濁りのない綺麗な水。透き通っていて、不純物のない……かつての私も、こういう感じだったのだろうか。
気分転換にやってきた山の湧き水をすくって、私はしばらく考えた。
生まれたばかりの私も、混じりけのない水で、でもいろんなものに触れあって、いつの間にか濁っていった。
山からの湧き水は酷く冷たく、でも柔らかかった。
不純物を今から取り除くというのは、難しいものだろうか。
私はただ透明な湧き水に指をつける。
私は汚れきってしまった。疲れたのだ。
だから、もう最期にしようと、この人気のない山の中に入った。
でも、ここには人の手のおよんでいない、綺麗な自然があって、こんなふうに綺麗な水もあって、綺麗な空気が漂っている。
今の私は、自ら命を断ちたいというどす黒い淀んだ心だけれども。
透明な水から指先を離す。なんだか、少しだけ心が透明になった気がしたから。
もう少しだけ、生きてみようかな。
適当に歩いてきた山道を私は戻る。足元には透明な水が帰り道を示してくれていた。
【透明な水】
お前の理想は高すぎる。
歴代の彼氏に、何度この言葉で別れを告げられたことか。
私は理想が高いと思ったことは一度もない。
きちんと働いていて、ギャンブルはしないで、タバコは吸わない。絶対浮気をしないでくれて、お酒は程々で日付が変わるまでには家に帰ってきてほしい。
ただこれだけ。
これのどこが理想が高いのだろう。
私の普通が他人にとっては普通じゃないのだろうか。
でも、あくまで歴代の彼氏に言われたことであって、過去の話。
今、私の横では、すやすやと理想の彼氏が眠っている。お世辞にもかっこいいとはいえない、平々凡々な私の彼氏。
やっと理想のあなたに出会えた。
私はクスッと傍らのあなたの寝顔を見て笑った。
【理想のあなた】
私の大好きな作家さんが消えた。死んだ、ではなく、消えた、のだ。
ネット社会になり、この現象を体感した人は多いのではないだろうか。
今日も私はいつものように、その人の更新を楽しみにしていた。毎日夕方五時に定期更新をしてくれる作家さん。
仕事で疲れた心に、クスッと笑わせてくれる絵日記やブログを書いてくれて、私の仕事終わりのルーティーンとして、毎日読みに行っていた。
エラーページは心がえぐられる。
存在しませんと、ホームページ自体が消えていた。
ネット回線の問題かと思ったが、そうではないらしい。
作家さんのSNSに飛んでみる。そうしたら、かろうじて存在はしていた。
しかし、過去のタイムラインはほぼ消えていて、アイコンも真っ黒。固定されたタイムラインが一つだけ。
『ありがとう、さようなら』
一体、なにがおこったの?
突然のことで頭が真っ白になった。
情報収集をしても、なにが真実で何が嘘かがわからない。だって、本人じゃないから。
別れというのは突然で、もっとも、ネットだけの繋がりが増えたせいか、こういった別れが極端に増えた気がした。
過去のことは全て消して、意味深な文章だけを残し、突然消えて行く別れ。
あなたは私のことを覚えてないかもしれない。
でも、私はあなたの作品に触れて、毎日頑張る糧になっていたのは事実。
あなたにとって、私はただの一ファンなだけだったけど、その一ファンはたくさんいて、たくさんの支えられていた人もいたというのに。
突然の別れで、スマホを握る手に、指先に力が入らない。
さようならは言いたくない。でも、一言だけ。
「ありがとう」
私はあなたのタイムラインと同じ一言を無意識に口にした。
【突然の別れ】
叶わぬ恋だと思っていても、スタートするのが恋物語。
例えばテレビの世界で輝くアイドル。
例えば身近な存在のお父さんやお姉ちゃん。
例えば同性の人。
今でこそ同性との恋は成就しやすくなったけれど、さすがに身内とは恋仲にはなれない。
私はお父さんに恋をした。実の父親ではない、血も繋がっていない。お母さんが新しく結婚をしてできたお父さんだ。
年もお母さんとよりも私との方が近いくらい。
どうしてお母さんと結婚したんだろう、私と先に出会っていたら、可能性は私ともあったのではなかろうか。
身長が高くて、爽やかに笑って、清潔感があって、おしゃれで。
私が初めて一目惚れをした。
この恋物語はスタートしてしまったのだ。
出会った瞬間、お母さんから新しいお父さんよと紹介された瞬間から、この恋物語は終了してしまっていたのに。
私は、二人の前から逃げ出すように自室へと移動した。
きっと二人は、新しいお父さんの誕生にショックを受けた娘、と見たかもしれない。
私は自室の扉に背中を預けてしゃがみこんだ。
「……好き、かっこいい……」
部屋に一つだけ、私の声がなった。あとは自分のバクバクの心臓の音だけがやけに大きく聞こえただけであった。
【恋物語】
深夜2時。あたりは暗くなったと言うのに、俺は車で一人でいた。
なんと、二十歳を過ぎたというのに、門限の12時に間に合わず、家から閉め出されてしまったのだ。
家の前でエンジン音をかけたままだと、ご近所迷惑なので、キーは刺したままACCモードで車のシートを倒す。救いなのが五月の寒くも暑くもない季節だったということだ。
サンルーフの車だったり、キャンピングカーなら、星空を拝めたかもしれないが、俺の車はそういうのではないので、こじんまりと窓の外を見る。
街灯もなく真っ暗。早く寝なくては恐怖心にかられるくらいのどいなかである。
寝れそうで寝られない。
久々に車でラジオでも聞いてみようか。
今はもう聞かなくなった、真夜中のラジオ。
『時刻は深夜2時半をまわりました。ミッドナイトラジオ、エンディングのお時間です』
こんな時間でも放送してるところがあるのか、と、俺はラジオに耳を傾ける。
懐かしの歌謡曲や今話題の曲をなんとなく流しているような、そんな番組だった。
なんだか恐怖心が柔いてきた、あぁ、これなら……
俺は、ゆっくりと目を閉じた。真夜中に静かに溶けていった。
【真夜中】
※【ミッドナイト】の別人物で続編