何考えてるか分かんねえよ。なにを気取ってるんだ? 涼しい顔で何もかも流しやがって。こっちはな、日々葛藤してるんだよ、戦ってるんだよ。部長に媚びて、部下の尻叩いて気も使って、それでも何とか仕事まわそうとしてんだよ。欲望と虚栄心を捨てて金が稼げるか? 見栄とプライドなくしていい仕事できんのか?」
「人には持ち味ってやつがあるのさ」
彼のことも、さらっとスルーし、僕はその場を立ち去った。
彼は愚かだ。戦うとか葛藤するとか、そういうマインドを人生に持ち込むなんて、もっとさらっと楽しんだ方がいい。
僕には、さらさらな生き方が出来ない彼が、僕に嫉妬してるようにしか思えなかった。
欲望?虚栄心?何故、ドロドロとした感情を捨てようとしないのか僕には分からない。
僕が家に帰ると、リビングから濃厚な匂いがした。
ねっとりした濃い匂いで、むせ返りそうだ。
リビングのソファで、妻が僕ではない男と絡み合っていた。
それはもう、さらさらの対極にあるような、湿度も粘度も高い、濃厚な絡みあいだった。
普通なら取り乱すところだが、今の僕は違う。
僕はさらさらしているから。
僕は、怒りとか嫉妬とか、そういう濃度の高い感情とは、縁遠い存在になったのだ。
僕は言った。
「おぉ……なるほどね」
自分でも意外なほど落ち着いた声だ。
「まあ……あるよね。こういうこと。たまにはね、いいんじゃない。うん、うん。大丈夫、ちゃんと、換気しといて?」
妻はそんな僕を、動じる事なくじっと見ていた。
悪びれもしない眼差しだ。何故か僕を責めているようだった。不倫したのは妻の方なのに。
まあ、いいか。僕はこの場にいない方がいい。じゃあ、と僕は家を出た。
背中を向けると、妻と妻の不倫相手がひそひそと話す声が聞こえた。
「え……いいの? 旦那さん、大丈夫かな?」
「気にしなくていいわよ。あの人だって、何も気にしないもの」
そう、僕は気にしない。
僕は妻の言う通り、今見た光景をさらりと流した。
それから僕は一人、街を歩いた。あまり何も感じなかった。
怒りも悲しみも、妻への愛も……。
昔の僕なら叫んだだろう。泣いたかもしれない。
でも今はもう、そんな感情は湧いてこなかった。
思うに、さらさらしすぎると、何も引っかからなくなるんだ。
妻の不貞でさえ。
僕はあてもなく歩いた。
あてもなく歩いて、気づいたらビルの屋上に来ていた。風が吹いている。
さらりとした、優しい風だ。
僕は、風に吹かれた。
指先から、輪郭を失っていった。皮膚の表面が砂のように細かく崩れ、そのまま風に溶けていく。
僕は、静かにさらさらと崩れていく。微細な粒子となって。
もう少ししたら、風が僕の全てを、さらりと消し去るだろう。
すこぶるいい気分だ。
この世界のどこかに私の本当の居場所がある
そんな事を思うのはもうこれで最後にしよう
「橋本先輩って、下の名前なんて読むんですか?」
飲み会の時思い切って聞いてみたら、橋本先輩はほろ良い加減で、ユヅキだよ、と教えてくれた。
そう言えばさあ、と先輩は言った。
「小学校時代、クラスに同じ名前の子が三人いて。ユズキとユズキとユヅキ。一人はユズって呼ばれてて、もう一人は、ユズキって呼ばれて、私は橋本さん。そう、私だけ名字。他の子もみんな下の名前で呼び合ってて、私だけ名前で呼ばれないことが、なんか恥ずかしかったな」
橋本先輩は結構酔っているのかもしれない。こんな風に自分の話をするなんて、滅多にないことだ。先輩はビールをくっと飲み干す。
「名前で呼ばれるってことは、特別親しい仲の表明みたいなものじゃん? 名字呼びはあなたは私たちの輪に入らないでねって言われてるみたいでさ。まあ、私も自分から打ち解けようとしない子供だったんだけどね。今もその性格は基本、変わってない」
そう言って先輩は少しだけ笑った。
子供時代に作った傷というのは、どんなに些細なものでも残っているものだ。
そしてそれはふとした瞬間に、いまだにちくちくと痛みを訴える。
橋本先輩みたいにしっかりした人でもそう思うのか、と少々驚くと共に僕は、彼女が自分のことを語ってくれたのが嬉しかった。
なので、距離を詰めることにした。
「じゃあ先輩と親しくなりたいんで名前で呼んでもいいですか、優月さん」
名前を呼ばれて橋本先輩は、驚いたようだった。
驚いて、そのあとは戸惑いと不安が入り混じったような、複雑な表情。
僕は今、どんな顔をしているんだろうか。
できるだけクールな感じを僕は装った。
「名前で呼びあったら、僕らもう、恋人同士みたいですよね」
「ちょっと待て」
「今からそうなりませんか? あ、もちろん友達でもいいですけど。考えてみてください、優月さん」
名前を呼んだのは、ちょっとした賭けだ。
アルコールが入っていることも、後押ししてくれた。
「……あっさり言うね」
「ええ、まあ」
本当は、名前を呼んだ時は心臓が爆発しそうだった。名前を呼ぶ、と言うのは確かに、特別な存在になったことを告げるようなものだ。すごく勇気がいる。
でも僕が名前を呼びたいのは、橋本先輩だからだ。
少しだけ寂しさを打ち明けてくれた彼女のことをもっと知りたかったし、僕の事を知って欲しかった。
たっぷりと沈黙した後、橋本先輩は、困ったように言った。
「……正直言うと、名前を呼ばれただけで、ちょっとキュンとしてしまったけど、そんな自分が情けなくもある……だってバカみたい、私は人と打ち解けるのが本当に苦手で、それがこんな、名前を呼ばれただけで、ああほんとバカみたい」
その後また、たっぷりの沈黙があって、橋本先輩ーー優月さんは、ほとんど泣きそうな消え入りそうな声で、初めて僕の名前を呼んでくれたのだった。