半径10cmの球体のオブジェ。アンティークな味を醸し出すそれを人差し指でくるくると回しながら,世界を眺め思考に耽ける。
例えば行ったこともない異国のこと,有名な学者の唱えた説について 今立っている感覚と実際のかたちのこと。
「不思議」
自分は何も知らない。習ったことや調べたこと以外はほとんど。しかも,知識が正しいかどうかを調べる術すらわからない。
天動説も地動説も,引力や重力も 地球の形どころかこの国の,いや この市の形すら。
「正しいこと」
判断する力に乏しいこの身では,摂理や法則ですら解明不可の難問となりかわる。きっと一生 謎は解けない。
知識を蓄えても,穴だらけの張りぼて仕様。自己満足にしかなりはしない。
「これから知ればいっか」
無知の知と言うには,お粗末だけれど 知らないなら知ればいいだけ。それだけ学べることがあるという証拠。
これからもこの場所で生きていくのだから,目の前の疑問から一つ一つ解決していけばいい。それはきっと楽しいことだから。
テーマ : «この場所で»
誰もがみんな幸せを夢見る。けれど本当の意味で幸せな人生を暮らせる人は多くはない。それなりの幸せと不満を抱えて生きるものがほとんど。
幸せになる道は主に3つ。どれも贅沢で,簡単には出来もしない。故に幸せをその手に入れることが出来るのかもしれない。
1つ目は願いを全て叶えること。もしくは夢を諦めることなく持ち続け ただ上を目指すこと。
2つ目は願いなど初めから捨て去ってしまい期待しないこと。何もかも諦念で覆い隠して,目をつぶり耳を塞ぐこと。
3つ目は与えられたものに感謝し,足るを知ること。羨まず妬まず,自信の持つものだけに視線を向けること。
世の中で幸せだと嘘偽りなく語る人は,基本的に他人を気にしない。そう,彼みたいに。矛盾し合う3つを併せ持ったような彼は間違いなく日々を楽しんでいた。
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「生きる意味? 僕にとっては幸せになること」
抽象的で普通なら返答に困るような質問に,逡巡することも無くあっけらかんと言い放つ。そこには一切のごまかしも建前も何も無く,ただ単純な本音なのだとそう思える。
「楽しい 嬉しい 面白い。そんなふうに思えるようにする為だけに行動してる」
簡潔で単純明快な回答。迷いはなく視線は真っ直ぐで 瞳にはキラキラと輝く光。毎日が冒険で成長で宝物 とでも言いそうな雰囲気。
「なんでそんなに前向きなの」
「そう?そんなつもりもないけど。 ……あえて言うなら,現実は変わらないけど見える世界は変えられるからかなぁ。そっちの方が幸せ」
諦めながら前を向いて,現状を受け入れ満足する。それはどこまでも期待を捨て去った彼だからこそできること。
「そうかもしれないけど,簡単じゃないよ」
「簡単だよ。全部自分に責を問えばいいだけ」
傲慢なほどに凛と立つ 揺るぎないその姿は,痛いほど美しい。きっと君は痛みすら愛するのだろうけれど。そうでなければ崩れてしまうから迷わない。
「君は繊細だね」
「……不思議な言葉選びだね」
くすり と小さく笑う彼はどこか寂しそうな色をしていた。小さな違和感を無視して走り出す直前のような。後先考えない行動力。
きっと君は本当に幸せだ。少なくとも君自身そう思っている。信じている。
それでも,もっと我儘で強欲でもいのにと思えてしまう。諦めを知るには早すぎる。
「怖いよ。終わりを恐れない在り方は」
「わからないならないのと一緒。それに,案外それも楽しめるかもよ」
未来を見すえた刹那的な生き方。心配とか恐怖とは無縁な考え方。彼の”幸せ”の捉え方は酷く危うく思えた。
「……君は幸せなの」
「もちろん」
その言葉の先は聞こえることは無い。ただ微笑む君の笑顔は無垢で凜然であった。
テーマ : «誰もがみんな» 25
「こんな所にお花屋さん」
なんとなく足を踏み入れた裏道。いつもと違う帰り道で見つけたのは小さなフラワーショップ。大小さまざまなバケツに顔を出す色とりどりの花々。近づいただけで特有の控えめな甘さが風に運ばれてくる。
ガラスの向こうも当然のように緑と花に溢れ,所狭しと飾られたドライフラワーに花束 リースにクマの形をしたピンク色のカーネーション。
「バラにアネモネにスイートピー,チューリップにガーベラ·ダリア かすみ草とスターチス。百合に菊それから蘭と桜もある」
知っている名前を一つ一つ確認するようにして観賞する。美しく咲き誇ったものからまだ蕾のものまで各々の魅力を主張してくる。
「いいなぁ」
「花好きなんですか?」
くすくすと控えめな笑い声に振り向けば,そんなことを問われる。穏やかそうなほほ笑みを浮かべたその人はエプロン姿で,手にはふわふわとした珠のような黄色の花。あれは確か……
「ミモザ? 」
「はい 正解です。もし良かったら中見てきませんか?」
「えっ。……迷惑じゃありません?」
思っても無い誘いだけれどお仕事の邪魔をする訳にはいかない。
「見ての通り他にお客さんもいないことですし,お時間があれば話し相手になってくれませんか」
「そういうことなら,よろこんで」
エスコートされた店内は,一歩足を踏み入れただけで花の香りに包まれるそんな空間。
「いらっしゃいませ。良かったらかけて」
「ありがとうございます」
どこに視線を向けても花。小ぶりなものから大ぶりなものまで多種多様な植物たち。そんなものを眺めながら,そのひとつひとつについての話を繰り返す。
たくさんの知らない話。花の種類に面倒の見方 果てはラッピングの仕方まで。柔らかな日差しがオレンジの光に変る時までずっと。
「ああ,もうこんな時間。つい話しすぎちゃった。もうすぐ閉店の時間だ」
「遅くまでごめんなさい。仕事大丈夫ですか」
軽く一時間は話していたらしい。あまりに楽しすぎて時間を忘れていた。
「いやいや。誘ったのはこっちだから。大丈夫だよ。ほとんど済んでるから」
「そうですか。じゃあ帰ります。今日は本当にありがとうございました」
これ以上押し問答していても迷惑にしかならないので,名残惜しいがお礼を言って帰ることにする。
「ちょっと待って。はいこれ」
「……?」
渡されたのはカラフルな花のミニブーケ。どれも大きく花開いて1番美しい瞬間を閉じこめたような作品。
「サービス。明日には売れないから気にしないで。家で飾る分にはもう少し持つと思う」
「ありがとうございます。すっごく嬉しい」
顔を近づけてみればそれぞれの香りが混じりあった匂いがした。優しい色。
「どういたしまして,喜んでもらえて何より。気をつけておかえり。またおいで」
「はい,ぜひまた。さようなら」
頂いたブーケを大切に抱えながら家路に着く。ほのかな甘い香りは幸せの匂い。なんでもない日の特別な思い出。
テーマ: «花屋»
「私 にっこりマークって嫌いなんだよね」
突然始まる会話はいつもの事。脈絡がないのもいつもの事。言いたいことがわからないのもいつもの事。
つまり今日も今日とて目の前にいる人物は変わりがないようだ。
「にっこりマーク? 絵文字のスマイルのこと」
「そう。特に黄色いヤツ」
手に持っているスマホをブラックアウトさせながら,行儀悪く肘をついて視線をこちらによこす。
「なんで?」
「うさんくさいから。イラッとするし」
メッセージアプリを開いた画面を見せ付けるようにして突き出しそう吐き捨てる。そこにあったのは,文字ばかりの右側の吹き出しとは対象的な,絵文字とスタンプだらけの吹き出し。
こんな所でも性格が出るのだと少しおかしくなった。
「私にはこう見える」
そう言ってまるでお手本のようにニッコリと口角を上げ目尻を下げて視線を合わせてくる。
笑顔なのに能面のように感情のない虚ろで冷めきった表情。
「ごめん。怖い」
「だろうね。全力の作り笑顔だし」
興味なさげに返事をして笑みをおとす。無表情に近いそちらの方が感情の色をのせるのだから不思議だ。
ただひたすらに喜びの感情だけを表す顔文字。確かにそんな表情を送られているのだと思えば,胡散臭いという感想もおかしくはない。
「いちいちつける意味がわからない。無駄」
「わかりやすいし」
色もついているから視覚的に理解しやすい。感情を伝えやすい。だから使うのだけれど。
「彩のためのパセリを大量にばらまいた料理。私はいらない」
「ああうん。いらないかも」
妙に具体的な例えに納得してしまった。要件がわからなくなるくらいの絵文字は邪魔にしかならない。そう言いたいわけだ。
「だよね。わかってもらえた?」
ふんわりと微笑んだその表情はスマイルと言うには控えめで,柔らかく軽やかな微笑。
「……そんなの絵文字じゃ無理」
呟いた言葉は幸いにも聞かれなかったようで,また取りとめのない話が始まる。それに相槌を打ちながら瞼に焼き付いた表情を思い出していた。
テーマ : «スマイル» 23
『誰にも言えない秘密ってある?』
こてんと首を傾がせて,されど興味なさげに いつもの口調で君は問う。
『…… どういう意味』
ここで話すのなら既にそれは”誰にも言えない秘密”ではなくなる。だとすればそんなことを問うても,答えても意味が無い。
『意味? そのまま。心の奥底に隠して秘めて閉じ込めているものがあるか ってこと』
『誰でもあるんじゃないか。人に言わないことくらい』
いくらでも。そう心の中で付け足す。言えないことも言わないことも星の数ほどあるだろう。
『他人事だねー。君にはないの?』
『まぁな』
ある。 と言ったらどうするんだと思いながら視線を絡める。いつもと同じ真っ直ぐで輝く色。
言えるわけがない。お前が好きなんて。
言うわけがない。友達以上になりたいだなんて。
だから,言わない。他人事の一般論の中に隠せばいい。
『それだけぇ。君,僕に対して冷たい。因みに僕はあるよ』
『そうか。十分優しいだろ』
言葉が続かない。何を聞けばいいのか,聞いていいのかわからない。こいつの秘密に踏み込んだ そのあとが想像できない。
『むー。興味なさげ。聞いてくれてもいいじゃん』
『秘密なら秘めたままにしておけよ』
変わらない方が幸せだ。秘密の共有は,互いの秘密ではなく 2人でつくりあげた秘密でするべきだろう。
どちらかの秘密を暴き立てるものじゃない。
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今日は普段よりKと話した。いつも通り僕が話してKが返事をする。やる気なさげな視線の裏では黒く輝く瞳。貫くようにただ僕に向けられていた。
Kの秘密を聞き出そうとしてもあっさりとかわされて,等価交換で教えてもらおうとしても駄目。
どこか諦めをのせたそんな表情で笑っていた。
あの時言えなかった秘密。ずっと飲み込んでいた言葉。今日こそは伝えようって思ってたのに。
ありきたりでもいいから僕の本音を。「Kが......」
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そこまで書いてページを閉じる。ふっと短い息を吐き自嘲した。書けるわけもない。こんな所にKへの想いなんて。
既に数万文字は超えた文章。その一文一文はKに対する思いの欠片。結末は誰も知らない,けれどきっとハッピーエンドにはならない物語。
「明確な言葉にはしてはいけない」
少なくとも僕がKに伝えるまでは。他人にこの気持ちを読ませたりしない。秘密だから。
だから,いつか カギ括弧の続きを書けたらいいななんて夢を見ている。
テーマ : «どこにも書けないこと»