半袖(同棲時代②)
「只今より衣替え及び断捨離を敢行する」
………。何の宣言だ、何の。
突っ込もうかと思ったが、せっかくのやる気に水を差すのは勿体ない。
相手の服が収納部屋の約8割を占めている現状を鑑みて、俺は大人しくその発言に頷いた。
「おう。ようやく重い腰を上げる気になったか。いいんじゃない、家も整うし綺麗になるし」
「夏服への衣替えだからすぐに終わると思う。断捨離も頑張ってみようと思って」
いつになく稀に見ぬ意気込み。これは期待できそうだ。
「すぐに終わるから、待ってて」
余裕の後ろ姿で去って行く彼女に何の疑念も持たなかったが、
―――この時俺は失念していた。
彼女が途轍もなく迷いがちで二の足を踏む傾向にあるということを。
どのくらいの時間が過ぎたのか。
………部屋に入ったまま戻って来ない。
それとももう終わったのか?
「ねえーーーーーーー!!」
ばん、とドアが開かれたのはその刹那。
―――彼女が叫んだ背後に垣間見えたその光景は、察するに充分な展開が広がっていた。
「無理、終わらない」
「………どうしてそうなった?」
足の踏み場もない。
夏服という夏服が辺りに散乱している。
「だって、ここに引っ越してきた時の思い出の服しかないんだもの!」
覚えてる? この半袖のワンピースとか、
淡い水色のスカートとか、
シースルーの上着とか。
「………」
正直に言おう。どれも全く覚えていない。
―――けれどひとつひとつ懐かしそうに説明する彼女に、俺は溜息をつきつつ笑った。
「………じゃあ、とりあえず仕舞っていくか?」
「うん」
結局俺も手伝いながらほとんどは処分できず、衣替えだけなんとか遂行する。
『半袖のワンピース』
あれは確か初デート………だったような?
―――もし後で話題に上り、詰められたら厄介だ。
当時の記憶をあれこれと引っ張り出す。
しかしいくら思い出そうとしても朧気な彼女の格好に鬱々と頭を悩ませ、彼はその日の終日神経を擦り減らす羽目に陥った。
END.
天国と地獄(足掻いたところで)
同棲一年目。
初めて二人で迎える夏は、暑かった。
「猛暑猛暑って聞き飽きたわ。ていうかそれ聞くだけで体温1℃上がってんだろ、これ。絶対気のせいじゃない」
ソファでうだうだと呟く彼に彼女は無言で近づくと、真っ赤に染まる列島の横で涼しい顔をしているおねえさんの画面をぷつりと消してしまった。
「聞きたくないなら消しなさいよ」
―――暑さで苛ついているのは察するに余りある。
八つ当たりするなよ、と心の内だけで吠えてみるが、口に出そうとは思わなかった。
さらに体温が上がる面倒な羽目に陥るのは目に見えている。
彼は渋々引き下がったが、しかしあろうことか、次の瞬間彼女は別のリモコンに手を伸ばした。
「は?」
ピッ、と。
短い機械音と驚愕の一言が重なる。
そして容赦なく、それまで快適―――とは言えないまでも適度に温度調整を保っていたそれは、無情にもその動きを止めた。
「何してんだ、エアコン止めるとか! 正気か!?」
「仕方ないでしょ、電気代高いんだから。節約節約」
「死ぬぞ!?」
「何言ってんの大袈裟な。さっきの天気予報、明日からでしょ? 今日は30℃越えてない」
さらりとそう言い窓を開け放つ彼女に、彼は食ってかかろうとして―――やめた。
昨日『家計対策』と称して家計簿アプリをスマホに入れていたのを不意に思い出したのだ。
「………地獄だ」
ぼそりと呟いたのが彼女の耳に入ったのか否か。
彼女はつと冷蔵庫に足を向け、それを取り出すと彼にはいと差し出した。
―――手には、アイス。
「………。節約じゃねーの?」
「いらないの?」
「頂きます」
ははー、と恭しく頭を下げてそれを受け取る。
素直でよろしい、との返事に俺はさっきの地獄の気分もどこへやら、ご機嫌でそれを袋から取り出した。
「はい」
「ん?」
―――徐に掌を突き出され、俺はその意図がわからず困惑する。
「お買い上げ誠にありがとうございます」
………。
どうやら俺の修行は始まったばかりらしい。
―――この悪魔に対抗する術はあるのだろうか。
俺は溶け出すアイスの存在も忘れて震えた。
END.
月に願いを(約束の場所)
「何度見ても、すっごく綺麗」
「だろー?」
二人でどこまでも広大な原っぱに寝転がり、空を見る。
大気が極限まで澄んでいるのだろう、星々の煌めきは都会の比ではなく、月は黄金に光り辺りを優しく照らしていた。
「高校の部活の合宿で来た時に忘れられなくてさ。ここでずっと空見ながらダチと喋り倒してた、いい思い出の場所」
「ああ、それで。旅行先にこの宿をやたら推すから、何かあるのかとは思ってたけど」
胸一杯に空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いてみる。
―――自分が暮らす周りのそれとは、全く異なる新鮮さ。
「初旅行にこんないい所に連れてきてもらってありがとう」
「はは、そりゃどーも。俺の株上がったな」
自慢気に気取る彼に、隣の彼女からもふふ、と笑みが漏れる。
「おまけにこの満月でしょ、ほんと素敵。お願い事したくなっちゃう」
「願い事は流れ星だろ?」
「だよね。でもうちの親、満月の夜に空の財布を振るとお金持ちになれにるって、一心不乱に振ってる」
「あっはは。似たもの親子だな」
やめて、一緒にしないでとお互い散々笑い合った後。
「じゃあ俺もひとつ願い事してみるかな」
―――不意に起き上がると、彼は甲斐甲斐しく両手を胸の前で組んで目を閉じた。
「なになに、何のお願い事?」
「神様仏様、お月様。俺の渾身のプロポーズがどうか成功しますように」
「えっ」
風が二人の間を吹き抜ける。
月明かりに照らされて、星々が見守る中彼が口を開く―――。
“幸せにおなり”
―――遠く離れた空の上から放たれる祝福の光が、新たに道を刻む二人の上に降り注いでいた。
END.
降り止まない雨(彼の想い人)
何で降るかねー。
―――校舎の前で一人空を見上げる。
天気予報は確かに雨だった。
けれど曇りでどうにかやり過ごせそうだったため、荷物になる傘は携帯のリストから外れた。
生憎置傘なんて用意周到なものは持ち合わせていない。
「やだ、結構降ってる」
―――背後からの呟きに振り返れば、渡りに舟の神の使い。
「サンキュー、助かった!」
「え? ってちょっと!」
傘を広げた途端体を寄せてきた彼に、彼女は困惑を隠しきれない。
「あんた傘は!?」
「この状況でそれ聞く? 頼む、家隣りのよしみで!」
「もー、最低」
そう言いつつ渋々スペースの半分を貸してやるも、彼女ははたと気がついた。
「………ねえ、カノジョは?」
「あ? あー………まぁあれだ」
「は? またケンカしてんの?」
この男には似つかわしくない、清楚で綺麗な女の子。
何でこんなのを選んだのか、理解に苦しむ。
「今回はアイツが悪い。俺じゃない」
「カノジョに罪着せるとか、男の風上にも置けないわ」
でもそんなに合わないなら、―――別れれば?
「―――!」
歩き出したその時、不意に後方から彼の名前が呼ばれ二人は同時に振り返った。
今にも泣き出しそうに佇む、綺麗な彼の………。
―――迷いなど微塵も感じさせなかった。
彼女の姿を捉えた瞬間、彼は駆け出した。
あの子以外目もくれず、わたしの存在も忘れて。
「…………」
わたしは無言でその場を離れた。
予想以上にダメージが大きかったのが自分でも意外だった。
二人が楽しそうにしているのは、何度も見てきたはずなのに。
―――雨は上がらない。
先程まで自分の隣を埋めていた、半分のスペースが心に爪を立てる。
………今頃、仲直りをして元の鞘に収まっているのだろう。
それでいい。
明日晴れたら、また前を向く。
それまでは、この雨に流されていよう。
この涙も、今だけは。
END.
あの頃の私へ(過去と未来)
世間でよく聞く、ありふれた引き止めの言葉だったら―――きっとそのままそこから跳んでいたと思う。
「いいんだ? それで」
とあるビルの屋上で、柵を越えて下を見下ろしていたわたしのすぐ傍から声がした。
感覚が麻痺してしまっていて、驚くとか誰なのかとかの思考は一切働かなかった。
横を向くと、自分と同じくらいの青年が、わたしの立つ足場に足を組んで腰かけている。
「いいも悪いも無い。止めても無駄」
「うん、知ってる」
………?
訝しむわたしに彼は平然として淡々と続けた。
「止めに来たんじゃない。背中を押しに来たのでもないけど」
「………死神?」
「まさか」
一頻り笑った後、まあ止めはしないんだけどさ、と彼は静かに呟いた。
「さすがにまだ若いし早くない?」
「止めてるじゃん」
「あー………だね。ごめん」
なぜ謝るのか。
彼女は再び目線を下に移す。
「躊躇してるのかと思って」
「………。誰でも本能的な恐怖はあるでしょう」
「うん。でも………それだけ?」
―――暫く続いた沈黙に、彼はそれが答えだと悟った。
「死んでもいいって言った?」
「………え?」
「過去の自分」
………過去の自分?
「一年前の自分、二年前の自分、って遡って辿っていくの。大学生だった自分、高校生の自分、中学生、小学生、幼稚園。もっと幼い頃まで」
「………………」
「その一年毎の自分に聞いてみる。今死んでもいいか?って」
「………それは」
そんなの………、
「その全員に死んでもいいって言われたら、まあいいんじゃない」
―――その飄々とした表情と態度に、彼女は無性にかちんときた。
からかわれてる。もしくは楽しんでる!
「人の気も知らないで! わたしを知りもしないくせに、よくもそんなこと―――」
「次に未来の自分に聞いてみる」
!………
「今から一年後、二年後、三十代、四十代、それ以上。今より歳を重ねた自分に、一年毎に今死んでもいいかって」
「………………」
「それで本当に全員にいいって言われた時初めて、そうする資格があるんじゃないかな」
ポケットからタバコとライターを出し、彼が徐にそれに火をつける。
「………そんなの………」
―――不意に目頭が熱くなった。
彼を罵る言葉が思い浮かばない。
「他人があれこれ口を出してみたって、所詮他人だからね。自分に聞くしかない。生きていくのは自分だから」
余りにも正論で真っ直ぐで、―――誠実で。
「だからその覚悟ができたらまた、ここにおいで」
「え」
「さよなら」
………唐突にそれは終わりを告げた。
記憶はそこまでしかなく、気づいたらそのビルの真下の歩道に立ち尽くしていた。
―――あれは何だったのかと、振り返っても今でもわからない。
やはり死神かとも思うけれど、それにしては魂も取らず優しすぎる。
「おかーさーん!」
―――遠くから手を振る息子に、彼女は微笑んで手を振り返す。
『だからその覚悟ができたらまた、ここにおいで』
………それはまだ先になりそうだよ、死神くん。
命を繋げていく喜びを知ったから。
でも、いつかまた会えるといいな。
その時はただあなたに、お礼を言いたい。
END.