「や、また来たね」
――また?いや、俺はこんなところ知らない。……はずだ。
見覚えのない田んぼの畦道に、知らない女。初めて訪れた場所のはずなのに、どこか既視感があって、喉に小骨が詰まったみたいな違和感を感じる。
「やっぱり覚えてないか。いや、別にいいんだけどね?ただこうも毎回"はじめまして"をすると嫌になるよ。ボクじゃなきゃとっくに愛想尽かしてるよ?」
――おまえは、誰だ?
言葉を放とうとする。その時、気付いた。言葉が出ない。口が動かない。いや、口だけではない。腕も、足も、首も、指の先ですら動かない。ゲームのイベントみたいに、強制的に停止させられているみたいだ。
「ああ、言葉が出ないのは心配しなくていいよ。ここはそういう場所なんだ。ボクには伝わってるからどんどん話そうとしておくれ」
――話そうとしてくれ、って言われても、何がなんだか。
俺のその言葉――実際は音になっていないわけだが――を聞いた女は楽しそうに笑っている。けれど、その奥にすこし不満があるのに、気付いた。まだ何か話せというのだろうか。しかし、こんなわけもわからない空間で何を話せば。
――なあ、ここはどこなんだ。
なんとなく、それが一番いいような気がした。そして、その問いは女にとっても正解だったのだろう。今日一番の笑みを浮かべて、そして同時に寂しさも滲ませて、口を開いた。
「ここは、――――――」
急に耳が聞こえなくなったみたいに、女の声がぷつんと途切れた。
世界が歪みだす。畦道はぐにゃぐにゃに曲がり、遠くに見えていた山は踊っているように弾んでいる。
唯一、女だけがまともな状態でそこに立っている。寂しそうな顔をして、後ろに手を組んで立っている。
「お前はっ、」
初めて、声が出た。自分の声ってこんなんだったか、とすこし的はずれな感想が浮かぶ。言葉を続けようとする。だが、出ない。あと少し。あと少し力を入れれば出るだろうに、その力が入らない。足掻くおれを見て、嬉しそうに少女は笑った。
――ボクを……わたしを見つけて。夢と現実の狭間。そこにわたしはいる、から……!
世界が歪む。なぜだか、彼女をこのままにしてはいけない気がした。手を伸ばす。けれど、その手が届くよりも先に、世界はおれを巻き込んで歪み、そして――
ジリリリリリ、と不快な音が流れる。受験期に部屋にスマホを起きたくないから、という理由で買った目覚ましだが、寝起きから不快になるのは如何なものか。そういうものだから仕方がないのだけれども。
テレビを付け、ぼーっとニュースを見ながらコーヒーを胃袋にいれる。トーストを齧る。
(そういや今日、一限からだっけか)
ありえない速度で目が覚めた。一限まで残り10分。今から急いで準備すればギリギリ間に合うだろう。とはいえいつも通りだと余裕で遅刻だ。爆速でコーヒーを流し込み、トーストは机の上に放置する。残りは昼に帰ってきて食べればいいだろう。急いで着替え、バッグを持ち、家を出る。俺は全力で大学に向けチャリを漕ぐのだった。
「はぁぁぁ……なんかいつもより疲れたな」
果たして、俺はなんとか一限に間に合った。大学近くのアパートを借りて本当に良かったと思う。
「随分とギリギリだったようで」
「うっせ、間に合ったからいいだろうが」
皆川瑞樹。大学からの友人で、大学デビューに失敗し若干浮いてた俺に話しかけてくれた陽キャだ。
からかうような口調で話しかけてきたから雑に返事をする。そこから次の講義までとりとめのない話をする。話があっちにいったりこっちにいったり、千鳥足だ。
「でさ、でけえ靴下が全速力でオレを追いかけて来たんだよ。マジで感動する夢だと思わん?」
「そりゃ全米がスタンディングオベーションするくらい感動的な夢だこと。金もらえるなら見ても良いね。
……そういや俺も今朝夢見たな。内容覚えてないんだけど、なんか大事な夢だった気がする」
「おお?夢に彼女でも出てきたか?流石にそれは引くぞ」
「黙れモテ男、非モテを舐めるな。そういうんじゃなくて、なんか、忘れちゃいけないような……」
「……そっか。オレは気にしないけど、そういうのは中学生までにしような」
「厨二病じゃねぇよ。あーもう、そろそろ講義始まんぞ」
ういうい、なんて返事を聞きながら、俺はルーズリーフを一枚取り出した。講義に集中は、出来なかった。
午後の講義も終わり、時刻はだいたい14時半。今日はこのあと講義もないし、なにをしようか。まっすぐ家に帰る気にもならなかったため、大学を出てダラダラ自転車を漕ぐ。目的地は特に決めていない。なんとなく、どこかに行ってみたかった。
しばらく走っているうちに、段々と田舎になってきた。1時間くらいは走っていただろうか。緑が増え、人工物は減ってくる。どこか、見覚えのある景色だった。
足は疲れていたし、帰りも考えるとそろそろ引き返したほうがいい時間だった。けれど、ここで引き返したら全てが台無しになる気がして、もう少しだけ進んでみる。
見覚えのある畦道だ。自転車を止め、畦道を歩く。歩き慣れていないため慎重に、しかし好奇心に従って少し急いで。
見たことのある山が、遠くに見えた。何故か、踊っているように跳ねている山の姿が、脳裏にちらりと映り込んだ。
「夢と、現実の狭間……」
ぽつり、と自らの意志とは関係なく、言葉が漏れた。
思い出した。あのイカれた夢を。悲しそうに、笑っていた少女を。
なんだ?あの少女はなんだ?ここはどこなんだ?なんで彼女は、ここにいた?見つけてって、どういう意味だ?
答えのない問いが、永遠と脳内を流れる。答えはわからない。ここを進んだって分かるのかもわからない。けれど、進まなければ何もわからない。
おれは畦道を一歩、強く踏みしめた。
――LGBTQに理解を。
どうやら今の社会のブームは"異端者"に慈悲をかけることらしい。とてもありがたいことだ。ありがた迷惑という言葉がこれ以上無くピッタリだ。
理解なんていらない。欲しいのは無関心だ。理解なんて、見下さなきゃ出てこない発想だ。異性が好きだというと関心を持つだけなのに、同性が好きというと憐憫を見せるのはなんでだ。それは理解から程遠いだろ。
――わたしの普通は普通じゃない。
小学生二年生の頃、親に好きな人がいると伝えた。同じクラスのミキちゃん。くりくりした目をしていて、いつも静かにニコニコと笑っている人だった。
あんた、ほんきで言ってるの。それ、おかしいよ。
実の親に、わたしの"普通"はいとも容易く否定された。幼いながらに、わたしは異端なんだ、と気付いた。
バイセクシュアル。男とか女とか関係なく、好きになる人は好きだった。でも、それを口に出すことはなかった。
「ちょいユキぃ、聞いてる?」
「聞いてるよ。酷い彼氏だったねぇ」
雪乃、という名前をちょっとだけ略したそのニックネームが彼女の口から聞こえる度に、小さく心臓が跳ねる。
今度の好きな人は、同性だった。それも彼氏に浮気されて傷心中の。
「ユキだけだよぉ、ウチに優しくしてくれるのは」
「よしよし。結菜はいい子だから、すぐにいい人見つかるって」
――結菜は男の人が好き。
だから、この思いは伝えられない。結菜は普通で、わたしはおかしいから。
ああ、ただ、願わくば。
この時間が終わりませんように。
ユキの手は優しい。嘘の彼氏のことを信じてくれて、なんの疑問も持たずにウチの頭を優しくなでてくれる。でも、それはどこまで行っても友達としてのものだ。熱を帯びていない、優しい手だ。
ユキの全部が欲しい。つい口にしたくなるけど、口にしたらきっと、この関係も終わってしまう。
ただ、この優しい、暖かな時間が。終わらせないで、なんて思うのは、勝手なんだろうか。
昨今の男女間というのは、どうにもフラットなものばかりが求められているような気もする。誰と話していたの、なんてほんの少しの嫉妬心を見せれば"束縛"などと言われ、手作りの、それも形に残るものを贈れば"重い"などと言われる。かつてはみんなの憧れであった手編みのセーターなんて贈れば立派な重力女の出来上がりだ。
今の彼氏は、嫌いではない。というか好きだ。でないと付き合ってられない。まあまあ長く続いていると言うことは、少なからず好きという気持ちがあることになる。少なくとも、私はそうだと思っている。
普段は大人しいけれど、ロマンチックな雰囲気になれば愛を囁いてくれる。人混みではぐれないように、自然と手を繋いでくれる。素っ気ない普段の態度が、ギャップになって、ますます好きになって目で追ってしまう。だから、気付いてしまう。
バレンタインデー、手作りのチョコを贈ったときは素直に喜んでくれた。誕生日、いつもより豪華な――といっても大学生に出来るくらいのだが――食事と、ペアブレスレットを贈ったときも、少し困惑しつつも喜んでくれた。クリスマス、手編みの手袋を贈った。彼は、一瞬戸惑いと、そしてほんの少しの嫌悪感を滲ませて、けれどそれを取り繕って喜んでくれた。
だから、気付いた。気付いてしまった。私は、他人から見れば重いんだなぁと。私の価値観は、今の社会にはそぐわないんだと。
だから、彼から別れようと告げられたとき、驚きは無かった。すとん、と胸の中に落ちた。彼は、どこまでも優しかったから「彩夏は悪くない、おれの問題なんだ」と言ってくれたけど、それは絶対私の問題だった。
それから、二人の男と付き合った。大学生なんてバカばっかりだ。ノリと勢いだけで生きてるから、直ぐに付き合って別れてをする。私はそんな馬鹿にはなるまいと思っていたけど、どうやらバカになっていたらしい。
二人には重い側面を見せないように、サバサバした、それでいてどこか可愛げのある女の子をしていた。けど、長続きはしなかった。直ぐに疲れてしまった。そして、私から振った。
「私、何が悪いんだろぉ。いいじゃんかぁちょっと位重くたって。大好きの裏返しだろー?」
「はいはい、彩夏はいい女よ。ていうか重いとか体軽い私への当てつけか?この隠れ巨乳め」
「そういう話じゃなぁい!」
クリスマスイブ。今年は彼氏もいないから、友達の茉優と宅飲みをしていた。最初は当たり障りのないくだらない会話。段々とプライベートな話。そして、いい感じに酔いも回ってきて、代わりに呂律は回らなくなってきた今、私は溜まりに溜まった鬱憤を茉優にぶつけていた。
「いいじゃん手編みのセーター贈ったってぇ。わぁしの作ったもの着ててほしい!重い女のほうが浮気しないし家事だって出来るいい女だもん!」
「そうねぇ、あと二十歳超えての『もん』はキツくない?」
私は下戸だ。そのくせ酒好きで、それでもって酔っていた時の記憶を完璧に覚えているのだから、次の日に悶えることも多かった。
だから、というわけではないが。この日の選択は、きっと酔っていたからだ。
「はい、そんな彩夏にプレゼント」
「ん?あぁ、ありがとぉ。……あっ、わらし何も用意してなくない?」
「私に聞かれたって分かんないわよ。それより、中身見て頂戴」
「ぁああぁ茉優ごめんねぇ、何も用意してないダメダメ女でぇ」
クソだるい絡みをしながら、覚束ない手付きで丁寧な包装を破かないように開けていく。……ちょっと破けたのは必要経費だ。
「んぁ?お洋服?」
「そ、いいでしょ」
「うん、ありがとおねぇ……これ、手編みぃ?」
「……そうよ」
酔っていたときの記憶が正しければ、その時茉優の顔は赤くなっていたと思う。多分、私の顔も、酔いなんかじゃ説明つかないくらい。
「ね、彩夏。プレゼント、彩夏も頂戴?」
「だからぁ、わたしは用意してなくってぇ」
「いいから、目を閉じて」
言われたとおりに目を閉じる。何をされるかは、何となく、いやはっきりとわかっていた。なのに、拒まなかった。
唇に、柔らかくて、熱くて、ほんのちょっぴりレモンサワーの味がする、なにかが触れた。
「ねえ、彩夏。なんだか、暑くなってきちゃった」
軽い男が言いそうな台詞を、重い女が言ってきた。なんだかおかしくて、少し笑いながら、二人して一枚一枚服を脱がせていった。二人の影が、一つに混ざり合っていった。
「はいこれ、クリスマスにプレゼントできなかったから、バレンタインにまとめてあげる」
「……クリスマスには彩夏の大事なモノ貰っちゃったケド」
「はいこれ、クリスマスにプレゼントできなかったから、バレンタインにまとめてあげる」
「……ああ、はい。これ、今開けちゃっていい?」
「ん、もちろん。早く開けちゃって」
「この激重女め」
「お互い様でしょ」
子どものころの夢は何だっただろうか。子どものころの宝物は何だっただろうか。
社会の荒波に揉まれ早12年、ふと、幼い頃のおれはこんなおれを夢見ていただろうかと思い、仕事を辞めた。親父は早くに死に、お袋は頭がおかしくなっちまって大学を卒業する頃には精神病院にぶち込まれた。ぶち込んだ。
おれ一人が辞めたところで誰の迷惑になるでもない。いや会社の迷惑にはなるかもしれんが20連勤を強いてくるようなクソ企業は迷惑をかけてナンボだろう。
と、言っても衝動的に辞めたものだから行く宛も無い。8年間で貯めた金はあるものの、働かなければ無くなるのは火を見るよりも明らかだ。
どうするか、と平日の昼間から公園のベンチにスーツで項垂れるおれはリストラされた人そのものだ。自分の意志で辞めたかどうかという差はあるが、そんなものを誇ったところで、だろう。
あることを思い出した。
今、唐突にだ。なんで思い出したのかは知らないしどうでもいい。けれど確かに思い出したことがある。
中学生の頃、まだ親父も生きていてお袋もイカれてなかったころ、近所の公園にタイムカプセルを埋めた。確か、二十年後の私へ、だったか。肝心の中身は覚えていないが、それだけは思い出した。
思い立ったが吉日、と言わんばかりにおれは立ち上がった。取り壊されたりしていなければ、あの公園は電車で1時間弱揺られる必要がある。手持ちの金も限られている。そんなくだらない事にかける時間も金もない。おれの冷静な部分はそう告げてくる。
だけど、おれの熱い部分はそうではないらしい。そんなことしったこっちゃねえと駅に走り出す。すれ違う人々にギョッとされるが、気にせず走る。息切れしながら電車に乗り、目的地に向かう。
公園の入口には立入禁止の文字と、三角コーンに、黄色と黒の縞々のよくある棒。思い出の公園は、取り壊しにはなってはいないもののとっくに使用禁止にはなっていたらしい。
少しばかりの罪悪感を感じながらコーンの奥へ進む。少しばかりの期待と、ワクワクと、そしてほんの少しの恐怖を持って進む。
――恐怖?
おれは、なにに恐怖しているんだ?その事に気付いたら、恐怖が次第に大きくなってきた。この先に進むことを辞めろ、と脳みそがガンガン警鐘を鳴らす。冷や汗が止まらない。おれは、なにかを知らない。なにかを思い出していない。なにかを忘れたままだ。
止まりたい、と思っているのに足は止まらない。バレないように、トイレの裏に埋めたんだ。掘り起こされたりしないように。この角を曲がれば、思い出していないナニカがある。怖い。だというのに、おれの足は止まらなかった。
角を曲がった。女の子が一人、こっちを向かずに立っていた。白いワンピースを着た、中学生くらいの女の子だ。
――おれは、彼女を知っている。
彼女は、おれに気付いたのかゆっくりと振り返る。
「ああ、やっぱり来たんだ」
――おれは、彼女を知っている。
顔立ちの整った、幼い少女だ。後ろ姿から推測できた通り、中学生くらいの、可愛らしい少女。
「久しぶりだね、工藤くん」
――おれは、彼女と一緒にタイムカプセルを埋めたんだ。
「な、んで」
口から漏れた言葉は音になっていただろうか。
神崎 静香。おれの中学の同級生は、何故か当時と変わらない姿で、おれの前に立っていた。
「工藤くん、キミ、ここに埋めた宝物は覚えているかい?」
――忘れた過去を、消し去った記憶を、あの夏の宝物を、覚えているかい?
ちりり、と蠟燭の炎が揺れる。彼女に合わせてキャンドルとでも言おうかと思ったが、どうせ胸の中だ、誰が気にするでもないと思いそのままにする。
今、この世界には私と言葉の通じぬ異国の少女しかいない。地球は、我らが愛すべき地球はどうしようもなくなってしまった。
何故人が消えたのか。生憎私は知識人ではないので語ることはできないのだが、ただ一つ事実を伝えるとしたら、朝起きたら妻が、娘が、隣人が、友人が、周りの人々が皆砂のようになっていただけだ。
長い間彷徨い続け、出会えたのは今蠟燭の小さな揺れる火の前で寝ている少女だけ。それも言葉が通じぬというのだから困ったものだ。
「Good evening. Is it still the same fucking world?」
グッドイブニングだけはわかるが、私は英語が堪能というわけではない。むしろ不得手なものだ。勉強をサボったツケが回ってきたとも言える。
「Nice scented candle, where did you scavenge it from?」
蝋燭が褒められている、というのはわかったが、それだけだ。私に言葉を返せるような能力は無く、日本の社会で三十年間培ってきた曖昧な笑みで濁すのだった。彼女は何か言いたそうにしていたが、どうせ伝わらないと知っているのだろう、どこか責めるような目でこちらを見るだけだった。その目になんだか気不味くなり、逃げ出そうと珈琲を淹れに席を立った。私と彼女の間の、一本のキャンドルだけが私達を照らしていた。