あかまきがみあおまきまき

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6/17/2024, 4:10:25 PM

     未来


  夜更けの高層ビルの屋上。その突端に立つ男
  がひとり。
  煌びやかな夜景も、涼しげな風も、彼の心に
  響くことはない。
  彼は死ぬことを選択したのだ。
  さまざまに思い詰めた結果、これしかないと
  決断して、遂にこの場所にたどり着いた。
  
  足元を見ると……

  お、意外と高いな。
  大丈夫かな。あの辺の、ひさし辺りに引っ掛
  かりはしないよな?
  ちゃんと下まで落っこちればまず間違いなく
  死ねるだろうけど。
  あー、下は車けっこういるなあ。
  落ちたら、車にぶつかるな。たぶん。いや絶
  対。
  他人巻き込んじゃうのはやだな…。
  あっちにするか。

  男はコンクリートの縁をいそいそと歩き出す
  。一瞬強い風が彼の背広をはためかせた。
  男は思わずその場にしゃがみ込む。

  うおっ!あぶねー!
  ヤバいヤバい、中途半端には死にたくないし
  な。何しろ一世一代の大仕事だしな。
  さてと…、こっちならどうだ?
  んー、下は真っ暗で見えないぞ。
  ほんとにここでいいのかな…。
  あ!遺書と靴、あっちに置いてきちゃった。
  取りに行くのめんどくせえな…。

  「おい!」

  逡巡している男に向かって何者かが声を上げ
  た。男は一瞬たじろぎ、肩を竦めながらその
  方角を振り返る。
  暗がりのなかに誰かが立っている。
  ヤバっ、警備員か?

  「お前さ、いい加減にしろよ」
  黒い影は悪態をつくように言って、ずかずか
  と男の方へ近づいてきた。そしてそれは目の
  前で立ち止まると、続けざまにこう言った。

  「いつまで待たせんだよ。
   早くちゃんと死んでくれる?」

  「は?」
  男はきょとんとして暗闇にぼんやり映るそい
  つを見る。
  ダボダボの黒いパーカー。フードを目深に被
  って表情はわからない。

  「あの…、どちら様で」
  「オレか?オレは、オマエさ」

  黒いパーカーの人物はどこか得意気に言うと
  、ゆっくりとフードを捲り上げた。

  「ほら、おんなじ顔だろ?
   …いやちょっと待て、暗くて見えないか」

  そいつが胸元で右手を開くと、不思議なこと
  にぼんやりと明かりが灯った。
  
  「あ!」
  男は目を丸くして驚愕した。
  薄明かりの中に浮かんだその顔。紛れもなく
  …オレじゃないか!

  「びっくりしたろ」
  「いや、その、何て言うか…。ずいぶんとそ
   っくりで…」
  「そっくりなんじゃねえよ。オレはオマエで
   オマエはオレなんだよ」

  にやけ顔のそいつは見栄を切るように顎を突
  き出した。

  「ちょっとなに言ってるのか…」
  「わかんねえよな。無理もない。
   オレは未来から来たオマエなんだよ」
  「未来から?」
  「そ」
  「その…タイムマシンとかなんかで?」
  「正解」

  男はますます事情が飲み込めない様子で『
  オレ』を名乗る人物をまじまじと見る。
  それにしてもコイツのにやけ顔、なんかムカ
  つく…。

  「そのオレ様がどういったご用件で」
  「用件はただひとつだ。オマエ…、いや、オ
   レがちゃんと死ぬのを見届けに来た」
  「見届けに?」
  「そうだ。オマエは死ぬんだ。死んでもらわ
   なきゃ困る」

  その言葉に、男はいよいよこんがらがってき
  てなんだか腹が立ってきた。

  「こういうのって普通止めません?死ぬなん
   てやめろ!オレはオマエなんだから!とか
   言って」
  「あー、普通はそう思うわな」
  「そもそもオレが死んだら、アナタどうなる
   んですか。存在しなくなっちゃうでしょ」
  「なるほど、そこちゃんと説明しなきゃか」

  パーカーを着た『オレ』はその場で胡座をか
  いて座り込んだ。そして「よく聞けよ」と前
  置きしてから事の顛末を喋り出す。

  「オレ、つまりオマエはここで一旦死ぬんだ
   わ。そっから飛び下りて。
   そんでそこでオレ…、まあこれもオマエだ
   けど、が現れて、未来科学の力でもってオ
   マエを生き返らせるってわけ」
  「なんでわざわざ死んで生き返らせるの?だ
   ってそれなら一旦死ぬ必要ないよね?」
  「そういうシナリオなんだよ」
  「シナリオ?」
  「そ。オレの記憶じゃそうなってるんだ。
   150年前にオレは一回死んでるの」
  「150年!?」
  「タイムマシンで来たからね。未来から」
  「何歳なの?」
  「んーと、180歳になるかな、今年で」
  「そうには見えないけど…」
  「未来科学の力だよ。だってオレ、アンドロ
   イドだもん。脳味噌以外は」
  「あ、私iPhoneで」
  「聞いてねえよ。オマエのスマホのキャリア
   なんてよ。
   そうじゃなくて、オレ自身が人造人間なの
   。死んだあと身体ごとそっくり入れ換えた
   の」
  「機種変ですか?」
  「違えーよ!」
  「脳味噌がSIMカードってことでよろしいで
   すか」
  「しつけーよ!オマエ勤め先携帯会社だろ」
  「よくわかりましたね」
  「わかるよ!いやそれよりとにかくオマエが
   死ななきゃ始まらないんだよ!」
  「うーん、どうしよっかな」
  「オマエこの野郎!」

  そのやり取りをモニターで見ていた男は、悔
  しさを滲ませて頭を抱えた。
  「また失敗か……!」
  傍らで、如何にも男受けしそうな身体つきの
  アンドロイドが、艶かしい声で囁く。
  「博士。また上手くいきませんでしたね」

  西暦2174年の未来世界。
  タイムマシンを作り出した男は、なんとして
  も150年前の自分を死なせる必要があった。
  2024年のこの日、確かに自分は死んだのだ。
  そして『オレ』を名乗る自分にそっくりな人
  物によって生まれ変わった。
  いっそ殺してしまおうか。そうとも考えた。
  だがそれはリスクが大き過ぎる。
  オレは間違いなくあの場所から飛び降りたの
  だから。

  「今回は『オレ』の転送が早かったようです
   ね。もう少し遅らせますか?」
  アンドロイドの助手が男に告げる。
  「ああ、頼む」
  「それでは巻き戻します。
   座標確認、キャプチャー5088AD65…… 」

  こんなことをもう何年もやっている。
  オレがこんなにしぶといなんて…。
  頼むから死なせてくれ。オレを!


  #005

6/16/2024, 3:08:36 PM

     一年前


  お風呂から上がるなり、いきなりリビングに
  あるスマホの着信音が鳴ってあたふたした。
  手に取ると、先月別れた彼氏からの着信。
  
  ……え、なに?

  少し訝しみながらも受信をスワイプする。

  「あ、リコ?ごめん、電話しちゃって」
  「あ、うん」

  声を聞かなくなってからまだたったひと月し
  か経ってないのに、なんだかすごい久しぶり
  な感じ。
  っていうより、まるで他人。この人こんな声
  してたっけ?  
  あたし、忘れちゃったのかな。元彼の声…。

  「久しぶり。元気?」
  「うん。ってゆーかなに?どした?」
  「いや、あのさ…」
  彼は少し口ごもってから
  「俺、引っ越しすることになったんだ」
  「そう。遠くに行くの?」
  バスタオルで髪を乾かしながらスピーカーを
  オンにする。大した話じゃなさそうだ。
  もともと彼はいつも他愛のないことで電話を
  してきてた。
  この人がどこで暮らそうがあたしには関係な
  いし。

  「それでね、部屋を片付けてたら…、」
  「なに?」
  「出てきたんだ」
  「だからなにが?」
  「クッキーが」
  「クッキー?」

  なに言ってんだろ、この人。

  「クッキーって、あの食べるクッキー?」
  「うん」
  「それが出てきたら、なにかヤバいの?」
  「すごくヤバい」
  
  声がくぐもっているのと、言ってる意味が解
  らなさすぎてドライヤーもかけられない。

  「なんでよ?食べちゃえばいいじゃん」
  「食べていいのかな?」
  「食べればー?」
  「リコが焼いてくれたクッキーなんだ」
  「え……?」
  「ちょうど一年前くらいに」

  そういえば、よくお菓子作ったな。
  彼氏の家で。

  「食べていい?」
  「いやいやいや、一年前のでしょ?」
  「むしろ食べたい。食べさせて」
  「ちょっと、なに言ってんのよ」
  「その許しをもらうために電話したんだ」
  「許しって」
  「このクッキーを食べる資格が果たして今の
   俺にあるのか、それを作った本人に…」
  「いやいや、ダメ!絶対ダメです!」
  「やっぱダメかーーーーー」

  彼の落胆した叫びがスマホ越しに響いた。

  「だって一年前のでしょ?」
  「食べられるでしょ。その気になれば」
  「その気ってなによ。ってゆうか、カビとか
   生えてるかもでしょ」
  「見た感じだいじょぶそうだけど…。写真送
   ろっか?」
  「結構です!」

  諦めきれない彼はそれでもしつこく食い下が
  る。

  「お願い!食べさせて!これを食べなきゃ俺
   、大人になりきれないような気がする」
  「腐ったクッキー食べる大人はいません!」
  「腐ってないよ。だから…お願い」

  いつもそうだ。
  彼は何かしらに付け、事ある度にこの「お願
  い」を使ってきた。

  ふたつ年下の彼は、いわゆる草食系男子を絵
  に描いて額縁に飾ったかのような子だった。
  甘え上手で、純粋に笑って、愚直に物事に熱
  中して、転けると子供のように泣いて。
  手を差しのべずにはいられない人。
  
  そんな彼だから、別れ話を打ち明けられたと
  き、あたしは自分でも驚くくらい混乱した。
  「なにかあった?」
  必死に平静を装い絞り出したあたしの問いに
  、彼はひと言だけ「疲れたんだ」と返した。
  それから、三日泣いて、三日で彼を忘れた。

  「食べたら死んじゃうかもよ」
  「リコのクッキー食べて死ねるならそれでい
   い。一年前の思い出と一緒なら…」
  「なに言ってるの。死んじゃったらもう二度
   と食べることもできないでしょ!」

  彼の返事がない。
  耳を澄ますと…「バリッ、ボリボリボリ…」

  「食べちゃったの!?」
  「んっ、うん…もぐもぐ」
  「もう!馬鹿っ!知らないからねっ!」
  「んぐ…、固い…。でも、めちゃうまい」
  「勝手にしなさい!もう!」

  何がしたくて電話してきたんだか。
  そしてあたしは誰と喋ってたんだろ。
  通話を切ってからしばらく呆然としていた。
  先月のことはよく憶えていないけど、なぜか
  一年前のキラキラした記憶は鮮明に浮かび上
  がってくる。

  彼の大好きなクッキー。
  思わず焼きすぎちゃった。
  今度焼くときは、食べきれる量にしなきゃな
  。


  #004

  

6/14/2024, 3:30:59 PM

     あじさい


  この季節になるとモーリーさんの邸宅の庭
  には、鮮やかな赤い紫陽花が所狭しと咲き
  誇っていた。
  毎朝僕が配達に訪れると、いつも奥さんが
  その花たちに水をやっていて、「おはよう
  」と言って笑顔で新聞を受け取ってくれた
  。
  どこか優雅でいながら、それでいて屈託の
  ないその朗らかな笑顔に、僕は一日のはじ
  まりを幸せな気分で迎えることができた。

  その奥さんが亡くなってから一年が過ぎた
  。
  殺人だったらしい。

  去年の雨の朝、いつものように自転車でお
  屋敷に向かうと、門前に規制線が張られた
  くさんの警察官が出入りしていた。
  「君、ここに配達にきてる人?」
  「はい」
  幾つか事情を訊きたい、と言った刑事らし
  き人に付き添われ、僕はパトカーに乗せら
  れた。
  そこでモーリー夫人が殺されたことを知っ
  た。
  ひどく頭を揺さぶられたような気分になっ
  て、何を訊かれたかは憶えていない。
  ただ、雨粒で濡れた車窓の向こうの、彼女
  が大切にしていた真っ赤な紫陽花たちが、
  もの悲しそうにパトカーのランプに照らさ
  れていたのは目に焼き付いている。

  ほどなくして、モーリー家のご主人が容疑
  者として逮捕された。
  
  僕は旦那さんのことはよく知らない。会っ
  たことも見たことすらなかった。
  でも、街の人たちはおしなべて、この街一
  番のお屋敷に住む夫妻に対して良い印象は
  持っていなかった。
  郊外のオイル工場の社長をしているご主人
  は、常に若い女をはべらして滅多に家に帰
  らなかった…だとか、いつも夫婦喧嘩が絶
  えなかった…だとか、奥さんは奥さんで他
  に男を作って夜になると出掛けていった…
  だとか……。
  「事件のあったあの夜ね、あたしゃ見たん
  だよ。奥さんと旦那さんが庭先で言い合い
  をしてるとこをね。
  奥さんは真っ赤な綺麗なドレスを着てね、
  そう、大きなトランクケースを持っていた
  わ。あれは…そう、きっと家出を決意して
  いたに違いないわ。
  旦那さんはぐでんぐでんに酔っていてね、
  奥さんの髪を引っ張って無理やり家の中へ
  引きずり込んでった。
  そのあと、きっと刃物かなんかで奥さんを
  ……。ああ!考えるだけで恐ろしい!」
  得意先のお婆さんは、僕と顔を合わせる度
  いつも同じ話をしていた。
  この小さな街で起こった大事件に、誰もが
  勝手に噂話を流布していた。

  そのご主人がさして間もおかず釈放された
  という話は真実だ。
  新聞には続けてこうあった。
  重要な証拠のない容疑者を当局は起訴する
  ことに躊躇った、と。
  
  それからあっという間に一年が過ぎた。
  この街で起きた殺人事件など、すっかり人
  々は忘れてしまったかのように、当時のこ
  とを口にする人はほとんどいなくなってい
  た。
  モーリー邸の門は閉めきられたままで、手
  入れをする人を無くした庭は草が生え放題
  になっている。その奥に、奥さんが育てて
  いたあの紫陽花。
  あの頃とはぜんぜん違う花のように、くす
  んだ青色の花びらは元気がなくこじんまり
  としていて、まるで奥さんの帰りを待ちわ
  びているように見えた。

  「お花に興味がおあり?」
  ご夫人と最初に会話したときのことを憶え
  ている。思い出すだけで今でも胸が高鳴っ
  てしまう。
  赤い紫陽花があまりに綺麗で、間近に寄っ
  て覗き込んでいたとき、突然後ろから声を
  掛けられて飛び上がった。
  「すみません!お庭に入り込んでしまって
  」
  奥さんは穏やかに笑って白い歯を見せた。
  「いいのよ。それより、可愛らしいでしょ
  、この紫陽花たち」
  「はい、とても…」
  初夏の朝日をいっぱいに浴びながら精一杯
  咲き誇る紫陽花を眺めて、彼女は得意気に
  話し出した。
  「ここまでに育てるにはちゃんと面倒を見
  てあげないとなの。少しでも手入れを怠け
  ると、この子たちきっと拗ねちゃうのね、
  すぐに萎れて色も変わっちゃうのよ」
  奥さんの白くて細い指先が、紫陽花の赤い
  花弁にそっと触れる。まるで愛しい我が子
  の頬を撫でるように。
  「お花も人と一緒。目を離してしまうと寂
  しがって思いきり咲けなくなる。
  見ていて欲しいし、たまには声もかけて欲
  しいのよね。可愛いね…って」
  そのときの彼女の物憂げな顔を、僕が見た
  のはこれきりだった。
  奥さんは我に返ったように僕に向き直ると
  、にこやかに、それでいてどこか僕を試す
  ように言った。
  「あなたに育てられるかな?紫陽花」
  
  奥さんはもういない。
  あの鮮やかで生き生きとした赤い紫陽花は
  もう見ることができない。

  仕事を終えた僕は、僕の住む安アパートの
  部屋でレターペーパーにペンを走らせてい
  た。
  何をどう書いたらいいのかわからなかった
  けれど、それに何の確証もなかったけれど
  、思い付くまま短い文を殴り書きして封筒
  に入れ切手を貼って街角のポストに投函し
  た。
  宛先は地元の警察署。
  
  難航していたモーリー夫人殺害事件の捜査
  が、一転して犯人逮捕に動いたのは夏を迎
  える7月の頭だった。
  きっかけは匿名からによる一通の手紙から
  だった。
  捜査本部の会見の場で、記者にせがまれる
  ようにして、警察はその内容を公表した。
  『邸宅の庭の、紫陽花の根本を調べてくだ
  さい』
  ただその一文だけだった。
  凶器とみられるブッチャーナイフが発見さ
  れたのは、この手紙の通り紫陽花が植えて
  ある土のなかからだった。
  さらにそのナイフには夫人の血痕と、この
  邸宅の主人で夫人の夫であるアルフレッド
  ・モーリーの指紋が浮かび上がった。
  
  証言台に立つ彼の発言を、メディアはこぞ
  って大きく取り上げた。
  あまりにも利己的で一人よがりな言葉の羅
  列が、視聴者の怒りを煽ったからだ。
  「彼女のような美しい女性をどうして手放
  せようものか。そばにいて変わらずにそこ
  にいて欲しかっただけなのだ!」

  朝の配達が終わり帰宅した僕には日課があ
  った。
  それは、モーリー夫人から株を分けてもら
  った紫陽花に水をやることだ。
  でも、僕の紫陽花は一向に赤くはならない
  。
  毎日こうして水をやって、可愛いねって声
  をかけているのに、ずっと青いまま。
  それでも、いいんだ、これで。
  これが僕の紫陽花。
  奥さんのそれのように、赤く大きく立派な
  紫陽花ではないけれど、それでもちゃんと
  一生懸命咲いている。
  小さくても、僕らしい紫陽花。
  来年も、これからもずっと、綺麗に咲かせ
  てね。
  僕は指先で、紫陽花の植わっているブリキ
  の鉢植えを『コン』とはじいた。


  #003

6/11/2024, 2:36:49 PM

     街


  「おつかれさん」
  そう言ってマスターは、手にした瓶ビールを
  傾けてテーブルに置かれたコップに注ぐ。
  マスターに尺をしてもらうなんて初めてだ。
  いや、ひょっとしたらかなり以前にあったか
  も…。

  「久しぶりじゃないか。元気そうだな」
  恐縮してコップを手にしたままの俺に、マス
  ターは穏やかに話しかける。

  この人はきっと何もかも知っているのだ。
  15年以上も前、俺がこの街から突然いなくな
  った理由も。
  そしてその間、どこでどうしていたのかも。

  ずっとここのモヤシそばが食いたかった。
  マスターも、おばちゃんも、りっちゃんも、
  飲み呆けて馬鹿やって笑いあった仲間たちも
  。一晩だって忘れたことはなかった。

  「この辺りもだいぶ変わったろう。
  都市開発ってやつでね、飲み屋街はほとんど
  壊されて跡形もなくなっちまった。いまじゃ
  すっかりビルやらマンションに囲まれちまっ
  たよ。待ってろよ、いま餃子焼いてやるから
  」
  「あの…、おばちゃんは」
  忘れてたビールの苦味を口のなかに残して、
  厨房で背を向けるマスターに、ようやく俺は
  問いかけた。
  「死んだよ。もう4年になるな。
  いなくなると寂しいもんだな」

  時は残酷だ。
  俺だけを残して何もかもを消し去って、そし
  て作り変えてゆく。
  死んでしまうことより生きてゆくことのほう
  が、もしかしたら辛いことなのかもとすら思
  えてしまう。
  俺はこの変化に、きっとついてゆけない…。

  テーブルに焼き立ての餃子と、夢にまで見た
  あの頃のままのモヤシそばが置かれた。
  湯気の向こうのこの至高の食べ物を、俺は眺
  めているだけで精一杯だった。
  モヤシそばが歪んで、目から滴が落ちた。

  「帰ってくるんだろ?この街に」
  傍らでマスターがそっと語りかける。
  「この街じゃな、ちょいと足を踏み外したら
  奈落に落ちる。それを知ってるから、みんな
  踏ん張って生きてる。
  見た目が変わって、道路が出来ようがビルが
  建とうが、それだけは変わらない。
  おまえさんがその気なら、きっと受け入れて
  くれる。
  ここの人も街も。そういう場所だ」

  この街で、生きていきたい。
  
  口のなかがヤケドするくらい、やっぱりモヤ
  シそばは熱かった。


  #002

6/10/2024, 1:08:26 PM

    やりたいこと


 「やりたいこと?
 ふっ
 なにを今さら、馬鹿馬鹿しい
 アタシくらいのレベルになるとね、やりたい
 ことなんて何ひとつ無くなるのさ

 そもそもやりたいことってなんだい
 素敵なあの子と相思相愛になりたい?
 美味しいものをたらふく食べたい?
 どこか見知らぬ遠くを旅してみたい?
 はははっ
 お笑い草だね
 出来もしないことをただ夢見てるだけじゃな
 いか
 なになに?そのためにみんな頑張ってる?
 まったく滑稽な話だね
 頑張ったところで思いどおりにならなけりゃ
 それこそ絶望するだけじゃないか
 それどころか、それまでの労力だの時間だの
 が無駄になる
 心底、荒唐無稽だよ
 頑張るなんて意味なーーーし

 だいたいね、いま生きていられることに満足
 できないもんかね?
 そこそこ食べられて、それなりに眠れりゃ、
 それで充分じゃないか
 その上に『あれがやりたい』だなんて、贅沢
 ってもんさね

 アタシなんてね、ごらんよ、この身体中に生
 えたコケ?ゴミ?ホコリ?これ食べて生きて
 るんだから(モグモグ)
 アンタもひとつどおだい?遠慮せずにさあ
 ガハハハハハ

 あー、笑ったら眠くなったわ
 あ、起こさないでよ?
 丸一日起きなくても死んでるわけじゃないか
 らさ
 そんじゃ、おやすみー(グゥ……)」
 


 樹上でひとしきり話を聞いていたテナガザルの
 子供は、木の枝にぶら下がったまま眠る毛むく
 じゃらの獣を見て、なんだかホッと胸を撫で下
 ろした。
 良かった…ナマケモノに生まれなくて……。


 #001
 

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