一年前
お風呂から上がるなり、いきなりリビングに
あるスマホの着信音が鳴ってあたふたした。
手に取ると、先月別れた彼氏からの着信。
……え、なに?
少し訝しみながらも受信をスワイプする。
「あ、リコ?ごめん、電話しちゃって」
「あ、うん」
声を聞かなくなってからまだたったひと月し
か経ってないのに、なんだかすごい久しぶり
な感じ。
っていうより、まるで他人。この人こんな声
してたっけ?
あたし、忘れちゃったのかな。元彼の声…。
「久しぶり。元気?」
「うん。ってゆーかなに?どした?」
「いや、あのさ…」
彼は少し口ごもってから
「俺、引っ越しすることになったんだ」
「そう。遠くに行くの?」
バスタオルで髪を乾かしながらスピーカーを
オンにする。大した話じゃなさそうだ。
もともと彼はいつも他愛のないことで電話を
してきてた。
この人がどこで暮らそうがあたしには関係な
いし。
「それでね、部屋を片付けてたら…、」
「なに?」
「出てきたんだ」
「だからなにが?」
「クッキーが」
「クッキー?」
なに言ってんだろ、この人。
「クッキーって、あの食べるクッキー?」
「うん」
「それが出てきたら、なにかヤバいの?」
「すごくヤバい」
声がくぐもっているのと、言ってる意味が解
らなさすぎてドライヤーもかけられない。
「なんでよ?食べちゃえばいいじゃん」
「食べていいのかな?」
「食べればー?」
「リコが焼いてくれたクッキーなんだ」
「え……?」
「ちょうど一年前くらいに」
そういえば、よくお菓子作ったな。
彼氏の家で。
「食べていい?」
「いやいやいや、一年前のでしょ?」
「むしろ食べたい。食べさせて」
「ちょっと、なに言ってんのよ」
「その許しをもらうために電話したんだ」
「許しって」
「このクッキーを食べる資格が果たして今の
俺にあるのか、それを作った本人に…」
「いやいや、ダメ!絶対ダメです!」
「やっぱダメかーーーーー」
彼の落胆した叫びがスマホ越しに響いた。
「だって一年前のでしょ?」
「食べられるでしょ。その気になれば」
「その気ってなによ。ってゆうか、カビとか
生えてるかもでしょ」
「見た感じだいじょぶそうだけど…。写真送
ろっか?」
「結構です!」
諦めきれない彼はそれでもしつこく食い下が
る。
「お願い!食べさせて!これを食べなきゃ俺
、大人になりきれないような気がする」
「腐ったクッキー食べる大人はいません!」
「腐ってないよ。だから…お願い」
いつもそうだ。
彼は何かしらに付け、事ある度にこの「お願
い」を使ってきた。
ふたつ年下の彼は、いわゆる草食系男子を絵
に描いて額縁に飾ったかのような子だった。
甘え上手で、純粋に笑って、愚直に物事に熱
中して、転けると子供のように泣いて。
手を差しのべずにはいられない人。
そんな彼だから、別れ話を打ち明けられたと
き、あたしは自分でも驚くくらい混乱した。
「なにかあった?」
必死に平静を装い絞り出したあたしの問いに
、彼はひと言だけ「疲れたんだ」と返した。
それから、三日泣いて、三日で彼を忘れた。
「食べたら死んじゃうかもよ」
「リコのクッキー食べて死ねるならそれでい
い。一年前の思い出と一緒なら…」
「なに言ってるの。死んじゃったらもう二度
と食べることもできないでしょ!」
彼の返事がない。
耳を澄ますと…「バリッ、ボリボリボリ…」
「食べちゃったの!?」
「んっ、うん…もぐもぐ」
「もう!馬鹿っ!知らないからねっ!」
「んぐ…、固い…。でも、めちゃうまい」
「勝手にしなさい!もう!」
何がしたくて電話してきたんだか。
そしてあたしは誰と喋ってたんだろ。
通話を切ってからしばらく呆然としていた。
先月のことはよく憶えていないけど、なぜか
一年前のキラキラした記憶は鮮明に浮かび上
がってくる。
彼の大好きなクッキー。
思わず焼きすぎちゃった。
今度焼くときは、食べきれる量にしなきゃな
。
#004
6/16/2024, 3:08:36 PM