どうしようもない孤独に襲われた時ふとどこかへ行きたくなる。地名すら知らないどこかへ目的もなく。
今日は何故だか憂鬱な気持ちに襲われ全てを投げ出したくなった。仕事も人間関係も全てに嫌気がさして現実から逃げ出したくなるそんな衝動。
幸いにして休日な今日は,迷惑をかけない限りどんな行動をしようと指図されるいわれはない。タンスの中から服を選び着替えてハンガーからコートを外し財布を掴んで駅に向かって,来た電車に飛び乗ろうと誰にも何も言われない。
ゆっくりと加速する列車の中から見つめる見慣れたはずの景色は嫌にちゃちなミニチュアのように思える。
遠ざかる町並みはやがて認識できない程のサイズにかわり消えてゆく。一瞬で現れては消えるを繰り返す似通った景色。そんなものをただぼんやりと眺めていれば時間は流れ,聞こえてくるアナウンスが伝えるのは知りもしない地名。
ゆっくりと減速した小さな箱から降りたのは,丁寧にしかし猥雑に詰め込んだおもちゃ箱のようなその街並みが目に付いたから。
人にあふれる賑やかな駅を眺めながら適当にただ歩みを進める。行先などなくふらふらとさまようように,されど風を切るように歩を進める。
ふと立ち止まり眺めた空は赤みを帯びた紫に染まり,街が夕闇に覆われる直前であることを伝える。時間すら把握しないままの旅においては空の色は時を知る唯一の指標でもあった。
「忙しない場所」
通り過ぎていく誰もは足早に急いでどこかを目指す。小さな端末にだけ目を向け人を気にせず,立ち止まりもしない。
入れ代わり立ち代わり様々な人が,けれど皆同様にして何かに急き立てられるように先を急ぐ。その波に逆らうようにまた適当にただ歩く。
そうして辿り着いたそこは明るさだけを無理に集めて煮詰めたような,そんなアンバランスな煌びやかさを放つどこか。
「妙に明るい」
黒に染まるはずの場所は艶やかな光にさえぎられ,その眩さを引き立てる。赤青緑黄色青紫白 様々な色が乱雑に散りばめられたそんな世界。
いっそ毒々しく禍々しいほどにただ明るい。人工的な異物に塗れ空元気で持って保たれているかのような眠らない都市。
「.......なんか怖いな。人間みたい」
疲れ切ってそれでも笑う見知った笑顔を連想させるそんなところ。誰もが夢見心地のようなそんな恍惚とした表情を浮かべるそんな路。
得体の知れない恐怖を与えるそこは,けれど人に優しくて 少しだけ冷たい空気を放っていた。
テーマ : «街へ»
宵闇に移り変わる空の色。帳に覆われた世界で光を放つのは微かな電球と空に輝く星々のみ。
時折通りすぎる車のヘッドライトは眩すぎて目が眩む。正面から迫ってくる白い波は一瞬にして消えては妙な寂寥感だけを胸に残す。
「寒い」
わずか数時間で白く染った世界。ついさっきまで降り注いでいた雪は嘘のようにやみ,劈くような寒さのみが漂う。
車に踏み固められた雪は凍りつき時折足をとられる。ざくざくと少し軋んだ独特な音が凍えそうな鼓膜を揺らし吹き付ける風が熱を奪う。
辺りを見渡しても光はほとんどない。大雪の直後まして夜も耽けるこんな時間に出歩く物好きはそうそういないらしい。
「痛いな」
かじかんだ指先が 風に晒された耳朶が 水が染み込みつつある足が
······何より 荒んだ心が。
なんでもない幸福なはずの日々を過ごしていても,噛み合わない歯車のような軋んだ音が降り積もる。小さな小さな音を響かせふとした瞬間に 言葉にできない違和感となってこの身を襲う。
一人になった時 特に月明かりすらささない街が寝静まった深夜はどうしようもない苦しさに見舞われ 息が出来なくなる。
そんな時は決まって闇の中をさまよい歩く。目的もなくただ足の動くままに,冷たい空気を肺に収めながらひたすら歩を進める。
時間も忘れ何処までも。行き着く先もわからぬまま帰り道も知らず歩く。
「······公園」
白銀に包まれた遊具のシルエットだけがぼんやりと浮かぶ空間。昼間の賑やかな様子とは一変していっそ厳かな雰囲気すら纏う結界。
誰にも穢されぬその閉ざされた白の中へと吸い寄せられるようにして近づいていく。
屋根に覆われた椅子から自らが入ってきた場所を見つめれば一人分の足跡だけがはっきりと残されている。
ぼんやりと眺めた空からはまたチラチラと舞い降りる白い花。手を伸ばせば消えてしまうそれは通ってきた道を覆い隠し,この身をこの小さな空間へと閉じ込める。
「帰れない」
なぜだか降り積もる雪をもう一度踏み締めることは出来そうになくて,ただただ音もなく舞うその小さな花を飽きることなく見つめ続けた。
誰もいない。何も聞こえない。白に包まれた世界。
どうしようもなく冷たくて恐ろしい程に静まったそこは,不思議と息がしやすくて。
本来なら不安に思うこの状況が,凄く心地よかった。
テーマ : 《ミッドナイト》
息が出来ない。
供給されているはずの酸素をうまく取り入れることが出来ていないみたいに,体の処理機能が追いつかないみたいに。ただ苦しい。
気のせいだ。
わかってる。呼吸はなんの問題もなくできている。血液は滞りなく運ばれ続けている。
でも,酸素を奪われたみたいに苦しい。目が眩み視界が黒く染まる。鼓動が嫌に大きく響く。指先が凍えるように冷たい。
まるで海の底に落とされたみたいに。すべての感覚が遠く,ただ心だけが痛みを訴える。
「そっか。よかったね」
うまく僕は笑えているのだろうか。笑みを型どり柔らかな声色を響かせられているのだろうか。
「僕も嬉しいよ。幸せになってね」
心にもない言葉を本心のように言えているのだろうか。この醜い思いは隠しとおせているのだろうか。
-幸せにならないで。置いていかないで。僕の側にいて。誰かのものになんかならないで-
言える訳もない 黒く濁り澱んだ感情を閉じこめて,欺瞞に充ちた祝福を送る。
「さよなら」
幸せそうな笑顔で手を振る君を見送る。次に会う時は,偽りなき祝言を送るから。
だからそれまでは この痛みを抱かせて。
きちんと別れを告げるから。
「さよなら。僕の恋心」
今は痛いだけのこの思いも,いつかは思い出に変わるから。深海の景色を美しいと思える日まで,忘れないでいよう。
「さよなら。大好きな人」
ついぞ伝えられなかった言葉はただ,吹いた風に流され消えた。誰に届くことも無く。
テーマ : 《海の底》
金色に輝くあの弓は誰を射るのだろうか。光という矢をどこに向けて放つのだろうか。
受け取る相手もいないのに。何時いかなる時もただ静かに佇む。誰に視線を向けられずとも。
「月が綺麗ですね」
きっと君には届かない思い。君は読書が苦手だから。それでもよかった。借り物の言葉でしか伝えられない想いだから。
ほんの一瞬でも,共に同じ空をただ眺められるだけで。それだけで十分すぎるほど幸せだと。そう己に言い聞かせる。
「だね。いつか裏側も見てみたい。ねぇ,どうしたらいいのかな?」
「······月までは2ヶ月で行けるそうですよ。きっと思うよりずっと近い」
自転と公転の関係で,表だけを見せる天体。地球からではどうしたって裏側は望めない。
心のよう。仮面を纏った僕達の。
「じゃあ,これからよろしく」
君はアポロを差し出しながらそんなことを言う。口に広がる甘いイチゴとチョコの味。
臆病で曖昧な告白に返されたのは,情緒的な台詞。借り物の愛の言葉を囁くよりも,甘美な言葉に囚われた。
テーマ : «三日月»
「······透明水彩絵の具の色」
幸せとは? 思い付きでそう問いかけた。突然そんなことを言われたにも関わらず,君は微笑みながらなんでもないように答えた。
「水彩絵の具?」
「クレヨンでもマーカーでもアクリル絵の具でも油絵でもなくて透明水彩絵の具。でも,色鉛筆でも良いかな」
首を傾げた様子を見てか,さらに言葉を重ねる。言葉を操る君の台詞は抽象的で難しすぎるけれど,空気に溶け込んでしまうかのように優しい言い回しは嫌いじゃないと思った。
「氷細工やクリスタルのように混じりけのない繊細ながらも凛とした色合い。複雑に絡み合う心と似てると思わない?幸せって,宝石に映る景色や万華鏡みたいに移ろうものかなって」
それはまるで詩を詠うような語り口だった。君の言葉にはいつも情景が浮かぶような,重なりあって紡がれる物語。
見えている景色が違うようでとても羨ましい。君の目にはこの世界が鮮やかで躍動的に輝いて映るのだろう。
「黄色もピンクも純白も美しいけれど,もっと儚く揺らぐ色なイメージ。玉虫色と同じ。光や角度によって違って,言葉ですら表現し得ない」
そう言いながら,空に向かって腕を伸ばすように手を翳す。それは光を遮るようにも掴むようにも見える仕草。その先には一体何があるのか。
「こうやって空想するだけで手にはいる。そういうものだと思うよ」
「······よく分からない」
返事を聞いてくすっと笑った君は,こちらから視線を外すと遥か彼方 地平線を見つめるような表情になった。
「どんな瞬間でも幸いとなるってこと。例えば今この時間だって」
今度は僕を見てふわりと笑う。それは,あまりにまっすぐな笑顔で思わず息を飲む。
「今幸せだよ。あなたと一緒に居られて」
あまりにも自然にさらりと言われたその言葉は,僕の心を一瞬にしてかき乱した。
──あぁ,確かに。この感情は 透明水彩のよう。
淡く澄んだ瑞々しい白桃。ピンクに黄色に白 複雑に折り重なって産み出される幸せと恋の色。そんなものを知った。
テーマ : «幸せ»