七星

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『言葉にならないもの』

今日も咲乃の様子に変化はなかった。

僕たち以外誰もいない面会室は、真夏の強い光が射し込んでいて、暑い上に空気も淀んでいる。

僕は日常の何気ない話をしながら、咲乃の様子に変わった所がないかどうか、何度も確認していた。

単に希望を持ちたいだけなのかもしれない。咲乃が、大切な妹がもう一度笑ってくれるのを、期待しているだけなのかもしれない。薄く靄のかかったような咲乃の表情が少しでも輝くことを願いながら、僕は話を続けていた。

腕時計に視線を落とす。面会終了の時刻まであと五分となった所で、僕は再び咲乃に視線を向けた。

「また来るから。ほしいものがあったら、遠慮なく言えよ。咲乃が元気になるのを、みんな待ってるんだからな」

できる限り優しい表情を顔面に張りつけ、僕は席を立った。

病院を出るまでは何とか保った。しかし、病院前の道から最初の角を一つ曲がった所で、僕の理性は一ミリ四方ずつ崩れていった。数分後、僕は情けないほどにボロボロと涙をこぼしながら、洟を啜って歩いていた。

のろのろと駅の改札を抜け、自宅方面へ向かう電車に乗る。電車は混んでいたけれど、誰も彼もが他人のことには無関心で、それが今の僕には有り難かった。こんな惨めな気持ちでいる時に、優しく声をかけられたり世話を焼かれたりしたら、僕はその相手を突き飛ばして怪我をさせてしまっていたと思う。

誰もが見て見ぬふりの車内で手すりにもたれ、僕は咲乃のことを考えた。

きっと、咲乃は喋れないわけじゃない。

言葉にならないものが溢れてしまって、このままでは内側から壊れてしまうから、心に鍵をかけて高いガラスの壁を築き続けているのだ。

決して、空蝉のように虚ろになってしまっているわけではなく……

降りる駅が近づき、駅名を告げるアナウンスが響く。僕は泣き顔を見られないように、俯いて電車を降りた。

駅を出てから五分も歩いていなかったと思う。

不意に後ろから声をかけられた。
「待って」
同時に、誰かが軽く右肩に触れた。

振り向くと、中年の女性が目の前に立っていた。どこかで会った顔だけれど思い出せない。元から、人の顔をあまりよく記憶していないし、ここ一年ほどは咲乃のこともあり、頻繁に変わる人間関係に疲れていた。

「急に呼び止めたりして、ごめんね。私はアトリエ画研の小田温子といいます。私のこと、覚えてるかな? 今年の春頃、アトリエの方でお会いしたんだけど。アール・ブリュットの展示に来てくれてたよね」

アール・ブリュットと聞いて、唐突に記憶のネジが巻き戻された。確か、あの強烈な絵の作者について解説してくれた人だ。

「思い出しました。すみません。あれから色々な人に出会ったので、何だか顔と名前が混乱してしまって」

僕がみっともなく言い訳をすると、小田さんは大きく口角を上げて言った。

「相原さんと同じことを言うのね」
「相原さん?」

また知らない名前が出た。

きっと、僕は目を白黒させていたのだろう。小田さんは豪快に笑い、僕の両肩に手を置いた。

「あの絵の作者よ。人の顔と名前を覚えるのがゆっくりな人でね。君も、もしかしたら同じなのかな?」

疲れていた。愛想笑いをする気力もないくらいに、疲れ果てていた。言葉にならないものを無理に理解しようとし続け、言葉の限界にぶち当たり、どうしたらいいのかもわからずに悩んでいた。

「以前会った時にはあまり思わなかったんだけど」

小田さんは僕の顔をしげしげと見て、それから何かを確信したように、うん、と小さく頷いた。

「君はひどく疲れて、やつれてるみたいね」

感情の消えた咲乃の顔を思い出す。強い精神安定剤を投与されているためもあるだろうが、それ以上に、咲乃の中にあるガラスの壁が全てを拒絶している。

「人の感情とか、言葉の限界とか。そういうものがわからなくなったんです」

言葉にすると、余計に思考が複雑さを増していく。どんどん深い所へ迷い込んでいく自分を自覚し、でも正しい答えなど見つけられず、僕は呻いた。新しい涙が一滴、乾きかけた瞼から流れ落ちた。

「妹が、失恋のショックで、心の病気になってしまって。僕は、何て言ったらいいのか、わからなくて。たくさん勉強してきたのに、何も役に立たなかった。言葉をいくら学んでも、妹には何一つ気の利いたことを、言ってあげられない」

もう止められなかった。感情が溢れ出し、僕は子供のように泣いた。

小田さんは何も言わず、そこにいた。僕には、そんな小田さんが大きくどっしりした壁のように感じられた。
 
 

8/13/2025, 1:24:43 PM