【とりとめもない話】
「もしお前が犬になったとしよう」
「は?」
「そうだな・・・犬種はドーベルマン」
「・・・・・・会長」
呆れた様子を隠すことなく呼んだところで大吾の思考は目の前の書類ではなく「峯が犬になったら」なんて非現実的な妄想に染まっている。
「警戒心は高いが、それは洞察力に長けているとも言えるな」
「私は忠誠心も高いですよ。ご存知ですか?ドーベルマンの尻尾や耳は元々あの形ではなく人工的に作られたものなんです」
「どういうことだ?」
「本来の姿は尻尾も長いし耳も垂れている。ですが、人間の道具として扱う際に邪魔になるので切るんですよ」
「やっぱりドーベルマンは無しだ」
大吾は苦い顔をして峯を見る。
峯はしくじったと後悔した。大吾が本部に立ち寄った峯にこうしてとりとめもない話をする時は、疲労が溜まっているサインだと理解している。仕事とは関係のない話をすることで気分転換をしているというのに、胸を痛めたような表情をさせてしまった。
「チワワならどうだ?」
「却下で」
「どうしてだ、可愛いだろう」
「だから嫌なんですよ」
何かを想像したのだろう大吾はおかしそうに笑っている。今度は峯が苦い顔をする番だ。
「さあ、会長。そろそろ書類に目を通してください」
「分かった分かった。可愛いチワワの頼みなら仕方ねぇな」
まだ笑いを含んだ声が放った言葉は聞き流すことにした。
【不完全な僕】
ぼくにはなにかが足りていない。そのなにかがわからない。わからないことはとても怖くて不安になる。だから探してみることにした。
ぼくには手と足がそれぞれふたつずつある。目もふたつある。あとは鼻の穴も。髪の毛だってあるよ。でも歯は昨日抜けちゃった。歯が抜けたとき、ぼくはたくさん泣いた。どうして泣いたのかわからなくてまた泣いた。そしたら教えてもらったんだ、お空に投げると妖精さんが拾ってくれて幸せを運んでくれるんだよって。ぼくはお空に向かってたかくたかく投げた。どんな幸せがやってくるのか楽しみでなかなか眠れないんだ。
なにを話していたんだっけ?そうそう。ぼくにはなにかが足りていない。ときどき、ぽっかりと穴があるような気持ちになるんだ。この気持ちは一体なんだろう?隣のお家に住んでいるアリスは「朝、ママとパパからキスがもらえなかった」って唇をとんがらせていた。向かいのお家のマイクは「ゲームでお兄ちゃんに勝てない」って悔しそうに言っていた。ぼくはそうなんだ、って聞いていた。
きみに話していて思ったんだ。ぼくはキスをもらえたことがなくて、ゲームもお兄ちゃんもなくて、だからアリスとマイクのことが羨ましくなった。ぼくに足りてないものって、キスとゲームとお兄ちゃんなのかなあ?
話していたら眠くなっちゃった。今日も一緒に寝ようね、毛むくじゃらのジェームズ。お話を聞いてくれてありがとう。おやすみなさい。
【朝日の温もり】
豆を挽いて淹れたコーヒーをじっくりと堪能している様子の大吾の前に朝食が乗った皿を置く。綺麗な焼き色がついたパンと大吾が好みの固さに仕上げた目玉焼き、そしてサラダを盛りつけたものだ。
「ありがとう、峯。美味そうだ」
「お安いご用です」
峯は自分の分のコーヒーと食事を並べて大吾の向かいに座った。
「今日は晴れましたね。予報では雨だったのに」
「ああ。こんな日は散歩でもしたくなるな」
「あなたは護衛もつけずに行きそうだ。それだけはやめてくださいよ」
「お前なら分かってるだろう、あいつらのしつこさを。トイレにだってついてくる奴らなんだぞ。それに、さすがの俺だって一人で出歩いたりはしないさ」
笑って大吾はパンを一口かじる。
峯にとって、大吾と過ごす時間は大切なものだ。大吾と迎える朝は特別心が穏やかになる。
柔らかな朝日と共に、ふたりはたわいのない会話を楽しんでいた。
【月に願いを】
凍てついた空気が体の芯まで染み渡る夜、大吾はひとりで屋上にいた。護衛は扉の外に待たせている。今日だけは、ここでひとりになりたかった。
いつからだろう、自分を呼ぶ声を思い出せなくなったのは。どんな顔で笑って、どんな匂いで、どんなふうに触れられたのか。気がつけば大吾は思い出せなくなっていた。それくらい時が流れてしまったのだ。
最初に忘れるのは声なのだとどこかで聞いたことがある。
忘れるわけがないと思っていた。
なのに、いつの間にかどんな声をしていたか忘れていた。
奈落の底に落とされたような気分だ。
大吾は柵に身をもたせる。
あの日を機にこの屋上には柵が設置されたらしい。
大吾は手に持っていた一輪の花を足元にそっと置いて、煙草に火をつける。
幼い頃、母が教えてくれた花言葉を思い出してこの花を探してまわった。薄紫色の花は月明かりに照らされ、寒そうに風に揺られている。
紫苑という名前のこの花を、峯の命日である今日、東都大病院の屋上という場所に供えることが唯一できる大吾の弔いだった。
感傷的になっちまった。
こんなところを見られたら幻滅されちまうかな。
声を忘れても、お前がいたことは忘れねえから。だから、俺がそっちにいくまで見守っていてくれ。
心の中で願いを込めながら月を見上げた。
吐き出した煙草の煙が風に流されていく。
よく晴れた、綺麗な夜空だった。
【現実逃避】
「なあ峯。お前、ハリーポッター観たことあるか。入る寮を振り分けるあの帽子あるだろ。俺達があれ被ったらスリザリン行きになんのかな」
「は?突然何なんです。早く書類に目を通してサインしてください」
「峯はレイブンクローな気がする」
「会長」
「でも俺ハリーポッターは秘密の部屋までしか観てねぇんだ。ドビーって憎めねぇよな」
「知りませんよ。そもそも俺はハリーポッターなんて観たことありません」
峯は面倒くささを隠すことなく眉間に力を入れた。少しイラついている峯を気にもとめず大吾は机に頬杖をついてペンを回す仕草をする。
「あーあ。俺がこの万年筆を回したら全部の書類が頭ん中に入ってきてサインも書かれてりゃいいのに」
「会長、現実逃避もいい加減にしてさっさと仕事してください。そんなくだらないことばかり考えてるからいつまで経っても書類が減らないんですよ」
いくら毒づいたところで大吾は上の空だ。これは長期戦になるかもしれない、と諦念を持ち始めたとき。書類から完全に逸らされていた顔がふいに峯に向けられる。
「なあ」
「なんですか」
「キスでもしねぇ?そうしたら仕事すっから」
至極真面目な顔で言い放たれた大吾の言葉に、峯は何度目か分からないため息を吐いた。