【月に願いを】
凍てついた空気が体の芯まで染み渡る夜、大吾はひとりで屋上にいた。護衛は扉の外に待たせている。今日だけは、ここでひとりになりたかった。
いつからだろう、自分を呼ぶ声を思い出せなくなったのは。どんな顔で笑って、どんな匂いで、どんなふうに触れられたのか。気がつけば大吾は思い出せなくなっていた。それくらい時が流れてしまったのだ。
最初に忘れるのは声なのだとどこかで聞いたことがある。
忘れるわけがないと思っていた。
なのに、いつの間にかどんな声をしていたか忘れていた。
奈落の底に落とされたような気分だ。
大吾は柵に身をもたせる。
あの日を機にこの屋上には柵が設置されたらしい。
大吾は手に持っていた一輪の花を足元にそっと置いて、煙草に火をつける。
幼い頃、母が教えてくれた花言葉を思い出してこの花を探してまわった。薄紫色の花は月明かりに照らされ、寒そうに風に揺られている。
紫苑という名前のこの花を、峯の命日である今日、東都大病院の屋上という場所に供えることが唯一できる大吾の弔いだった。
感傷的になっちまった。
こんなところを見られたら幻滅されちまうかな。
声を忘れても、お前がいたことは忘れねえから。だから、俺がそっちにいくまで見守っていてくれ。
心の中で願いを込めながら月を見上げた。
吐き出した煙草の煙が風に流されていく。
よく晴れた、綺麗な夜空だった。
5/26/2024, 11:45:17 AM