かっぱー

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10/8/2024, 8:47:44 AM

ついにこの時がやってきてしまった。年に何回か存在する一大イベント、そう推しの実装である。この時に備えて石はずっとため込んできた。そして神イラストに性能も人権級ときた。これはもうひかない理由がないというものである。アップデートのわずかな時間すらもどかしく想いながら速攻でガチャ画面に遷移、まずはお決まりのおはガチャからだ。結果は当然爆死。当たり前すぎて何の感情もわいてこない。そのままの勢いで最初の10連を回す。光る画面、いわゆる確定演出というやつだ。勝利を確信しタップを繰り返す。そして私の目の前に現れたのは“すり抜け”だった。落胆する気持ちが抑えられないが、まだ序盤も序盤、天井を叩くことだってできるのだ。まだ私に焦りはなかった。そこからはあっという間だった。様々なオカルトを試しながら石を砕いていく。時折挟まるロードや演出に心乱されるも、推しが私に微笑んでくれることはなかった。そして迎えた最後の10連。ここまで来てしまったら天井は確定している。しかし、複数枚重ねる必要があるのだからここで出てくれたとしても何ら問題はないのだ。祈りを捧げタップする指にすべての力を込めてガチャを回す。そんな私を待ち構えていたのは…無情な現実だった。

10/7/2024, 9:34:22 AM

自分の人生を振り返ってみると、短いながらも様々な失敗をしてきたものだと思う。小さなところではLINEでの誤字やバイト先での計算ミスなんかがある。こんなものは気が付いたら即訂正すればいいし、たまに突っ込まれて恥ずかしい思いをしても笑いに昇華してしまえば良いのでかわいいものである。しかし大きなミスになるとそうもいかなくなることもある。例えば高校3年間の勉強習慣がそれにあたる。公立の難関進学校である高校に受かって満足してしまい、あまり勉強しないまま1年半が過ぎ、いざ進路を考え始めたときにはすでに選択肢がかなり狭まってしまっていたのだ。そして、結局第一志望の大学には届かなかった。
とはいえ、後悔はしていない。この失敗も今の自分を形作る1ピースであるというありきたりなことを言うつもりはないが、例えば大学であればその場所でしかできなかった交友関係もあるし、一度失敗したからこそ、誰かに伝えることができる話だって存在する。これからも成功だけでなく失敗も愛しながら生きていきたいものである。

10/6/2024, 4:41:27 AM

私は毎朝起きるとテレビを点ける。そして、いわゆる朝番組を流しながら朝の支度を進めていく。普段新聞を読んだりニュース番組をじっくり見たりすることができないためにここで情報収集を行うという側面もあるが、それ以上に私が重要視しているのが星座占いのコーナーだ。絶対に見落とさないようにここにあわせて朝食を食べるようにしているほどだ。そして、その結果によって喜んだり、ショックを受けたりする。朝から占いの結果一つで一喜一憂して疲れそうと思われるかもしれないが、結果が良ければ一日中気分良く過ごすことができるし、悪かったら悪かったでこの瞬間が一番運勢が悪い瞬間なんだとポジティブに捉えることで、やっぱり一日中気分良く過ごすことができる。だからこのルーティンは全体に欠かすことができないものなのだ。
ちなみにラッキーアイテムはあまり気にしないようにしている。もちろんハンカチやペンなどの小物だったら鞄に入れて持っていくのだが、わざわざ持っていないものを買ったり、邪魔になるものを持ち歩いたりはしない。狭い部屋に一人暮らしなため、油断するとすぐに手狭になってしまうからだ。そうこうしているうちに私の星座の順位が発表された。結果は6位。こういう中途半端な順位が困ってしまうのだが、まあここから右肩上がりで運気が上がっていくことだろう。さて、今日はどんな素晴らしい一日になるだろうか。

10/4/2024, 12:43:21 PM

この学校には1つ有名な怪談がある。毎年行われる文化祭の時にソレは現れる。ソレは、クライマックスのフォークダンスを1人で眺めていると声をかけてくる。「踊りませんか?」と。それもその人の好みの姿で。自分好みの相手が目の前で踊ろうと提案してくる。そんな存在がいるわけないと頭の片隅で思ってはいても、この誘惑に抗うことはなかなか難しい。しかし、1度頷いてしまったが最後、二度と踊りを止めることができなくなってしまう。最初は何ら問題ない。自分にとっての理想の相手と楽しく踊れるのだ。これ以上ないくらい幸せな体験だろう。しかし、曲が終わると違和感に気づくことになる。ソレは手を話してくれないのだ。そして自分の足も止まろうとしてくれない。そのまま次の曲、さらに次の曲とノンストップで踊り続けることになる。
そして、全てが終わった時、周囲も違和感に気がつくことになる。そこには1人で踊り続けている奇妙な存在がいるからだ。しかし干渉しようにもどうすることも出来ない。そして踊っていた人はそのまま踊っていくうちに段々と生気を失っていきついには命を落としてしまう。
そんなに危険ならフォークダンスを無くせばいいと考えるかもしれない。しかし、1度無くした年には大きな事故が起こって何人かの生徒が大怪我をしてしまった。だから無くすこともできず続けているのだ。代わりに一つだけ良いことがある。死なないためとはいえペアを組んで踊る男女が多く、そこからカップルが成立することが多々ある事だ。いわゆる吊り橋効果というやつである。それでもそう上手くいかない人もいるわけで…毎年踊る相手すらいない幾人かの男子たちは涙を飲むことになる。
そんな私はどうなのかって?私は生きるのに疲れてしまった、それが答えだ。

10/4/2024, 8:57:26 AM

昨日の夜、私は両親に「大事な話がある。」と切り出された。そこで告げられたことは私にとってまさに青天の霹靂といってよいものであった。「来月の頭に引越しをすることになったから来月から別の学校に通うことになる。」そう告げてきた時の二人の顔は申し訳ないという気持ちがにじみ出ていた。すでに学校生活の半分が終わった今、引っ越すことに抵抗がないわけがない。といっても一人で生活することができない子どもの私は従うしかないのだ。そして今朝、仲の良い友人たちに伝えた。みんなでショックを分かち合うことができたような気がしてほんのわずかに溜飲が下がったものの、行き場のない思いが消えることはなかった。
そこからの一か月は怒涛のものだった。友人たちに最後の思い出作りと休日のたびに様々なところに連れていかれた。目いっぱい遊んで写真を撮って笑いあって、考えうる限りのことはし尽くした。そして最後の日、先生の計らいでお別れ会が開催された。その時点ですでに泣きそうだったのだが、最後に色紙が出てきた時点で私の感情は決壊した。そこからのことはあまり覚えていない。ただ、先生が全員に向けていった言葉は忘れられそうもない。「君たちの人生はまだまだ長い。これから先、生きている間に同窓会や進学先なんかで再会することもあるでしょう。もし、また巡りあえた時は何時でもこうして仲良くやってくれると先生は嬉しいです。」

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