【部屋の片隅で】
大吾さんは酔うと少し面倒なときがある。
今日は大吾さんの仕事も落ち着いたということで、俺の部屋でふたりで酒を飲んでいた。ふとこぼした「大吾さんは可愛いですね」という言葉が気に入らなかったらしく、部屋の片隅であぐらに片肘で頬杖をついてこちらを睨みつけている。その表情もまた愛くるしいのだが。
「なんだよ、可愛いって。お前も俺のこと馬鹿にしてんだろ」
「馬鹿になんてしてませんよ」
大吾さんと向き合うようにして膝をつき、顔を覗き込もうとするとふい、と逸らされた。
「お前はいいよな、貫禄があって。出来る男って感じがしてよ」
「それは大吾さんも同じでしょう」
「俺はお前のその整った顔も頭がいいところもかっけえと思ってんだ。それなのにお前ときたら俺のこと可愛いだと」
「失礼しました」
そんなことを思ってくれていたのかと、胸の内がくすぐったくてつい笑みがこぼれてしまう。
「そういう顔だよ」
大吾さんがおもむろに俺の頬を両手で包んで親指でするっと撫でる。その意図が分からず困惑していると、さっきまでの不貞腐れていた顔はどこへやら、とても穏やかな表情をしていた。
「お前って本当に俺のこと好きだよな」
頬を撫で続ける手はとても優しい。
「好きですよ。それは大吾さんだって同じでしょう」
俺も大吾さんの頬に手をあてると、重みがかかる。頬擦りする様子は甘えているようだ。
「ああ、好きだよ。俺はお前が好きなんだ、峯。だからずっと側にいろよな」
「もちろん。地獄だってどこにだって、あなたについていきますよ」
「約束だぞ」
額を合わせて微笑む。首にまわされた腕に引き寄せられるまま唇を重ねた。
【泣かないで】
大吾さんが泣いている。
ベッドの端に力無く腰掛け、俺がいつだったかに置いていったワイシャツを手に静かに涙を流している。
震える大吾さんの肩に触れ、抱きしめる。それでも大吾さんの震えは止まらない。「大吾さん」と呼びかける。それでも大吾さんの涙は止まらない。
俺は自ら病院の屋上から飛び降りたことを後悔することはないと思っていた。
こうして体を持たない「何か」に成り果て、大吾さんが独りで泣いている光景を見ていることしか出来なくなるまでは。
「大吾さん、泣かないでください。俺はここにいます」
この声が届いてほしい。どうか、一度だけでいいから。
そう願いを込めた言葉は、大吾さんに届くことはない。
【静寂に包まれた部屋】
大吾はベッドに体を投げ出し、ぼうっと天井を見るともなく眺めていた。
何の音もしない。匂いも、温度も、体に触れている感覚がすら何も感じない。
静寂に包まれた部屋にあるのは「無」のみだった。
眠らなければと目を閉じるとあの時の光景が何度も蘇り、その度に大吾は歯をぎり、と噛み締める。
約束したじゃねえか。それなのに。
生まれ変わったら、だなんて言うな。
お前が、お前が言ったんだろう。
「俺はずっと、大吾さんのそばに居ます」
そう言って口元を綻ばせた峯はもう居ない。
飛び降りてしまった。俺の目の前で。
消えてしまったのだ。
極道に「永遠」なんて求めてはいけないことは分かりきっていたはずだ。誰がいつどこで死んでもおかしくない世界だ。それでも、峯の言葉に大吾は救われていた。
呼吸が浅くなり始めているのを感じる。
体が形をとどめていられない感覚に陥る。泥のように溶け出して液状化するような、そんな感覚。薄暗くなる視界、目を開けているのもつらくなって重力に逆らわず目を閉じる。
もう、いいか。
俺もそっちにいっても。
なんて、らしくない言葉が脳裏に浮かんだ時だった。
「大吾さん」
ハッと目を見開いた。
一気に酸素が肺に入り込み、大吾は荒く息をする。
一瞬聞こえたその声が、鼓膜から血管に伝わり血液と細胞を通して全身にいきわたったように感じた。
愛してやまない声だ。いつも微かな冷たさを抱えていたその声は、自分を呼ぶ時は慈愛が込められているようだと大吾は思っていた。
自意識過剰かもしれなかったが、それが嬉しかった。
ベッドから起き上がり、クローゼットを開ける。
そこには峯が置いていったシャツが一枚残っていた。
退院した頃には峯に関係するものは全て処分され尽くされた後だった。
ここにあるシャツ一枚だけが、組織の手から逃れられた唯一の峯の遺品だ。
ハンガーにかかっているそれを手に取る。シワひとつないそのシャツを、大吾は大事に抱えた。襟元に顔を埋めると、まだ微かに峯の匂いが残っていた。それを思いきり吸い込んで、シワが出来てしまったシャツに頬を擦り寄せる。
「ごめんな、峯。俺、お前の分まで生きるから。絶対死なねえから」
だから、見ててくれ。
俺がそっちに逝くまで。
【空模様】
広く澄み渡った青空と、足元にはまるで鏡のようにそれを反射する透明な水。
「傑」
そこにはかつて、親友だった男がいた。
「悟」
片手をひらひらと振り笑う顔は高専に宣戦布告しに行った際に見た時よりも若い。
「君は老けないね。まるであの頃みたいじゃないか」
「そういうお前だって。自分の格好見てみろよ」
サングラス越しの目が面白げにこちらを見ている。
言われて自分の服を見下ろすと、高専の制服を着ていた。ハッと顔を上げると悟もまた、制服を着ている。
「これは何かの悪い夢かな。私もずいぶんと感傷的になったものだ」
「いや、これはおそらくだけど俺も同じ夢を見ているんだろう。まあ、起きてみないことには分かんねえけど」
ポケットに手を入れこちらへ向かってくる悟には敵意は感じられない。警戒は怠らないようにしようとしても、あの夏を彷彿とさせる空模様と目の前にいる男にその気が削がれてしまう。
「一人称、変えたんじゃなかったのかい?この間の君は・・・」
言いかけて止まったのは、青白くて細長い人差し指が唇に当たるのを感じたからだ。
戸惑い、視線を上げるとそこには柔らかく笑う悟がいた。
人差し指が唇から離れ、今度は指の背で頬を撫でられる。そして冷たい手のひらが頬を包み込んだ。とても優しい仕草だ。
「俺はお前を殺すことになるだろうね」
悟はそう言ってもう片方の頬を冷たい手のひらで包む。
私は悟のその行為の意図が分からず、かといって拒絶する気も起きずに戸惑いながらもされるがままになっていた。
「もしそうなったら泣いてくれよ」
「泣かねえよ」
でも、と悟は続けた。
「お前にずっとこうして触れてみたかった。俺は、」
意識が浮上する。気づけばそこには見慣れた寝室の天井があった。
全く、嫌な夢を見たものだ。
そう小さく呟いて、まだ感触の残る頬をぐいと拭った。
【夜の海】
大吾は埠頭に来ていた。護衛は出入り口に待たせている。
夜の海は深く、不気味だ。だが今はその闇が心を落ち着かせる。
峯が死んだ。
目覚めた頃には遅かった。
声をかけた時の、悲痛な表情が瞼に焼きついて離れない。
どこで間違えたのだろう。どうして気づいてやれなかったのだろう。峯の、深い闇に。
遺体はどうしたのかと真島に問いただしても、裏切り者の墓なんぞないと一蹴されてしまった。極道としてはよくあることだ。それを理解していても、問わずにはいられなかった。そもそもあの高さから落下したのであれば、遺体なんて綺麗な状態で残っているはずもない。
それでも。
「なんや、ずいぶんとおセンチやないか」
振り返ると、そこには真島がこちらへ向かってくるのが見えた。
足音にも気がつかないくらい、自分はぼうっとしていたらしい。
隣に並んで立った真島は大きなため息をついた。
「辛気臭いのぉ。それで弔っとるつもりかいな」
「いえ、そんなわけでは・・・」
「しっかりせえ」
鋭い声だった。
「六代目がそんな顔しとったら、他の奴らに示しがつかん。たとえ兄弟分だろうと裏切りもんは裏切りもんや。お前がそんなんじゃ、納得せん奴らも出てくる」
「・・・わかってます」
「ほならええ」
そう言い残して真島はひらりと片手を一振りして去っていった。
真島の言うとおりだ。東城会は今、不安定な状況だ。己がしっかりせねば。
胸元の内ポケットから煙草を一本取り出して咥える。そうすると、峯がいつも火をつけてくれたことを思い出す。
もっといろんな話がしたかった。もっといろんな表情を知りたかった。もっと、一緒にいられると思っていた。
愛していた。
確かに俺は、峯を、愛していたのだ。
「大吾さん」と呼ぶ低い声。あまり表情を変えない峯が、時折見せる穏やかな笑みが好きだった。ああ、好きだったんだ。
大吾は煙草を深く吸うと、まだ残っているそれを深い海に投げ捨てた。峯への想いと共に。