暇つぶしに立ち寄った古本屋で懐かしい本を見つけた。学生時代に買って何回か読んだ割と好きな小説だ。とはいえ一人暮らしを始める時に荷物になるからと売ってしまった。以前にふと読みたいなと思って売った店に一応見に行ったものの、当然売れてしまっていた。さらにマイナー寄りだったのかネットで買おうにもなかなかの値段がしたためまあいいやと忘れてしまった。そんな本が今私の目の前にある。私は迷わず手に取りレジに向かった。
帰宅した私はコーヒーを用意して鞄から本を取り出した。表紙をめくり、最初の数ページを読むと、少しずつ記憶がよみがえってきた。「そうそう、こんな話だったよな。」と思いながら読み進めていくとふと引っかかる部分があった。何故か数ページだけ変色しているのだ。記憶をたどっていくと一つ思い当たることがあった。あの時、お供にしていたコーヒーをこぼしてしまったのだったな、と。そしてページが破れていないということは当時の私は相当丁寧に扱ったのだろう、とも。そこまで考えてはたと思った。「となるとこの本はあの時私が売ったあの本なのでは。」と。あれからどれくらいの年月が経ったのだろう。それだけの時を経て、様々な人の手に渡り、今こうして再び私の手元にある。このめぐり逢いは間違いなく奇跡だ。ならば今度は手放さないようにしよう。この偶然を大事にしたいから。
時間よ止まれ。これまで生きてきて一体何度こう思ったことだろうか。朝寝坊して電車に遅れそうな時、テスト中まだまだ時間がかかりそうなのに「残り5分です。」と告げられた時、プレゼンテーション用の資料制作が期日に間に合わなそうな時、昔仲の良かった友人と久しぶりに会って会話している時、それこそ挙げ始めればキリがない。しかし、現実とは無常だ。幾度となく「時間よ止まれ。」と願ってきたが、その願いが叶ったことは一度としてない。
とはいえ仮に時間を止める能力が自分にあったとしても、完全に堕落した生活を送るようになるか、なぜあんなところで能力を使ってしまったのだろうかと後悔するかのどちらかにしかならないのだろう。ならば、そのような能力は最初から無くてもいいのではないかと思う。そしてまた、事あるごとに思うのだろう。「時間よ止まれ。」と。そのたびに止まらない現実に嘆くのだろう。だがそれで良いのだとも思う。時間は止まらない、だから人は必死に生きるし、人生は面白いのだ。
忘れられない景色がある。あの日、何もかもに疲れ切っていた私はちょうどホームにやってきていた電車に飛び乗った。闇雲に乗り継いでたどり着いたのは静かな田舎町だった。普通の人にとっては、何もなくて退屈な場所なのかもしれないが、都会の喧騒に疲れ切っていた私にはとても居心地の良い場所であった。ふらっと立ち寄った個人経営のお店で食事をとった後、珍しい観光客だと勘違いした店員さんにおすすめされたスポットに向かって歩き出した。
あまり運動してこなかった私にとってその道はなかなかにしんどいものだった。といっても昨日までの日々と比較したらなんということのものでもない。歩き始めてからどのくらいの時間が経っただろうか。徐々に暗くなっていく中、私は木々に空を覆われた道をスマホの明かりを頼りに歩いていた。さらに5分ほど歩いただろうか。一段高いところにたどり着いたのかいきなり視界が開けた。そして私の目に飛び込んできたのは空一面の星空だった。都会の明かりに邪魔されない夜景はそれはもう見事なものだった。
どのくらい立ち尽くしていただろうか。ふと我に返った私の心は晴れ晴れとしていた。「もう少し頑張ってみよう、そしてまたここに来よう。」そう思うことができた。あれから数年、今でも私はあの日の夜景を胸に日々を生きている。いつの日か私を救ってくれたあの場所で生きるために。
ある日、私がひまわり畑の中を歩いているとボロボロの兵隊に出会った。彼は銃を構えようとしたが、力が入らなかったのかそのまま崩れ落ちてしまった。恐怖心を押し殺して慌てて駆け寄ると、かすれた声で水を求めていた。わずかに逡巡したが私は持っていた水袋を彼に渡した。水を飲みこちらに敵意がないと分かったのか、彼はポツリポツリと身の上を語ってくれた。
彼は戦場へ向かう途中だったそうだ。しかし、途中で死ぬことが恐ろしくなり、霧が出たのに乗じて行軍中の部隊から逃げ出したとのことだった。ただひたすらに逃げ続け、眠ることもできず、ふらふらになっていた時に、身を隠すことができそうなこのひまわり畑を見つけることができて幸運だったと。そこまで話して彼はふと疑問に思ったのか尋ねてきた。「ここはどこなのか。」と。私は少々逡巡したが事実を告げた。「そうか。」とつぶやいた彼の顔は絶望に沈んでいるように見えた。彼は私に感謝を述べた後、奥へと消えていった。私は止めなかった。いや止められなかった。数分後銃声が響いた。私は十字を切った。せめて花畑の中で命を絶った彼の死後が安らかなものであるように、と。
忘れられない日、人生で初めて別れを経験したあの日。棺の中の彼女は美しかった。苦しむような最期ではなかったとはいえ、長い入院生活で痩せ衰えてしまっていたのに。そんな彼女を彩るがごとく花を添えた。一輪一輪丁寧に。棺の蓋が再び閉じられる。
そして、彼女は霊柩車に乗り込んだ。私も助手席に乗り込んだ。一秒でも長く彼女のそばにいることができるように。私たちを乗せた車が動き出した。ゆっくりと、しかし確実に終わりへと進んでいく。そんな中、ふと空を見上げたら灰色の雲が立ち込め始めていた。看板が見えた。いよいよ最後の曲がり角のようだ。止まってほしいと願いながらも、それは不可能だと冷静に指摘する私もどこかにいた。
沈黙の中、わずかに流れる音色に一つの雑音が交ざった。雨だ。一つ、二つとしずくが落ちてくるだけだったのが、瞬く間に土砂降りになった。気が付けば私も涙を流していた。別に泣かないことがどうとか思っていたわけではない。お別れは済ませた、そう言い聞かせていただけだった。だから空よありがとう。私の本心を思い出させてくれて。そしてともに涙を流してくれて。