あかまきがみあおまきまき

Open App

     あじさい


  この季節になるとモーリーさんの邸宅の庭
  には、鮮やかな赤い紫陽花が所狭しと咲き
  誇っていた。
  毎朝僕が配達に訪れると、いつも奥さんが
  その花たちに水をやっていて、「おはよう
  」と言って笑顔で新聞を受け取ってくれた
  。
  どこか優雅でいながら、それでいて屈託の
  ないその朗らかな笑顔に、僕は一日のはじ
  まりを幸せな気分で迎えることができた。

  その奥さんが亡くなってから一年が過ぎた
  。
  殺人だったらしい。

  去年の雨の朝、いつものように自転車でお
  屋敷に向かうと、門前に規制線が張られた
  くさんの警察官が出入りしていた。
  「君、ここに配達にきてる人?」
  「はい」
  幾つか事情を訊きたい、と言った刑事らし
  き人に付き添われ、僕はパトカーに乗せら
  れた。
  そこでモーリー夫人が殺されたことを知っ
  た。
  ひどく頭を揺さぶられたような気分になっ
  て、何を訊かれたかは憶えていない。
  ただ、雨粒で濡れた車窓の向こうの、彼女
  が大切にしていた真っ赤な紫陽花たちが、
  もの悲しそうにパトカーのランプに照らさ
  れていたのは目に焼き付いている。

  ほどなくして、モーリー家のご主人が容疑
  者として逮捕された。
  
  僕は旦那さんのことはよく知らない。会っ
  たことも見たことすらなかった。
  でも、街の人たちはおしなべて、この街一
  番のお屋敷に住む夫妻に対して良い印象は
  持っていなかった。
  郊外のオイル工場の社長をしているご主人
  は、常に若い女をはべらして滅多に家に帰
  らなかった…だとか、いつも夫婦喧嘩が絶
  えなかった…だとか、奥さんは奥さんで他
  に男を作って夜になると出掛けていった…
  だとか……。
  「事件のあったあの夜ね、あたしゃ見たん
  だよ。奥さんと旦那さんが庭先で言い合い
  をしてるとこをね。
  奥さんは真っ赤な綺麗なドレスを着てね、
  そう、大きなトランクケースを持っていた
  わ。あれは…そう、きっと家出を決意して
  いたに違いないわ。
  旦那さんはぐでんぐでんに酔っていてね、
  奥さんの髪を引っ張って無理やり家の中へ
  引きずり込んでった。
  そのあと、きっと刃物かなんかで奥さんを
  ……。ああ!考えるだけで恐ろしい!」
  得意先のお婆さんは、僕と顔を合わせる度
  いつも同じ話をしていた。
  この小さな街で起こった大事件に、誰もが
  勝手に噂話を流布していた。

  そのご主人がさして間もおかず釈放された
  という話は真実だ。
  新聞には続けてこうあった。
  重要な証拠のない容疑者を当局は起訴する
  ことに躊躇った、と。
  
  それからあっという間に一年が過ぎた。
  この街で起きた殺人事件など、すっかり人
  々は忘れてしまったかのように、当時のこ
  とを口にする人はほとんどいなくなってい
  た。
  モーリー邸の門は閉めきられたままで、手
  入れをする人を無くした庭は草が生え放題
  になっている。その奥に、奥さんが育てて
  いたあの紫陽花。
  あの頃とはぜんぜん違う花のように、くす
  んだ青色の花びらは元気がなくこじんまり
  としていて、まるで奥さんの帰りを待ちわ
  びているように見えた。

  「お花に興味がおあり?」
  ご夫人と最初に会話したときのことを憶え
  ている。思い出すだけで今でも胸が高鳴っ
  てしまう。
  赤い紫陽花があまりに綺麗で、間近に寄っ
  て覗き込んでいたとき、突然後ろから声を
  掛けられて飛び上がった。
  「すみません!お庭に入り込んでしまって
  」
  奥さんは穏やかに笑って白い歯を見せた。
  「いいのよ。それより、可愛らしいでしょ
  、この紫陽花たち」
  「はい、とても…」
  初夏の朝日をいっぱいに浴びながら精一杯
  咲き誇る紫陽花を眺めて、彼女は得意気に
  話し出した。
  「ここまでに育てるにはちゃんと面倒を見
  てあげないとなの。少しでも手入れを怠け
  ると、この子たちきっと拗ねちゃうのね、
  すぐに萎れて色も変わっちゃうのよ」
  奥さんの白くて細い指先が、紫陽花の赤い
  花弁にそっと触れる。まるで愛しい我が子
  の頬を撫でるように。
  「お花も人と一緒。目を離してしまうと寂
  しがって思いきり咲けなくなる。
  見ていて欲しいし、たまには声もかけて欲
  しいのよね。可愛いね…って」
  そのときの彼女の物憂げな顔を、僕が見た
  のはこれきりだった。
  奥さんは我に返ったように僕に向き直ると
  、にこやかに、それでいてどこか僕を試す
  ように言った。
  「あなたに育てられるかな?紫陽花」
  
  奥さんはもういない。
  あの鮮やかで生き生きとした赤い紫陽花は
  もう見ることができない。

  仕事を終えた僕は、僕の住む安アパートの
  部屋でレターペーパーにペンを走らせてい
  た。
  何をどう書いたらいいのかわからなかった
  けれど、それに何の確証もなかったけれど
  、思い付くまま短い文を殴り書きして封筒
  に入れ切手を貼って街角のポストに投函し
  た。
  宛先は地元の警察署。
  
  難航していたモーリー夫人殺害事件の捜査
  が、一転して犯人逮捕に動いたのは夏を迎
  える7月の頭だった。
  きっかけは匿名からによる一通の手紙から
  だった。
  捜査本部の会見の場で、記者にせがまれる
  ようにして、警察はその内容を公表した。
  『邸宅の庭の、紫陽花の根本を調べてくだ
  さい』
  ただその一文だけだった。
  凶器とみられるブッチャーナイフが発見さ
  れたのは、この手紙の通り紫陽花が植えて
  ある土のなかからだった。
  さらにそのナイフには夫人の血痕と、この
  邸宅の主人で夫人の夫であるアルフレッド
  ・モーリーの指紋が浮かび上がった。
  
  証言台に立つ彼の発言を、メディアはこぞ
  って大きく取り上げた。
  あまりにも利己的で一人よがりな言葉の羅
  列が、視聴者の怒りを煽ったからだ。
  「彼女のような美しい女性をどうして手放
  せようものか。そばにいて変わらずにそこ
  にいて欲しかっただけなのだ!」

  朝の配達が終わり帰宅した僕には日課があ
  った。
  それは、モーリー夫人から株を分けてもら
  った紫陽花に水をやることだ。
  でも、僕の紫陽花は一向に赤くはならない
  。
  毎日こうして水をやって、可愛いねって声
  をかけているのに、ずっと青いまま。
  それでも、いいんだ、これで。
  これが僕の紫陽花。
  奥さんのそれのように、赤く大きく立派な
  紫陽花ではないけれど、それでもちゃんと
  一生懸命咲いている。
  小さくても、僕らしい紫陽花。
  来年も、これからもずっと、綺麗に咲かせ
  てね。
  僕は指先で、紫陽花の植わっているブリキ
  の鉢植えを『コン』とはじいた。


  #003

6/14/2024, 3:30:59 PM