街
「おつかれさん」
そう言ってマスターは、手にした瓶ビールを
傾けてテーブルに置かれたコップに注ぐ。
マスターに尺をしてもらうなんて初めてだ。
いや、ひょっとしたらかなり以前にあったか
も…。
「久しぶりじゃないか。元気そうだな」
恐縮してコップを手にしたままの俺に、マス
ターは穏やかに話しかける。
この人はきっと何もかも知っているのだ。
15年以上も前、俺がこの街から突然いなくな
った理由も。
そしてその間、どこでどうしていたのかも。
ずっとここのモヤシそばが食いたかった。
マスターも、おばちゃんも、りっちゃんも、
飲み呆けて馬鹿やって笑いあった仲間たちも
。一晩だって忘れたことはなかった。
「この辺りもだいぶ変わったろう。
都市開発ってやつでね、飲み屋街はほとんど
壊されて跡形もなくなっちまった。いまじゃ
すっかりビルやらマンションに囲まれちまっ
たよ。待ってろよ、いま餃子焼いてやるから
」
「あの…、おばちゃんは」
忘れてたビールの苦味を口のなかに残して、
厨房で背を向けるマスターに、ようやく俺は
問いかけた。
「死んだよ。もう4年になるな。
いなくなると寂しいもんだな」
時は残酷だ。
俺だけを残して何もかもを消し去って、そし
て作り変えてゆく。
死んでしまうことより生きてゆくことのほう
が、もしかしたら辛いことなのかもとすら思
えてしまう。
俺はこの変化に、きっとついてゆけない…。
テーブルに焼き立ての餃子と、夢にまで見た
あの頃のままのモヤシそばが置かれた。
湯気の向こうのこの至高の食べ物を、俺は眺
めているだけで精一杯だった。
モヤシそばが歪んで、目から滴が落ちた。
「帰ってくるんだろ?この街に」
傍らでマスターがそっと語りかける。
「この街じゃな、ちょいと足を踏み外したら
奈落に落ちる。それを知ってるから、みんな
踏ん張って生きてる。
見た目が変わって、道路が出来ようがビルが
建とうが、それだけは変わらない。
おまえさんがその気なら、きっと受け入れて
くれる。
ここの人も街も。そういう場所だ」
この街で、生きていきたい。
口のなかがヤケドするくらい、やっぱりモヤ
シそばは熱かった。
#002
6/11/2024, 2:36:49 PM