七星

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『失われた響き』


「芳沢さん」

ハスキーな声でたどたどしく名前を呼ばれ、私は顔を上げた。相手の顔を見る前から既に、それが誰なのかはわかっていた。

「倫子さん。どうしたんですか?」

尋ねた私に、相手は一瞬臆したような微妙な笑みを浮かべた。嬉しくもないのに笑顔を作るのは彼女の悪い癖だと、私は常日頃から感じている。

精神科デイケアの昼休みは、ひどく騒がしい。近くの席で老齢の男性メンバーが、新入りの女性メンバーに難癖をつけている。挨拶の仕方がなっていないだの、服装の趣味が悪いだの、言いたい放題だ。他人の声を悉く拾ってしまう、厄介な耳の持ち主である私にとって、ここで会話をすることは苦行に近かった。

「私、芳沢さんが弾いてるピアノの音が好きで……」

倫子さんの声は、すぐに掻き消された。知的障害のある中年の男性メンバーが、老齢の男性メンバーに食ってかかったのだ。

「おい。そんな言い方はないだろ。自分の意見を勝手に押しつけて」
「だったらお前が、この子の話し相手にでも何でもなればいいだろう」
「頭テカってるくせに」
「何だと!」

耐えられない。私は静かに立ち上がり、倫子さんのどこか幼いような顔を直視した。

「ここはちょっとうるさいから、廊下で話しましょう」

倫子さんに微笑みかけ、廊下に出る。背後で、口喧嘩する二人の声がみっともなく響いた。

「どんな格好しようが、自由だろ!」
「だから、お前がそういう女を追っかけりゃいいだろう。口もろくに回らねえくせに、正義漢ぶってウロウロするんじゃねえ!」
「言ったな!」

ホールの外に出たことで、喧騒は幾分和らいだ。私は倫子さんに向き直り、ありがとうと言う。玄関の方から射し込んでくる陽光が少し眩しくて、私が目を細めると、倫子さんはまた、ぎこちなく微笑んだ。

「私、こんなだから。上手く表現できないんだけど。芳沢さんの弾くピアノの音は輝いてる。私の、人真似の作品とは違って」

「倫子さんの作品だって、充分に素敵ですよ。根気強くなかったら、あんなに細かい絵は描けないし。それに倫子さんの優しさが、色鉛筆のタッチに出てる気がします」

私にはそれがない。口に出そうとして、寸前で思いとどまった。倫子さんの中にある私のイメージを、私が自分で壊すことはない。

昔弾いていた、クラシックの曲を脳内に蘇らせてみる。ピアノの教師にあの頃よく指摘されていたことまでもが、鮮烈に蘇った。

「音に、響きがないの。まるで、自由になれる可能性を自分から抑えつけて、ぐちゃぐちゃに潰してしまっているみたいに」

「え?」

無意識に声を出していたようで、不思議そうに小首を傾げた倫子さんと目が合う。

「何でもないです。ただの独り言」

取り繕うように言って、私はホールの入口に視線を移した。看護師の神崎さんが喧嘩の仲裁に入ったようで、男性二人の喧嘩は一応収まっていた。

あなたのピアノの音は死んでる。

あの日、ピアノ教師は無表情で告げ、その日のレッスンを終わりにした。

当たり前だ。両親と喧嘩するのが怖くて、自分を殺している哀れな臆病者に、自由なピアノなど弾けるわけがない。あの頃の私にとって、自由な音楽とは、海中の月のように実体がない、決して手に入らないようなものだったのだ。

「難しいですよね、音楽って。きちんとやるのも、自由にやるのも」

私は呟いて、倫子さんに再び微笑んだ。

 
 

11/29/2025, 12:15:20 PM