「ドロドロですね」
僕がドロドロだと診断されたのは、ベタつきが気になり始める梅雨の入り口だった。
会社で実施された定期健康診断の時だ。
「病気というわけではありませんが、かなりドロドロしています。このままでは心筋梗塞になる可能性もあります。さらさらになる為の生活習慣見直しをお勧めします」
医者にそう言われて、僕は父のことを思い出した。
父は、心筋梗塞で亡くなったのだが、かなりドロドロした人物だった。ああはなりたくない。
僕は、さらさらになる事を決意した。
帰宅して妻に告げると、すでにサプリが用意されていた。
僕のドロドロを、彼女は既に予知していたのだ。
「ドロドロなら、これが効くよ。飲み続ければ、さらさら効果が表れるんだって」
多分、生活を共にする彼女は、僕のドロドロにいち早く気づいていたのだろう。だとしたらきっと、嫌な思いをさせてしまったに違いない。
僕は反省した。父のようになりたくないのだ。
妻の為にも僕は、さらさらになるべきだ。
ということで、僕はとりあえず、妻の用意してくれたサラサラサプリメントを飲むことにした。
一週間、二週間……サプリを飲んでいるが、何も変わった気がしない。
でも妻は言った。
「続けることが大事よ」
僕はサプリの摂取を継続した。
二ヶ月後、会社で部下に言われた。
「最近……なんかさらさらしてますよね」
「え、そうか?」
「いい感じっす」
やっと効果が出てきたのか。
若い部下に、いい感じ、なんて言われると悪い気はしない。
というか、とても嬉しかった。
ヨシッとガッツポーズをしそうになって、やめた。僕は分かりかけていた。さらさらしている、というのはどういうことなのか。
ガッツポーズなんて、さらさらした男の反応じゃない。悪い気はしないね、くらいの反応がちょうどいい。やはり、サプリの効果は出ている。
その日を境に僕は、「さらさらしてるね」と言われる回数が増えた。
確かに、僕はさらさらしてきた。
肌のベタつきもなくなり、若干くせ毛の髪も、さらさらと風になびくようになった。
何より変わったと思うのが、何事もさらっと流せるようになったことだ。
最近の僕の口癖は、「まあいいや」だ。
悲しいことや不満があれば、その感情にのみ込まれてしまう前に、まあいいやと流すことにした。
父にはできなかった事だ。
ドロドロしているより、さらさらしている方が、人間として品がある。上位にいるというか。
そんなわけで僕は「どんな時もさらさらであろう」と心に決めた。
誰に何を言われても、さらっと受け流す。
怒りも失敗も嫉妬も承認欲求も、さらさらと。
人間関係において発生するマイナス感情は、さらりと受け流すに限る。
指からこぼれる砂のように、ふるいにかけた小麦粉のように。
僕はどんどん、さらさらしていった。
部長の嫌味もさらりと流し、苦手な飲み会のお誘いもさらりとかわす。
僕がさらさらになっていくのを、妻も褒めてくれた。
「凄くさらさらしてきたね。いいじゃない、サプリ続けて本当に良かったね」
僕は、まあね、とさらりと返した。
さらさらであるというのは、気分がいい。
身も心も軽い。
僕はもう、歩く音さえ立てない。なんなら空気の方が重いんじゃないか、重力なんてあったっけ? と思うほどだ。
人間関係もかなり、変化した。
相手が上司でも部下でも、聞きたくない話はさらりと流す。会話はいつもスムーズに。
「聞いてるのか」と不満気な相手には「聞いてません」とさらっと答える。
「まあお前なら仕方ないか、さらさらしてるもんな」と許されるようになった。
さらさらには、罪がないのだ。誰も責められない。
なぜなら、つかめないから。
でも中には、許せない奴もいるらしい。僕の同期がそういう奴だった。
「お前、何でそんな感じになっちまったんだよ……!」
彼は、さらさらとは真逆の男だ。
嫉妬心や野心を隠しもしない。気に食わない事には何事も突っかかるような男。
まあ、よく言えば熱血漢。
「最近のお前は、何考えてるか分かんねえよ。なにを気取ってるんだ? 涼しい顔で何もかも流しやがって。こっちはな、日々葛藤してるんだよ、戦ってるんだよ。部長に媚びて、部下の尻叩いて気も使って、それでも何とか仕事まわそうとしてんだよ。欲望と虚栄心を捨てて金が稼げるか? 見栄とプライドなくしていい仕事できんのか?」
「人には持ち味ってやつがあるのさ」
彼のことも、さらっとスルーし、僕はその場を立ち去った。
彼は愚かだ。戦うとか葛藤するとか、そういうマインドを人生に持ち込むなんて、もっとさらっと楽しんだ方がいい。
僕には、さらさらな生き方が出来ない彼が、僕に嫉妬してるようにしか思えなかった。
欲望?虚栄心?何故、ドロドロとした感情を捨てようとしないのか僕には分からない。
僕が家に帰ると、リビングから濃厚な匂いがした。
ねっとりした濃い匂いで、むせ返りそうだ。
リビングのソファで、妻が僕ではない男と絡み合っていた。
それはもう、さらさらの対極にあるような、湿度も粘度も高い、濃厚な絡みあいだった。
普通なら取り乱すところだが、今の僕は違う。
僕はさらさらしているから。
僕は、怒りとか嫉妬とか、そういう濃度の高い感情とは、縁遠い存在になったのだ。
僕は言った。
「おぉ……なるほどね」
自分でも意外なほど落ち着いた声だ。
「まあ……あるよね。こういうこと。たまにはね、いいんじゃない。うん、うん。大丈夫、ちゃんと、換気しといて?」
妻はそんな僕を、動じる事なくじっと見ていた。
悪びれもしない眼差しだ。何故か僕を責めているようだった。不倫したのは妻の方なのに。
まあ、いいか。僕はこの場にいない方がいい。じゃあ、と僕は家を出た。
背中を向けると、妻と妻の不倫相手がひそひそと話す声が聞こえた。
「え……いいの? 旦那さん、大丈夫かな?」
「気にしなくていいわよ。あの人だって、何も気にしないもの」
そう、僕は気にしない。
僕は妻の言う通り、今見た光景をさらりと流した。
それから僕は一人、街を歩いた。あまり何も感じなかった。
怒りも悲しみも、妻への愛も……。
昔の僕なら叫んだだろう。泣いたかもしれない。
でも今はもう、そんな感情は湧いてこなかった。
思うに、さらさらしすぎると、何も引っかからなくなるんだ。
妻の不貞でさえ。
僕はあてもなく歩いた。
あてもなく歩いて、気づいたらビルの屋上に来ていた。風が吹いている。
さらりとした、優しい風だ。
僕は、風に吹かれた。
指先から、輪郭を失っていった。皮膚の表面が砂のように細かく崩れ、そのまま風に溶けていく。
僕は、静かにさらさらと崩れていく。微細な粒子となって。
もう少ししたら、風が僕の全てを、さらりと消し去るだろう。
すこぶるいい気分だ。
5/28/2025, 11:43:50 PM