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5/25/2025, 2:45:58 PM

「傘ないんですか? よかったら駅まで入ります?」

会社を出る間際になって突然降り出した雨を、茫然と見上げる私に声をかけてきたのは、村井さんだった。

「え」

思ったより大きな声が出て、自分でも驚いた。自分の声の大きさにも驚いたし、村井さんが突然そんなことを言ったのにも驚いた。

「嫌だったらいいですけど」

村井さんは、無表情のまま私の横をすり抜けようとしたので私は慌てて言った。

「入る入る、入ります、助かりますっ」

正直、村井さんとの相合傘は気乗りしなかったが、この雨で駅まで傘なしで歩くのは流石に厳しかったし、会社に戻るのも嫌だったし、ということで私は村井さんの傘に入れてもらうことにした。

じゃあ、駅まで。と村井さんは傘を広げた。
村井さんの傘は紺色の大きめの傘で、先端部分がシュッとしていた。
村井さんみたいな傘だな、と思った。特徴はないけどきちんとしている。それから隙がない感じ。
駅まで、相合傘だ。しかも意外な人物と。

村井さんは会社でも、マイペースを貫く、ちょっと変わった人だ。
飲み会とか来ないし、プライベートな情報が一切謎に包まれている人。最低限必要なコミュニケーションは取れるし、仕事はきっちりこなすから、マシンみたい。
地味な見た目から判断しちゃって申し訳ないけど、多分彼女とかいなさそう。
私も彼氏はいないけど。
妙齢の男女が相合傘……しかし私と村井さんでは、甘い雰囲気には、なりそうもなかった。

「天気予報、見なかったんですか? 降水確率30%でしたよ」
「いや、朝はバタバタして天気予報見てなくて……ええと、村井さんは降水確率何%だったら傘用意するんですか?」
「常に用意しています」
「……そうなんだ〜」

やっぱり、会話は続かない。
しばらく沈黙が続く。
うーんと。話題話題。

「あ、村井さんって雨でも裾汚れない人ですか?」
「は?」
「雨の中歩くと、雨水跳ね上げて裾汚れちゃうじゃないですか、私ふくらはぎまで跳ね上げちゃうんですよね。逆に裾汚さない人っているじゃないですか、あれ凄いですよね、どういう歩き方したら跳ね上げしないんだろう」
「気をつけて歩けばいいだけですよ」
「……ですよね〜」

やっぱり会話は続かない。
何を話したらいいんだ。
アニメか? 好きな食べ物? なんかプライベートなことを聞くって感じじゃない。そういうの村井さんは会社で出さない人だし、私も村井さんのプライベートな情報なんて何一つ興味が持てない。
……駅までの道のりが果てしなく感じる。
傘に入れてくれたのはありがたいが、続かない会話に、ますます気まずさが募っていく。

「……村井さんの傘ってなんかシュッとしてていいですよね」
「シュッとしている?」
「あ、はい、えっと先が尖ってるっていうか……」
「石突のことでしょうか。普通、傘の先端というのは、尖っていてシュッとしてるんじゃないでしょうか」
「そうでした〜」

しまったなあ、嘘でもオシャレな傘、とか言えばよかったか。

「この傘が一番いい音するんで」と村井さんは言った。

「いい音?」
「ええ、雨が傘にあたる音です」
「音、ですか」

私は村井さんの傘に雨があたる音を聴いてみた。
ポトポト、パラパラ、と音がする。粒が当たって跳ね返っている。

「いくつか傘を持っているんですが、これが一番いい音ですね、雨の音をクリアに伝えてくれます」
「……へえ〜」

村井さんは珍しく、得意気な表情をしていた。
なるほど。傘にあたる雨の音、か。
クリアに伝わる音、という表現が村井さんらしい。
それにしても傘が違えば、音にも違いがあるんだろうか? 
いくつか傘を持ってるとか、村井さんはこだわりがあるんだろうか?
私は、あまり気にしたことはなかった、傘にあたる雨の音なんて。

私は、音に耳を傾けた。
確かに傘に当たって跳ねる音は心地いい。
大粒の音、小粒の音。突然速まったり。リズミカルだったり。
傘の中で音が反響しているみたいで、妙に落ち着く。
雨の音を聞く間、私と村井さんは一言も話さなかった。
ただ、二人で雨音を聴きながら歩いた。
雨の街を歩きながら私は、音だけじゃなくて、いろんなことを味わった。
空気の冷たさ、雨の匂い。雨でぼやけた信号。
雨に濡れて発色が濃くなってツヤツヤと輝く新緑。
そういうもので心が一杯になっていく。
村井さんも同じなのかもしれない。


そうか。会話しなくていいんだ。
雨の音を聞いてるだけでいいんだ。
村井さんの傘の中で、雨の音を聞く。
何も話していないのに、さっきよりも村井さんと会話しているみたいだった。

駅に着くと、村井さんは傘についた丁寧に雨粒を払い、じゃあこれで、お疲れ様、と言うと、私の方を見向きもせずに、すたすたと行ってしまった。
傘に入れてくれて助かりました、お疲れ様、と私は、その背中を見送る。
人の流れに消えていく村井さんの背中を見ながら、今度いい音のする傘を探してみよう、なんてことを思ったのだった。

5/25/2025, 8:07:33 AM

彼女は、囁くように小さな声で歌い始めたので、最初は誰も歌が始まったことに気づかなかった。
静かなアカペラだった。

ふと、誰かが足を止めた。
遠い記憶を呼び起こすような旋律を、耳が拾ったのだ。
郷愁に訴えかける旋律だった。
もう戻れないけど大切な場所。
そんな場所が自分にもあるように思った。
どこかは分からないけど、とても大切な場所だ。
それが荒れ果ててしまった不毛の土地でも。

また一人、彼女の歌に気づいた人がいる。
立ち止まって、自由を讃える歌詞に耳を傾けた。
あるがままの世界で自由でいられる素晴らしさを、彼女は歌っていた。
喜びに溢れて力強く、希望に満ちた歌詞だ。
だけど心惹かれた理由は、歌詞の力強さではなかった。
それを歌う彼女の声が、ひどく悲しげだったことだ。
喜びを歌い上げているのに、彼女の声は痛ましいほど寂しく、自由を歌い上げているというよりは、孤独について語っているみたいだった。
それはよく知っている孤独だ、自分と同じような。

足を止めたのは彼らだけではなかった。
一人、二人と彼女の歌に立ち止まって耳を傾ける人たちが現れる。
聴衆は、じっと目を閉じたり、寂しげな微笑みを浮かべたり、それぞれ自分の世界に浸った。
それでも、足早に去っていく人の方がほとんだった。
多くの人が行き交う雑踏の中で、彼女は歌い続けた。

次の瞬間、歌は思わぬ展開をする。
彼女は手にしたギターで、音を奏でる。
もう、彼女の歌声はささやくような声ではなかった。
ギターの音が重なるたび彼女の歌声は次第に大きくなり、居合わせた人々の感情を増幅する。
彼女の歌は、囁くような始まりからは想像もできなかった形で終わる。楽器のようなロングトーン。歌詞としては意味を成さないような印象的なフレーズが繰り返される。
歌の終わりに、その場は静まり返った。



それからやっと、パラパラと、まばらな拍手が聞こえてくる。
聴衆の反応は様々だった。
我に帰ったような顔で雑踏の流れに戻る人もいれば、頷くように、よかったよ、と目で言ってくれる人もいる。
大抵の人は雑踏に紛れていなくなってしまうが、彼女は深々と頭を下げる。
――聞いてくれてありがとう。
こうして人前で歌を歌うのは、これが初めてではないが、歌い終わった後はいつも不思議な気持ちになる。
特に今みたいな共振が起きた時には。


彼女は、自分のことを表現するのは苦手だった。
何が好き? 今、どんな気持ち?
そんな風に言われても言葉にするのも表情で表すのも、彼女には難しかった。
自分の中にある、誰にも伝えられなかった気持ち。
ある日歌にしてみるとそれは、自然と言葉とメロディになった。
それは次々と、どうしようもないほど溢れだす。

ある日彼女は雑踏に立った。
理解などされなくてもいい、ただ吐き出したいがためのパフォーマンスだった。
だが実際、誰かに向けて歌ってみると、聴いてくれた人との間に、不思議な共鳴が起きることがある。
彼女と聴衆の間の空間は、単なる物理的な空間ではなくなるのだ。
何らかの感情を伴ったものとして、その場を共有している。
ただの気のせいかもしれない。
歌を歌うのは、自分の中の一部を差し出しているようなもので、それはとても個人的なことだから。
だがもし、あの共振を感じる時、自分の音楽が、ほんの一瞬だけでも誰かの感情の一部になる、そんな事が起こっているのだろうか?
もしそうなら、と彼女は思う。きっと歌ってみてよかったのだ。
彼女は、歌の力を信じている。

5/23/2025, 9:22:45 PM

もしこんな私を
そっと包み込んでくれる
ものがあるのだとしたら
五月の風とかコーヒーの香りとか
ふと流れてきた音楽とか
そういうものがいいよ
月の光、波の音、物語、孤独とか
そっと寄り添ってくれるけど
決して奪わない
愛はまだ怖い
愛は人を変えるから

5/22/2025, 1:25:46 PM

朝起きたら、妙に頭がスッキリしていた。
お肌の調子もいいし、なんか身長も何センチか伸びた気がする。
どうやら深夜、ver6.3にアップデートされたらしい。
感情処理速度もフェイク判別機能精度もアップしたのを感じる。
ストレス耐性バランサーはアップデートのたびに強化されてる、ありがたい。
黒歴史の圧縮機能も実装されたらしい、でも完全に消去できるようになるのは、まだまだ先かな。
それでも、今回は課金しただけある。いい感じだ。

うーん、おはよう……と隣で寝ていた彼が起きる。
嘘でしょ、やば。
この人まだver5.9じゃない。
そういえば、前に「アップデートの通知、ウザいから切ってんだよね」とか言ってたっけ。
ああ、もう。
私なんて見る目ないんだろう。この人、置いていかれる側じゃん。
「今日、何する?」と私を抱き寄せようとする彼の手をするりと抜けた。
ver4.2だった時は、あんなに魅力的だったその仕草が今は鬱陶しくてたまらない。
……ごめん、こんなこと思うなんてversion差別だ、最低だ私。
旧versionの人には思いやりを持って接しなきゃ。
ってさすがだわ。早速、マイクロアグレッション検出機能が仕事してる。
無自覚な偏見を即座に感知、適正モードにしてくれるのね。
どうした?と戸惑う彼に私は言った。

「昨日、私アップデートしたの」
「え、アップデート?」
「だからごめん」
「え、何が?」
「……やっぱり処理速度遅いね」
「は?」
「私たちもう、一緒にいない方がいいと思う」
「何だよそれ、何で急にそんなこと言うんだよ」
「君との時間、楽しかった。でも終わりだよ。このまま無理して続けるのは効率的じゃない」
「何でだよ、わけがわからない……」
「さよなら」

私が服を着る間、彼はずっとうなだれていた。
部屋を出る直前、彼は絞り出すような声で言った。

「更新したら、想いまで消去されんのかよ。じゃあ俺は絶対更新なんか、しないからな。君と過ごした時間全部、そのままで俺は残すからな」

別れ際はスマートでいたい。
私は彼のセリフを、そう、とだけ言って受け流す。
部屋を出たあと、胸にノイズが走った。
効率化された感情処理システムでも分解できないノイズの痛みに、私の目から涙が溢れた。


5/21/2025, 12:47:56 PM

太陽に選ばれし朝の使者、
闇を打ち破る勇者サンライズよ、
去るがいい
私は朝を拒む者
夜の闇こそ私の安らぎ、私のぬくもり
お前はそれを焼き払おうと言うのか
お前の剣が放つ輝かしい光
その光は決して祝福などではない
その輝きが全てを救うとは限らない
聞け、勇者サンライズよ
私は夜を守り闇に住まう者
お前のように闇を恐れてなどいない
自ら選んだのだ、この闇を
終わらない夜こそ私の世界
この闇をお前などに渡すものか




「早く起きなさ〜い」

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