『どうして』
どうして、という視点が人生には必要だと、常日頃から私は思っている。
なぜなら、私の周囲には理解不能な言動をする人が多いからである。どうして、の視点を持たなければ、人を変人や低能という言葉で簡単に切り捨ててしまうことになりかねないのだ。
ある後輩の話をしよう。彼は目上の人に無理難題を吹っかけて、困らせる。その無理難題とは、例えば「免許なしで運転して」、「線路に寝転んで」、「切符持たずに改札通って」等々、とにかく無茶苦茶である。傍で聞いている私としても、ヒヤヒヤするし、できたらやめてほしいと思うのだが、彼はやめるどころか却って言動をエスカレートさせていく。
そこで、どうして、である。
彼はどうして、無意味で阿呆な発言を繰り返し、人を困らせるのか。
実は、彼は周囲に気を遣っている。周りの人たちを和ませたい、笑顔にさせたい、そういった一心で、自分の評価が落ちることも気にせず、つまらない冗談を口にし続けているのだ。
そのように考えると、不思議と彼のことが愛おしく感じられる。不器用な彼なりに、周りのことを考えてくれているのだと。まあ、そのやり方は私から見ればやはり、常識外れでズレているのだが。
どうして、という視点を持つことは、人に対して悪意を持ちやすい私の心の幅を、こんなふうに少しだけ広げてくれる。つまり、考えに余裕を持たせてくれるのである。
とは言っても、どうして、の視点だけでは到底理解できないレベルの人間もいる。
まだまだ私も修行中だ。
『失われた響き』
「芳沢さん」
ハスキーな声でたどたどしく名前を呼ばれ、私は顔を上げた。相手の顔を見る前から既に、それが誰なのかはわかっていた。
「倫子さん。どうしたんですか?」
尋ねた私に、相手は一瞬臆したような微妙な笑みを浮かべた。嬉しくもないのに笑顔を作るのは彼女の悪い癖だと、私は常日頃から感じている。
精神科デイケアの昼休みは、ひどく騒がしい。近くの席で老齢の男性メンバーが、新入りの女性メンバーに難癖をつけている。挨拶の仕方がなっていないだの、服装の趣味が悪いだの、言いたい放題だ。他人の声を悉く拾ってしまう、厄介な耳の持ち主である私にとって、ここで会話をすることは苦行に近かった。
「私、芳沢さんが弾いてるピアノの音が好きで……」
倫子さんの声は、すぐに掻き消された。知的障害のある中年の男性メンバーが、老齢の男性メンバーに食ってかかったのだ。
「おい。そんな言い方はないだろ。自分の意見を勝手に押しつけて」
「だったらお前が、この子の話し相手にでも何でもなればいいだろう」
「頭テカってるくせに」
「何だと!」
耐えられない。私は静かに立ち上がり、倫子さんのどこか幼いような顔を直視した。
「ここはちょっとうるさいから、廊下で話しましょう」
倫子さんに微笑みかけ、廊下に出る。背後で、口喧嘩する二人の声がみっともなく響いた。
「どんな格好しようが、自由だろ!」
「だから、お前がそういう女を追っかけりゃいいだろう。口もろくに回らねえくせに、正義漢ぶってウロウロするんじゃねえ!」
「言ったな!」
ホールの外に出たことで、喧騒は幾分和らいだ。私は倫子さんに向き直り、ありがとうと言う。玄関の方から射し込んでくる陽光が少し眩しくて、私が目を細めると、倫子さんはまた、ぎこちなく微笑んだ。
「私、こんなだから。上手く表現できないんだけど。芳沢さんの弾くピアノの音は輝いてる。私の、人真似の作品とは違って」
「倫子さんの作品だって、充分に素敵ですよ。根気強くなかったら、あんなに細かい絵は描けないし。それに倫子さんの優しさが、色鉛筆のタッチに出てる気がします」
私にはそれがない。口に出そうとして、寸前で思いとどまった。倫子さんの中にある私のイメージを、私が自分で壊すことはない。
昔弾いていた、クラシックの曲を脳内に蘇らせてみる。ピアノの教師にあの頃よく指摘されていたことまでもが、鮮烈に蘇った。
「音に、響きがないの。まるで、自由になれる可能性を自分から抑えつけて、ぐちゃぐちゃに潰してしまっているみたいに」
「え?」
無意識に声を出していたようで、不思議そうに小首を傾げた倫子さんと目が合う。
「何でもないです。ただの独り言」
取り繕うように言って、私はホールの入口に視線を移した。看護師の神崎さんが喧嘩の仲裁に入ったようで、男性二人の喧嘩は一応収まっていた。
あなたのピアノの音は死んでる。
あの日、ピアノ教師は無表情で告げ、その日のレッスンを終わりにした。
当たり前だ。両親と喧嘩するのが怖くて、自分を殺している哀れな臆病者に、自由なピアノなど弾けるわけがない。あの頃の私にとって、自由な音楽とは、海中の月のように実体がない、決して手に入らないようなものだったのだ。
「難しいですよね、音楽って。きちんとやるのも、自由にやるのも」
私は呟いて、倫子さんに再び微笑んだ。
『言葉にならないもの』
今日も咲乃の様子に変化はなかった。
僕たち以外誰もいない面会室は、真夏の強い光が射し込んでいて、暑い上に空気も淀んでいる。
僕は日常の何気ない話をしながら、咲乃の様子に変わった所がないかどうか、何度も確認していた。
単に希望を持ちたいだけなのかもしれない。咲乃が、大切な妹がもう一度笑ってくれるのを、期待しているだけなのかもしれない。薄く靄のかかったような咲乃の表情が少しでも輝くことを願いながら、僕は話を続けていた。
腕時計に視線を落とす。面会終了の時刻まであと五分となった所で、僕は再び咲乃に視線を向けた。
「また来るから。ほしいものがあったら、遠慮なく言えよ。咲乃が元気になるのを、みんな待ってるんだからな」
できる限り優しい表情を顔面に張りつけ、僕は席を立った。
病院を出るまでは何とか保った。しかし、病院前の道から最初の角を一つ曲がった所で、僕の理性は一ミリ四方ずつ崩れていった。数分後、僕は情けないほどにボロボロと涙をこぼしながら、洟を啜って歩いていた。
のろのろと駅の改札を抜け、自宅方面へ向かう電車に乗る。電車は混んでいたけれど、誰も彼もが他人のことには無関心で、それが今の僕には有り難かった。こんな惨めな気持ちでいる時に、優しく声をかけられたり世話を焼かれたりしたら、僕はその相手を突き飛ばして怪我をさせてしまっていたと思う。
誰もが見て見ぬふりの車内で手すりにもたれ、僕は咲乃のことを考えた。
きっと、咲乃は喋れないわけじゃない。
言葉にならないものが溢れてしまって、このままでは内側から壊れてしまうから、心に鍵をかけて高いガラスの壁を築き続けているのだ。
決して、空蝉のように虚ろになってしまっているわけではなく……
降りる駅が近づき、駅名を告げるアナウンスが響く。僕は泣き顔を見られないように、俯いて電車を降りた。
駅を出てから五分も歩いていなかったと思う。
不意に後ろから声をかけられた。
「待って」
同時に、誰かが軽く右肩に触れた。
振り向くと、中年の女性が目の前に立っていた。どこかで会った顔だけれど思い出せない。元から、人の顔をあまりよく記憶していないし、ここ一年ほどは咲乃のこともあり、頻繁に変わる人間関係に疲れていた。
「急に呼び止めたりして、ごめんね。私はアトリエ画研の小田温子といいます。私のこと、覚えてるかな? 今年の春頃、アトリエの方でお会いしたんだけど。アール・ブリュットの展示に来てくれてたよね」
アール・ブリュットと聞いて、唐突に記憶のネジが巻き戻された。確か、あの強烈な絵の作者について解説してくれた人だ。
「思い出しました。すみません。あれから色々な人に出会ったので、何だか顔と名前が混乱してしまって」
僕がみっともなく言い訳をすると、小田さんは大きく口角を上げて言った。
「相原さんと同じことを言うのね」
「相原さん?」
また知らない名前が出た。
きっと、僕は目を白黒させていたのだろう。小田さんは豪快に笑い、僕の両肩に手を置いた。
「あの絵の作者よ。人の顔と名前を覚えるのがゆっくりな人でね。君も、もしかしたら同じなのかな?」
疲れていた。愛想笑いをする気力もないくらいに、疲れ果てていた。言葉にならないものを無理に理解しようとし続け、言葉の限界にぶち当たり、どうしたらいいのかもわからずに悩んでいた。
「以前会った時にはあまり思わなかったんだけど」
小田さんは僕の顔をしげしげと見て、それから何かを確信したように、うん、と小さく頷いた。
「君はひどく疲れて、やつれてるみたいね」
感情の消えた咲乃の顔を思い出す。強い精神安定剤を投与されているためもあるだろうが、それ以上に、咲乃の中にあるガラスの壁が全てを拒絶している。
「人の感情とか、言葉の限界とか。そういうものがわからなくなったんです」
言葉にすると、余計に思考が複雑さを増していく。どんどん深い所へ迷い込んでいく自分を自覚し、でも正しい答えなど見つけられず、僕は呻いた。新しい涙が一滴、乾きかけた瞼から流れ落ちた。
「妹が、失恋のショックで、心の病気になってしまって。僕は、何て言ったらいいのか、わからなくて。たくさん勉強してきたのに、何も役に立たなかった。言葉をいくら学んでも、妹には何一つ気の利いたことを、言ってあげられない」
もう止められなかった。感情が溢れ出し、僕は子供のように泣いた。
小田さんは何も言わず、そこにいた。僕には、そんな小田さんが大きくどっしりした壁のように感じられた。
『タイミング』
最悪のタイミングで、模試の結果が出た。
私が通う予備校では、模試で高成績を収めた上位二十名までの名前がエントランスに張り出される。
私の名前はそこにはなかった。上位に入るのは大概、近くの有名進学校に通う人たちばかりで、私のような公立校の生徒が入り込む隙間はほとんどない。
上位者の名前を一つ一つ確認する。昨年の冬まで一位の座を独占していた男子の名前が圏外に消えているのを、私は少しだけ安堵した気分で眺めた。
あの男子は内堀陽久という名前だった。特に発言することもなく黙々と授業に集中していた、地味でどこか陰のある後ろ姿が、同級生の野木真美子と重なり、私は彼の姿を見るたびに苛々していた。
いけ好かない奴。何があったか知らないけれど、脱落してくれて清々した。
私は上位者の張り紙をもう一度ざらりと眺め、踵を返して講義室へ向かった。
「千砂。模試の順位、どうだった?」
友人の香織が、嫌なタイミングで声をかけてくる。知ってるくせに。舌打ちしたくなるのを抑え、私は作り物の笑みを向ける。
「まあまあかな。上位には入れなかったけど」
香織はマイペースな性格だ。自分のタイミングで、相手の気持ちも考えずにものを言う所が、こんな日は特に癇に障る。
「そうそう。去年まで万年一位だった内堀くんのことなんだけど」
突然、嫌な話題を振られ、私は何も飲んでいないのにむせ返った。
「何で急にあの男の話を?」
「いやぁ、彼の近況を知りたくないかなって思ったからさ」
目を白黒させている私を軽く見やると、香織はこちらが知りたいとも言っていないのに、勝手に話し始めた。
「あたし、学校の友達から聞いたんだけど。内堀くんの妹さんが、引きこもりの末に精神病院に入院しちゃったらしくてさ。内堀くん、予備校どころじゃなくなって、今は学校と妹さんの病院を行き来してるらしいよ。四月の終わり頃だったか、見かけた子がいるんだけど、内堀くんは泣き腫らした顔で街を歩いてたって」
少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
同時に、能天気な顔で話を続ける香織のことを憎らしいと思った。内堀と同じ有名進学校に通い、今回の模試でも五位に入っていた香織のことを。
後ろから、同じ学校の尾崎が唐突に背中をつついた。
「高山。何で固まってんの? 下痢でもした?」
こいつも最低なタイミングで下品な話をする、嫌な奴だ。私は振り返り、尾崎を睨んだ。
「人間ってものがわからなくなる時が、私にだってあるんだよ」
何だかわからないが、今日は最悪な日だ。絶妙なタイミングで、ひどく嫌なことが起きる。
『虹のはじまりを探して』
「君は、虹の始まりを探したことがあるか?」
目の前に座っている自称、祓い屋は僕に人差し指を突きつけ、鋭く言った。突然のことに、僕は文字通りぽかんと口を開け、祓い屋を見た。
「意図的に路地の突き当たりに迷い込んだことはあるか? 誰も近寄らない森の中の廃屋を探険したことは? 当たらないとわかっている占い師の言うことに盲目的に従ってみたことは? 若しくは……」
「ああ……もうやめて下さい!」
延々と続く、わけのわからない問いかけに痺れを切らした僕は、思わず大声で叫んだ。先ほどから頭の奥が、石でも詰め込まれたように重く、微かな熱を持っている。
「あなたは一体、何が言いたいんですか? 僕が冒険心を失っているとでも指摘するつもりですか?」
祓い屋は、整った顔で僕を見返すと、形のよい唇の右端だけを器用に歪め、ふん、と鼻で笑った。僕よりずっと年下のくせに。馬鹿にされたように感じた僕は、迫り上がってくる怒りをどうにか堪え、冷静を装って対話を再開した。
「依頼を受けて下さらないというのなら、僕はこれで失礼します。記憶の混乱については、専門家の診断を受けるということで……」
「待て」
僕が立ち上がろうとするのを、祓い屋は制した。やや潤んだ真っ黒な双眸が、直線的な光を放ちながら僕を捉えている。
「話はまだ終わっていない。さっきの言葉は、君が脇道に逸れる余裕を失っているという、単なる比喩だ。真っ直ぐに進みすぎる人間は、脇道に逸れてばかりの人間と同じくらい、魔の領域に囚われやすいものだからな」
「僕が、魔の領域に?」
「君も本当は気づいているはずだ。消えた彼女の記憶、思い出せない名前、壊れた鳥かご、そして耳にこびりついた母親の声。これらは全て、魔の領域に関連しているんだ。このまま事が進めば、いずれ君も魔の領域に吸収されてしまう」
名前を思い出せない彼女の声が、急に耳に蘇った。僕はゆっくりと、その声を味わう。涼しげで、しかし決して冷たくはない彼女の声を。
「本多徹。私と一緒に、虹の始まりを探してみないか?」
僕の名前を呼び捨てにして、祓い屋は無邪気に笑った。きっと、これが祓い屋の本来の顔なのだろう。何しろ、今目の前で僕の依頼に応えようとしてくれているのは、ブレザーの制服を着た女子高校生なのだから。
「依頼を受けて下さるんですか?」
僕が尋ねると、祓い屋は笑顔を仕舞い込んだように、真面目な顔になった。
「死んだ両親の教えだ。困っている人間には必ず手を貸す。それが私、権藤美影の信念でもある」
権藤美影は、背中まである長い黒髪をさらりと揺らして立ち上がり、僕が座るソファを回り込んで、足早に部屋のドアへと向かった。
「行くぞ。早くしないと、虹はすぐに消えてしまう。まずは虹の根本を捕まえるんだ」
急かされるように、僕も部屋を出る。権藤美影の綺麗な髪が、花のような香りを撒き散らしながら、前へ前へと進んでいた。