「橋本先輩って、下の名前なんて読むんですか?」
飲み会の時思い切って聞いてみたら、橋本先輩はほろ良い加減で、ユヅキだよ、と教えてくれた。
そう言えばさあ、と先輩は言った。
「小学校時代、クラスに同じ名前の子が三人いて。ユズキとユズキとユヅキ。一人はユズって呼ばれてて、もう一人は、ユズキって呼ばれて、私は橋本さん。そう、私だけ名字。他の子もみんな下の名前で呼び合ってて、私だけ名前で呼ばれないことが、なんか恥ずかしかったな」
橋本先輩は結構酔っているのかもしれない。こんな風に自分の話をするなんて、滅多にないことだ。先輩はビールをくっと飲み干す。
「名前で呼ばれるってことは、特別親しい仲の表明みたいなものじゃん? 名字呼びはあなたは私たちの輪に入らないでねって言われてるみたいでさ。まあ、私も自分から打ち解けようとしない子供だったんだけどね。今もその性格は基本、変わってない」
そう言って先輩は少しだけ笑った。
子供時代に作った傷というのは、どんなに些細なものでも残っているものだ。
そしてそれはふとした瞬間に、いまだにちくちくと痛みを訴える。
橋本先輩みたいにしっかりした人でもそう思うのか、と少々驚くと共に僕は、彼女が自分のことを語ってくれたのが嬉しかった。
なので、距離を詰めることにした。
「じゃあ先輩と親しくなりたいんで名前で呼んでもいいですか、優月さん」
名前を呼ばれて橋本先輩は、驚いたようだった。
驚いて、そのあとは戸惑いと不安が入り混じったような、複雑な表情。
僕は今、どんな顔をしているんだろうか。
できるだけクールな感じを僕は装った。
「名前で呼びあったら、僕らもう、恋人同士みたいですよね」
「ちょっと待て」
「今からそうなりませんか? あ、もちろん友達でもいいですけど。考えてみてください、優月さん」
名前を呼んだのは、ちょっとした賭けだ。
アルコールが入っていることも、後押ししてくれた。
「……あっさり言うね」
「ええ、まあ」
本当は、名前を呼んだ時は心臓が爆発しそうだった。名前を呼ぶ、と言うのは確かに、特別な存在になったことを告げるようなものだ。すごく勇気がいる。
でも僕が名前を呼びたいのは、橋本先輩だからだ。
少しだけ寂しさを打ち明けてくれた彼女のことをもっと知りたかったし、僕の事を知って欲しかった。
たっぷりと沈黙した後、橋本先輩は、困ったように言った。
「……正直言うと、名前を呼ばれただけで、ちょっとキュンとしてしまったけど、そんな自分が情けなくもある……だってバカみたい、私は人と打ち解けるのが本当に苦手で、それがこんな、名前を呼ばれただけで、ああほんとバカみたい」
その後また、たっぷりの沈黙があって、橋本先輩ーー優月さんは、ほとんど泣きそうな消え入りそうな声で、初めて僕の名前を呼んでくれたのだった。
5/27/2025, 4:27:36 AM