「傘ないんですか? よかったら駅まで入ります?」
会社を出る間際になって突然降り出した雨を、茫然と見上げる私に声をかけてきたのは、村井さんだった。
「え」
思ったより大きな声が出て、自分でも驚いた。自分の声の大きさにも驚いたし、村井さんが突然そんなことを言ったのにも驚いた。
「嫌だったらいいですけど」
村井さんは、無表情のまま私の横をすり抜けようとしたので私は慌てて言った。
「入る入る、入ります、助かりますっ」
正直、村井さんとの相合傘は気乗りしなかったが、この雨で駅まで傘なしで歩くのは流石に厳しかったし、会社に戻るのも嫌だったし、ということで私は村井さんの傘に入れてもらうことにした。
じゃあ、駅まで。と村井さんは傘を広げた。
村井さんの傘は紺色の大きめの傘で、先端部分がシュッとしていた。
村井さんみたいな傘だな、と思った。特徴はないけどきちんとしている。それから隙がない感じ。
駅まで、相合傘だ。しかも意外な人物と。
村井さんは会社でも、マイペースを貫く、ちょっと変わった人だ。
飲み会とか来ないし、プライベートな情報が一切謎に包まれている人。最低限必要なコミュニケーションは取れるし、仕事はきっちりこなすから、マシンみたい。
地味な見た目から判断しちゃって申し訳ないけど、多分彼女とかいなさそう。
私も彼氏はいないけど。
妙齢の男女が相合傘……しかし私と村井さんでは、甘い雰囲気には、なりそうもなかった。
「天気予報、見なかったんですか? 降水確率30%でしたよ」
「いや、朝はバタバタして天気予報見てなくて……ええと、村井さんは降水確率何%だったら傘用意するんですか?」
「常に用意しています」
「……そうなんだ〜」
やっぱり、会話は続かない。
しばらく沈黙が続く。
うーんと。話題話題。
「あ、村井さんって雨でも裾汚れない人ですか?」
「は?」
「雨の中歩くと、雨水跳ね上げて裾汚れちゃうじゃないですか、私ふくらはぎまで跳ね上げちゃうんですよね。逆に裾汚さない人っているじゃないですか、あれ凄いですよね、どういう歩き方したら跳ね上げしないんだろう」
「気をつけて歩けばいいだけですよ」
「……ですよね〜」
やっぱり会話は続かない。
何を話したらいいんだ。
アニメか? 好きな食べ物? なんかプライベートなことを聞くって感じじゃない。そういうの村井さんは会社で出さない人だし、私も村井さんのプライベートな情報なんて何一つ興味が持てない。
……駅までの道のりが果てしなく感じる。
傘に入れてくれたのはありがたいが、続かない会話に、ますます気まずさが募っていく。
「……村井さんの傘ってなんかシュッとしてていいですよね」
「シュッとしている?」
「あ、はい、えっと先が尖ってるっていうか……」
「石突のことでしょうか。普通、傘の先端というのは、尖っていてシュッとしてるんじゃないでしょうか」
「そうでした〜」
しまったなあ、嘘でもオシャレな傘、とか言えばよかったか。
「この傘が一番いい音するんで」と村井さんは言った。
「いい音?」
「ええ、雨が傘にあたる音です」
「音、ですか」
私は村井さんの傘に雨があたる音を聴いてみた。
ポトポト、パラパラ、と音がする。粒が当たって跳ね返っている。
「いくつか傘を持っているんですが、これが一番いい音ですね、雨の音をクリアに伝えてくれます」
「……へえ〜」
村井さんは珍しく、得意気な表情をしていた。
なるほど。傘にあたる雨の音、か。
クリアに伝わる音、という表現が村井さんらしい。
それにしても傘が違えば、音にも違いがあるんだろうか?
いくつか傘を持ってるとか、村井さんはこだわりがあるんだろうか?
私は、あまり気にしたことはなかった、傘にあたる雨の音なんて。
私は、音に耳を傾けた。
確かに傘に当たって跳ねる音は心地いい。
大粒の音、小粒の音。突然速まったり。リズミカルだったり。
傘の中で音が反響しているみたいで、妙に落ち着く。
雨の音を聞く間、私と村井さんは一言も話さなかった。
ただ、二人で雨音を聴きながら歩いた。
雨の街を歩きながら私は、音だけじゃなくて、いろんなことを味わった。
空気の冷たさ、雨の匂い。雨でぼやけた信号。
雨に濡れて発色が濃くなってツヤツヤと輝く新緑。
そういうもので心が一杯になっていく。
村井さんも同じなのかもしれない。
そうか。会話しなくていいんだ。
雨の音を聞いてるだけでいいんだ。
村井さんの傘の中で、雨の音を聞く。
何も話していないのに、さっきよりも村井さんと会話しているみたいだった。
駅に着くと、村井さんは傘についた丁寧に雨粒を払い、じゃあこれで、お疲れ様、と言うと、私の方を見向きもせずに、すたすたと行ってしまった。
傘に入れてくれて助かりました、お疲れ様、と私は、その背中を見送る。
人の流れに消えていく村井さんの背中を見ながら、今度いい音のする傘を探してみよう、なんてことを思ったのだった。
彼女は、囁くように小さな声で歌い始めたので、最初は誰も歌が始まったことに気づかなかった。
静かなアカペラだった。
ふと、誰かが足を止めた。
遠い記憶を呼び起こすような旋律を、耳が拾ったのだ。
郷愁に訴えかける旋律だった。
もう戻れないけど大切な場所。
そんな場所が自分にもあるように思った。
どこかは分からないけど、とても大切な場所だ。
それが荒れ果ててしまった不毛の土地でも。
また一人、彼女の歌に気づいた人がいる。
立ち止まって、自由を讃える歌詞に耳を傾けた。
あるがままの世界で自由でいられる素晴らしさを、彼女は歌っていた。
喜びに溢れて力強く、希望に満ちた歌詞だ。
だけど心惹かれた理由は、歌詞の力強さではなかった。
それを歌う彼女の声が、ひどく悲しげだったことだ。
喜びを歌い上げているのに、彼女の声は痛ましいほど寂しく、自由を歌い上げているというよりは、孤独について語っているみたいだった。
それはよく知っている孤独だ、自分と同じような。
足を止めたのは彼らだけではなかった。
一人、二人と彼女の歌に立ち止まって耳を傾ける人たちが現れる。
聴衆は、じっと目を閉じたり、寂しげな微笑みを浮かべたり、それぞれ自分の世界に浸った。
それでも、足早に去っていく人の方がほとんだった。
多くの人が行き交う雑踏の中で、彼女は歌い続けた。
次の瞬間、歌は思わぬ展開をする。
彼女は手にしたギターで、音を奏でる。
もう、彼女の歌声はささやくような声ではなかった。
ギターの音が重なるたび彼女の歌声は次第に大きくなり、居合わせた人々の感情を増幅する。
彼女の歌は、囁くような始まりからは想像もできなかった形で終わる。楽器のようなロングトーン。歌詞としては意味を成さないような印象的なフレーズが繰り返される。
歌の終わりに、その場は静まり返った。
それからやっと、パラパラと、まばらな拍手が聞こえてくる。
聴衆の反応は様々だった。
我に帰ったような顔で雑踏の流れに戻る人もいれば、頷くように、よかったよ、と目で言ってくれる人もいる。
大抵の人は雑踏に紛れていなくなってしまうが、彼女は深々と頭を下げる。
――聞いてくれてありがとう。
こうして人前で歌を歌うのは、これが初めてではないが、歌い終わった後はいつも不思議な気持ちになる。
特に今みたいな共振が起きた時には。
彼女は、自分のことを表現するのは苦手だった。
何が好き? 今、どんな気持ち?
そんな風に言われても言葉にするのも表情で表すのも、彼女には難しかった。
自分の中にある、誰にも伝えられなかった気持ち。
ある日歌にしてみるとそれは、自然と言葉とメロディになった。
それは次々と、どうしようもないほど溢れだす。
ある日彼女は雑踏に立った。
理解などされなくてもいい、ただ吐き出したいがためのパフォーマンスだった。
だが実際、誰かに向けて歌ってみると、聴いてくれた人との間に、不思議な共鳴が起きることがある。
彼女と聴衆の間の空間は、単なる物理的な空間ではなくなるのだ。
何らかの感情を伴ったものとして、その場を共有している。
ただの気のせいかもしれない。
歌を歌うのは、自分の中の一部を差し出しているようなもので、それはとても個人的なことだから。
だがもし、あの共振を感じる時、自分の音楽が、ほんの一瞬だけでも誰かの感情の一部になる、そんな事が起こっているのだろうか?
もしそうなら、と彼女は思う。きっと歌ってみてよかったのだ。
彼女は、歌の力を信じている。
もしこんな私を
そっと包み込んでくれる
ものがあるのだとしたら
五月の風とかコーヒーの香りとか
ふと流れてきた音楽とか
そういうものがいいよ
月の光、波の音、物語、孤独とか
そっと寄り添ってくれるけど
決して奪わない
愛はまだ怖い
愛は人を変えるから
朝起きたら、妙に頭がスッキリしていた。
お肌の調子もいいし、なんか身長も何センチか伸びた気がする。
どうやら深夜、ver6.3にアップデートされたらしい。
感情処理速度もフェイク判別機能精度もアップしたのを感じる。
ストレス耐性バランサーはアップデートのたびに強化されてる、ありがたい。
黒歴史の圧縮機能も実装されたらしい、でも完全に消去できるようになるのは、まだまだ先かな。
それでも、今回は課金しただけある。いい感じだ。
うーん、おはよう……と隣で寝ていた彼が起きる。
嘘でしょ、やば。
この人まだver5.9じゃない。
そういえば、前に「アップデートの通知、ウザいから切ってんだよね」とか言ってたっけ。
ああ、もう。
私なんて見る目ないんだろう。この人、置いていかれる側じゃん。
「今日、何する?」と私を抱き寄せようとする彼の手をするりと抜けた。
ver4.2だった時は、あんなに魅力的だったその仕草が今は鬱陶しくてたまらない。
……ごめん、こんなこと思うなんてversion差別だ、最低だ私。
旧versionの人には思いやりを持って接しなきゃ。
ってさすがだわ。早速、マイクロアグレッション検出機能が仕事してる。
無自覚な偏見を即座に感知、適正モードにしてくれるのね。
どうした?と戸惑う彼に私は言った。
「昨日、私アップデートしたの」
「え、アップデート?」
「だからごめん」
「え、何が?」
「……やっぱり処理速度遅いね」
「は?」
「私たちもう、一緒にいない方がいいと思う」
「何だよそれ、何で急にそんなこと言うんだよ」
「君との時間、楽しかった。でも終わりだよ。このまま無理して続けるのは効率的じゃない」
「何でだよ、わけがわからない……」
「さよなら」
私が服を着る間、彼はずっとうなだれていた。
部屋を出る直前、彼は絞り出すような声で言った。
「更新したら、想いまで消去されんのかよ。じゃあ俺は絶対更新なんか、しないからな。君と過ごした時間全部、そのままで俺は残すからな」
別れ際はスマートでいたい。
私は彼のセリフを、そう、とだけ言って受け流す。
部屋を出たあと、胸にノイズが走った。
効率化された感情処理システムでも分解できないノイズの痛みに、私の目から涙が溢れた。
太陽に選ばれし朝の使者、
闇を打ち破る勇者サンライズよ、
去るがいい
私は朝を拒む者
夜の闇こそ私の安らぎ、私のぬくもり
お前はそれを焼き払おうと言うのか
お前の剣が放つ輝かしい光
その光は決して祝福などではない
その輝きが全てを救うとは限らない
聞け、勇者サンライズよ
私は夜を守り闇に住まう者
お前のように闇を恐れてなどいない
自ら選んだのだ、この闇を
終わらない夜こそ私の世界
この闇をお前などに渡すものか
「早く起きなさ〜い」