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彼女は、囁くように小さな声で歌い始めたので、最初は誰も歌が始まったことに気づかなかった。
静かなアカペラだった。

ふと、誰かが足を止めた。
遠い記憶を呼び起こすような旋律を、耳が拾ったのだ。
郷愁に訴えかける旋律だった。
もう戻れないけど大切な場所。
そんな場所が自分にもあるように思った。
どこかは分からないけど、とても大切な場所だ。
それが荒れ果ててしまった不毛の土地でも。

また一人、彼女の歌に気づいた人がいる。
立ち止まって、自由を讃える歌詞に耳を傾けた。
あるがままの世界で自由でいられる素晴らしさを、彼女は歌っていた。
喜びに溢れて力強く、希望に満ちた歌詞だ。
だけど心惹かれた理由は、歌詞の力強さではなかった。
それを歌う彼女の声が、ひどく悲しげだったことだ。
喜びを歌い上げているのに、彼女の声は痛ましいほど寂しく、自由を歌い上げているというよりは、孤独について語っているみたいだった。
それはよく知っている孤独だ、自分と同じような。

足を止めたのは彼らだけではなかった。
一人、二人と彼女の歌に立ち止まって耳を傾ける人たちが現れる。
聴衆は、じっと目を閉じたり、寂しげな微笑みを浮かべたり、それぞれ自分の世界に浸った。
それでも、足早に去っていく人の方がほとんだった。
多くの人が行き交う雑踏の中で、彼女は歌い続けた。

次の瞬間、歌は思わぬ展開をする。
彼女は手にしたギターで、音を奏でる。
もう、彼女の歌声はささやくような声ではなかった。
ギターの音が重なるたび彼女の歌声は次第に大きくなり、居合わせた人々の感情を増幅する。
彼女の歌は、囁くような始まりからは想像もできなかった形で終わる。楽器のようなロングトーン。歌詞としては意味を成さないような印象的なフレーズが繰り返される。
歌の終わりに、その場は静まり返った。



それからやっと、パラパラと、まばらな拍手が聞こえてくる。
聴衆の反応は様々だった。
我に帰ったような顔で雑踏の流れに戻る人もいれば、頷くように、よかったよ、と目で言ってくれる人もいる。
大抵の人は雑踏に紛れていなくなってしまうが、彼女は深々と頭を下げる。
――聞いてくれてありがとう。
こうして人前で歌を歌うのは、これが初めてではないが、歌い終わった後はいつも不思議な気持ちになる。
特に今みたいな共振が起きた時には。


彼女は、自分のことを表現するのは苦手だった。
何が好き? 今、どんな気持ち?
そんな風に言われても言葉にするのも表情で表すのも、彼女には難しかった。
自分の中にある、誰にも伝えられなかった気持ち。
ある日歌にしてみるとそれは、自然と言葉とメロディになった。
それは次々と、どうしようもないほど溢れだす。

ある日彼女は雑踏に立った。
理解などされなくてもいい、ただ吐き出したいがためのパフォーマンスだった。
だが実際、誰かに向けて歌ってみると、聴いてくれた人との間に、不思議な共鳴が起きることがある。
彼女と聴衆の間の空間は、単なる物理的な空間ではなくなるのだ。
何らかの感情を伴ったものとして、その場を共有している。
ただの気のせいかもしれない。
歌を歌うのは、自分の中の一部を差し出しているようなもので、それはとても個人的なことだから。
だがもし、あの共振を感じる時、自分の音楽が、ほんの一瞬だけでも誰かの感情の一部になる、そんな事が起こっているのだろうか?
もしそうなら、と彼女は思う。きっと歌ってみてよかったのだ。
彼女は、歌の力を信じている。

5/25/2025, 8:07:33 AM