夜の国を、蜜色に輝くゴンドラが行く。
ゴンドラの中では乙女がふたり、光を纏う長い髪のなかに寝転び、手元に視線を注いでいた。
「ねえ、最近前より墜ちる星が多いと思わない?」
「地上が明るくなったからよ、きっと。目が眩んだのね」
黒々としたビロードには、いくつか小さな穴が見受けられる。彼女たちはその天幕から剥落した星の代わりに、模造品の硬玉を縫い留めていた。
「こんなこと続けていたら、いつかは全部がニセモノになっちゃうんだから」
「その頃には、わたしたちも解放されるでしょうから、そうしたらもっと広いところに行きましょう」
「そういえば、今ちょうど半分くらいかな?」
「そうね。これからもっと狭くなっていくのに、休みは月に一日だけなんて、ひどい話よね」
中天を超えて、ゴンドラは進む。
身を寄せ合いながら、夜空を繕う乙女を乗せて。半分ほどの広さになったゴンドラが、夜をゆるやかに滑り降りていく。
地上から見上げたなら、夜空に下弦の半月が光り、星も変わらず瞬いていることだろう。
(狭い部屋)
明日天気になあれ。
自分にしか聞こえない大きさで口ずさみながら、小さく弾みをつけて下駄を飛ばしたのは、今ので一体何回くらいかしら。
そんなことより、明日天気になれ。お願いよ、どうか。
私の願いを知らぬ大人たちが、垣根越しに話す声が風に乗って、無情にも切なる祈りの庭にまで届く。
──嫌になるわね、明日は雨降りですって。
──本当に。でもここのところ、日照り続きだったから、いいのではなくて?
ちっとも良くないわ。雨など降らないで。明日だけは。明日天気になあれ。ほら、下駄は晴れると言っている。
(姉さま、こわいよ)
弟のか細い声が耳元に蘇り、思わず両手を胸の前で組み合わせた。
(大丈夫、姉さまがずっとついていてあげますからね。ほら、紙飛行機を折ってあげましょう。何色がいいの?)
大丈夫、大丈夫よ。
カサ、と胸の奥で乾いた音が悲痛な声を上げた気がした。
そこに仕舞ったのは、枕元で折った紙飛行機。天まで届けと願いをこめて折った、晴れた空の色をした、夢のひとひら。最後の夕方。
明日晴れたら、一緒に飛ばしましょう、と約束したものね。
あした、明日、あなたは白い灰になって、それから煙にもなって、高くお空に昇るのよ。もうお布団にいなくていいのよ、良かったわねえ。
だから、姉さま祈るわね。どうか明日は晴れて、あなたが青空を見れますようにと。
明日天気になあれ。
明日天気になあれ。
明日天気になあれ。
嗚呼、でもね。姉さま本当は、天気なんてどうでもいいわ。晴れでも雨でも嵐でも、なんでもいいから、もう一度あなたと一緒にお外を走り回って遊びたかった。だけど、それは永遠に叶わなくなってしまったから、せめて、晴れた空くらい見せてあげたいのよ。
明日
天気に
なあれ。
(天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、)
──彼の有名な文豪が愛の告白を「月が綺麗ですね」と訳したお話は、ご存知でしょう?
──私? 私だったら、そうはしないかしら。
──なぜって、雲に覆われたくらいで隠れるような気持ちなら、そもそも伝えようと思わないもの。それに満ち欠けする月を持ち出すなんて、不実な娘だと思われてしまうじゃない。
──日本人なら、というお話だというのはもちろん承知の上で言ってるのよ。けれどね、私なら、もっとはっきり云うわ。あなたにはもう、お分かりなんじゃない?
──まあ、意地悪なひと。いいわ、言って差し上げる。今のあなた、月さえ霞むほどに、何よりも誰よりもいちばん綺麗よ。
(月に願いを)
足元で跳ねる水音と、傘の表面ではじける水音、そのどちらも違ってどちらも好きだ。多くの人が顔を曇らせる中、機嫌良くバイト帰りの道を歩いていた私は、家のすぐそばの道で、突如、奇跡に出くわした。
その奇跡は、小さな女の子のかたちをしていた。びしょ濡れで地面に倒れている姿は、絡みつく長い髪も相まって、さながら打ち上げられた人魚を思わせる。
それどころではない、としゃがみこんで、数回そっと肩を揺すってみた。反応はない。だが、弱々しくも生きているぬくもりを感じた。
救急車、と思ったが、身元も分からない以上、まずは親御さんを探すほうが先だろうと、抱き上げようとしたとき、女の子が目を覚ました。
それはまさに真珠のような瞳だった。虹色に光る不思議な色に見惚れていると、作り物のように小さなくちびるが動き、なにかを喋ろうとしているので、咄嗟に耳を近付ける。
「あなた、だあれ?」
たしかにそう聞こえた。喋れるのか、と当たり前のことに感嘆したのは、彼女があまりにも、非現実的な美しさを備えていたせいかもしれない。
「だあれ?」
「あ、ごめんね。私は希子、あなたは?」
「きこ、きこ。あたし、なまえ、わからない」
「おうちは?大人の人と一緒じゃないの?」
「おとうさま、おしごとしてる」
「お父さんはどこでお仕事してるの?」
「……とおく」
さて困った。けれど、とりあえず風邪を引かせないためにも、ここから動かなくては。
「あとで交番に一緒に行こう。でもそのまえに、うちで身体をあっためていって?」
「こうばん?」
「もしかしたら、お父さんがあなたを探しているかもしれないからね」
黙って俯いた彼女の長い睫毛から、雨粒だろう雫がひと粒落ちる。しっかりと手を繋いで傘を傾けながら、そこからほど近い、独り暮らしのアパートへと向かった。
部屋についてからすぐに暖房をつけ、お風呂にいれてあげると、女の子は時折身体を強張らせながらも、終始大人しかった。
私の部屋着のTシャツをワンピースのように纏った女の子に、ホットミルクを手渡してやる。本当はココアなんかがあれば良かったのだけれど、あいにくうちにはコーヒーと緑茶しか無い。
天地を縫い合わせるかのごとく降りしきる雨を、ベランダの窓に向かって座った女の子の隣に腰を下ろして、同じようにぼんやりと眺めた。
「きこ、あめ、こまる?」
「ううん。私、雨好きだから。少しなら、嬉しくなっちゃう」
「そう……。きこ、おとうさまがあたしをさがしてるから、かえるね」
「え、帰れるの? お父さんはお仕事なんでしょう?」
「うん、でも、かえるね。ありがと、きこ。あたしがおとなになったら、またあいにくるね」
待って、と言おうとした声は言葉にならず、中途半端に伸ばした手は、直後視界を灼いた閃光の中で彷徨っただけだった。
ひどく長い時間が経ったように思いながら、おそるおそる開けた目が捉えたのは、窓の向こうを稲光が白く幾筋も走るさまで、あの光は稲妻だったのだろうか、と何気なく隣を見下ろすと、そこにはなぜか私のマグカップが置いてあった。触れると、まだ少し暖かい。白い中身はミルクだろうか? なぜ?
首を傾げているうちに、雨は小降りになっていたらしく、光の中にうっすらと虹がかかっていた。たしかに私物でありながら、なぜミルクなどが入っていたのか分からないままのマグカップを洗う。その間、冷たい風が通り抜けていくような、不可思議な孤独感が胸を満たしていた。
***
雨音に、夢から這い上がる。
目に映るのは、見慣れた病室、点滴、古枝のように干からびた私の腕。夢の中の私はまだ若かった。
ベッドから窓に視線をうつすと、やはり雨が降っている。いつから降っていたのか。
再び目を閉じようとしたとき、ガラリと、開くはずのない窓が開く音が響きわたった。
「きこ、お久しぶりね」
空気が、美しい乙女の姿に結晶していた。
波打つ髪は床にひろがるほど長く、そよ風をうけているかのように軽やかに揺れている。なにより、その大きな真珠のような瞳を知っている、と思った。
「……これは夢の続き?」
「いいえ、きこ。わたしはここに居る。大人になったら会いに行くって言ったでしょう?」
「そう、あれは本当の出来事だったの」
「あのときは、きちんとしたお礼が言えなくてごめんなさい」
ふわり、と花笑みを浮かべる彼女は、すっかり美しい乙女。だけども、私は。
「ごめんね、私ばかりこんなおばあちゃんになっちゃって、びっくりしたよね」
「いいえ、きこは変わらないわ。信じられないのなら、わたしの手を取って、さあ」
細くしなやかな手が伸ばされ、なにも考えずに言われた通りにすると、身体が浮き上がりそうに軽くなった。というか、実際足元は浮いている。
「ほら、見て、きこ」
彼女が差し出した手鏡に映るのは、先程の夢の中のような若い私。見れば、乾いていた手も、嘘のように瑞々しさを取り戻している。
「あなた、天使だったの?」
「いいえ、違うわ。それより、お話はうちでしましょう。お父様に頼んで、きこのためのパーティーの準備をしてあるの」
行きましょう、と世にも美しく微笑む彼女の手を握り返しながら、ふと振り返ってベッドを見ると、そこには歳を重ねた私が沈み込んでおり、眠っているようにしか見えなかった。
無性におかしくなって、ふふ、と小さく笑ってしまう。
「きこ、あの日のお礼よ、楽しみにしていてね」
「うん、こっちこそありがとう」
雨は、いまや金色の光となって、宙を舞う私たちふたりを、あたたかな繭のように包み込んでいた。
(いつまでも降り止まない、雨)
おじいさん、聞いてくださいな。
わたしはね、欲張り婆さんなんて呼ばれているけれど、おじいさんも知っての通り、そんなふうに生きたくはないんですよ。日々感謝をして、人様のご厚意も申し訳無く思いながら受け取っているくらいなんです。
それなのにね、あんまりじゃあありませんか。
お腹をすかせて米でできた糊を食べただけの雀さんの舌を、あろうことかハサミで切るなんて。それがわたしの役目だなんて、酷すぎるでしょう。あんなに可愛らしい雀さんの小さな舌を切るくらいなら、わたしは舌を噛んで自害してしまいたい思いですよ。
でもね、ちゃんと分かっていますよ。
わたしがその役目をまっとうしないことには、世に言う『舌切り雀』のお話にならないことも、ええ、分かっておりますとも。
だからね、わたしは明日も意地悪な欲張り婆さんとしてハサミを振るうし、重いつづらだって背負いましょう。
こうして毎日糊をこしらえるのだってね、本当はもう飽き飽き。だけど、これがわたしに与えられたお役目なんですから、まあ、やっていくしかありませんよねえ。
おじいさんも、舌を切られると知っていて、毎日雀さんを捕まえてくるのは、さぞやお辛いでしょう。分かりますよ、わたしには。
仕方ないことですものねえ。明日も頑張りましょうかね。
(逃れられない呪縛)