あの頃の私へ(過去と未来)
世間でよく聞く、ありふれた引き止めの言葉だったら―――きっとそのままそこから跳んでいたと思う。
「いいんだ? それで」
とあるビルの屋上で、柵を越えて下を見下ろしていたわたしのすぐ傍から声がした。
感覚が麻痺してしまっていて、驚くとか誰なのかとかの思考は一切働かなかった。
横を向くと、自分と同じくらいの青年が、わたしの立つ足場に足を組んで腰かけている。
「いいも悪いも無い。止めても無駄」
「うん、知ってる」
………?
訝しむわたしに彼は平然として淡々と続けた。
「止めに来たんじゃない。背中を押しに来たのでもないけど」
「………死神?」
「まさか」
一頻り笑った後、まあ止めはしないんだけどさ、と彼は静かに呟いた。
「さすがにまだ若いし早くない?」
「止めてるじゃん」
「あー………だね。ごめん」
なぜ謝るのか。
彼女は再び目線を下に移す。
「躊躇してるのかと思って」
「………。誰でも本能的な恐怖はあるでしょう」
「うん。でも………それだけ?」
―――暫く続いた沈黙に、彼はそれが答えだと悟った。
「死んでもいいって言った?」
「………え?」
「過去の自分」
………過去の自分?
「一年前の自分、二年前の自分、って遡って辿っていくの。大学生だった自分、高校生の自分、中学生、小学生、幼稚園。もっと幼い頃まで」
「………………」
「その一年毎の自分に聞いてみる。今死んでもいいか?って」
「………それは」
そんなの………、
「その全員に死んでもいいって言われたら、まあいいんじゃない」
―――その飄々とした表情と態度に、彼女は無性にかちんときた。
からかわれてる。もしくは楽しんでる!
「人の気も知らないで! わたしを知りもしないくせに、よくもそんなこと―――」
「次に未来の自分に聞いてみる」
!………
「今から一年後、二年後、三十代、四十代、それ以上。今より歳を重ねた自分に、一年毎に今死んでもいいかって」
「………………」
「それで本当に全員にいいって言われた時初めて、そうする資格があるんじゃないかな」
ポケットからタバコとライターを出し、彼が徐にそれに火をつける。
「………そんなの………」
―――不意に目頭が熱くなった。
彼を罵る言葉が思い浮かばない。
「他人があれこれ口を出してみたって、所詮他人だからね。自分に聞くしかない。生きていくのは自分だから」
余りにも正論で真っ直ぐで、―――誠実で。
「だからその覚悟ができたらまた、ここにおいで」
「え」
「さよなら」
………唐突にそれは終わりを告げた。
記憶はそこまでしかなく、気づいたらそのビルの真下の歩道に立ち尽くしていた。
―――あれは何だったのかと、振り返っても今でもわからない。
やはり死神かとも思うけれど、それにしては魂も取らず優しすぎる。
「おかーさーん!」
―――遠くから手を振る息子に、彼女は微笑んで手を振り返す。
『だからその覚悟ができたらまた、ここにおいで』
………それはまだ先になりそうだよ、死神くん。
命を繋げていく喜びを知ったから。
でも、いつかまた会えるといいな。
その時はただあなたに、お礼を言いたい。
END.
5/24/2024, 10:15:39 PM