「サトウさーん、血圧測りますねー」
いつもと同じ朝が来た。
シャー、とカーテンをあけて、看護師が入ってきた。
身体が動かないので、看護師が手際よく布団から腕を取りだし、血圧を測り始めた。
「今日はいい天気だから、お散歩にでも外に出ましょうか?」
ベッドの横には車椅子がある。散歩といっても、誰かに介助してもらえないと外にも出ないし、車椅子にさえ座れない。
遠くへ行きたいな、
昔のように、ふらっとでかけて、遠くの知らない所に行きたい。
ついこの間のように、バイクに乗って、行けるところまで。
そう、バイクに乗って、事故ってこの様である。
あてもなく、ふらっと遠くへ行きたいのに。
「じゃあ、動かしますよー」
ベッドがギシリとなった。
今行ける、行かせてくれる、遠くへ。
【遠くへ行きたい】
誰もいない自宅に帰宅した。朝だというのに、帰宅した。
電気もつけずに私は、玄関にバッグを投げ捨ててリビングへと向かう。
今日も無事、変な虫は着いてこなかった。
カーテンも閉まっているものの、窓際に置いてあるクリスタルの置物に、身に付けていたネックレスや指輪などのアクセサリーを巻き付けて置く。
クリスタルには、浄化の効果があるらしい。
夜の世界で働いているのに、何を言っているのかって?
そんなこと、自分が一番分かっている。
好きでこの世界に入り浸っている訳ではない。あわよくば、元の日の光を浴びて平穏な日常を過ごしたいよ。
カーテンの隙間から溢れた光が、クリスタルにあたり綺麗に輝いた。
夜に起きたことをリセットしてくれるように。
できることなら、私の心をクリスタルに押し付けてやりたい。
そうすれば、綺麗な私に戻れるかな。
薄暗い部屋の中、私の変わりにアクセサリーは、キラキラと綺麗に輝いていた。
【クリスタル】
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俺にとっては、ここは天国だ。
俺はここ数年、この部屋に引きこもっている。
ご飯は一定の時間に部屋の前に運ばれてきて、一日に一回二リットルの水も運ばれてくる。
食べ終わればまた扉の前に置いておけば片付けてくれる。
部屋にはパソコンもスマホもあり、エアコンもあって快適そのものだ。
住人が仕事に出掛けた時に、俺は部屋から出てお風呂に入り、トイレをする。
もし、住人がいる場合は、空いたペットボトルの中に用を足す。
窓どころかカーテンもずっと開けていない。もう何年、外の空気を吸っていないだろう。
そう、俺はニートである。
でも、いつまでも親が生きていないことくらい、俺にだって分かっている。
このぬくぬく生活が、終わってしまう?
世間と言う闇の世界に、俺も出なくては行けないのか?
過ごしやすい楽園の光のこの部屋を出なければいけないのか?
頭の中では分かっているんだ。いつかは闇に飲み込まれなければいけないことを。
でも……
「やだなー……」
ベッドの上に、自分の巨体を仰向けにし、天井に向かって息切れ切れに、俺はそう呟いた。
光と闇の狭間で、俺はどっちに行こうか、未だに悩んでいるのである。
いつかご飯が運ばれなくなってしまう、その日まで。
【光と闇の狭間で】
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私がいないと生きていけない程、儚い存在だったのに。
12月になり、乾いた空気に自分の白い息が映る。
私の前から、君は飛び立ってしまった。
まだ木々が色づく前の、秋口の頃に君にであった。
玄関の真ん前に、巣から落ちたであろう君にであった。
このまま見殺しにしてもよかったけれど、私は羽も生えていない君を両手で救った。
へなへなで、頭を重そうにうにょうにょ動いて、でも少し温かい、すぐに壊れてしまいそうな儚い君。
私は、そのまま役所に連絡をして、君を育てた。
空の飛び方は教えてあげれないし、エサの取り方も教えてあげられない。
ただ近くで、確かに大きくなる君を私は見ていた。
たまには日光浴をさせ、たまには水浴びをさせた。
その日は、ようやく近所の銀杏の木が黄色く色づいてきた小春日和だった。
外の空気を入れようか、と、窓を開けたその時だった。
「……え?」
君は、機会を伺っていたのだろうか、自ら部屋から飛び立った。
力強く、バサバサと音を立てて。
私は、まだ君と暮らしていたかったけれども、君はもう、私の助けは要らないほど大きく育っていたようで。
少し高い位置にある電柱に、君は止まる。
これが私と君の適切な距離なのだと、私は悟った。
もう君と別れて一ヶ月。
私と君との距離は縮むことはないだろうけれど。
落ち葉となり、散った乾いた銀杏の葉っぱの上を数匹のスズメ達が、ちゅんちゅんと鳴いて跳ねていた。
【距離】
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やっと、梅雨が明けたらしい。
関東まではあっという間に一気に明けたけれど、東北はまだ明けていなかった七月末。
明けたと聞いたが、まだ晴れきってはおらず、明日から本格的な夏になるだろう。
「おばあさん、梅雨明けしたから、お散歩行くべしや」
ベッドで上半身を少しだけ起こしているおばあさんに、俺は言った。
「あんた、誰っしゃ?」
おばあさんは、俺に問う。
「おじいさんです」
「おじいさんですかい、まだ晴れてないべっちゃ」
「あー……、それもそうかもなぁ。なら、明日、もし晴れたらお散歩するべし」
「明日覚えてたらなぁ」
おばあさんは、まだ雲が僅かに広がる空を見ながらそう告げた。
俺の心もまだ曇り空。
全部思い出してとは言わないが、せめて、ちょっと前のことは覚えててくれないかね、と、顔まで曇る。
「おじいさん、梅雨明けはまだかねぇ?」
俺の精神は、そろそろ限界なのだけれども。
「梅雨明けして晴れたら、お散歩いきたいねぇ」
しわしわの顔をした妻が、俺にそう笑顔で言う。
「明日、もし晴れたら行こうや」
しわしわの妻の手をしわしわの俺の手が包む。
きっと明日は空も心も晴れるべさ。
【明日、もし晴れたら】
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