未だ夏の焦燥を含有している秋風が、足下を疾走する。
いつもと違う華やかな装いに彩られた学校は、絶えず学生たちの笑い声で満たされていて、何だか違う生き物みたいだった。そんな文化祭の中でもとりわけ視聴覚室は、本当に教育機関なのかと疑うレベルで、若々しい熱気が渦巻く場所となっていた。その熱気を作り出している学生が一斉に目を向け、そんな視線の前で、まるで世界中のスポットライトを当てられたスタアの様にギターをかき鳴らし歌っているのが、他でもない私だった。小刻みにブリッジミュートを繰り返しながら流行りのロックチューンを大声を張り上げながら歌う私に呼応して、観客が飛び跳ねて声をあげる。肉体の疲労なのか、精神の高揚なのか、どっちとも取れる精神状態によって、メンバー全員が曲全体のBPMを跳ね上げていく。普段なら冷や汗が出る程の走り方だが、今はその疾走感が、私たちの青春の刹那を表している様で心地よい。私も、観客の皆も顔を真っ赤にして、全員が一つになっていくのが分かる。生演奏特有のグルーヴ感に酔いしれながら、アウトロのコードをかき鳴らし、飛び跳ねる。ドラムの締めのキックの余韻に合わせて、センキュー、と軽く言い放つ。次の曲の構成上必要のない、私のテレキャスをギタースタンドに立てかけ、アンプの上に置いていたぬるい水を口に含んだのち、
「いやーにしてもまだ暑いですねー」
と、MCを始める。リードギターの荒井くんが、
「めっちゃわかる、俺も今日半袖だもん」
と、同調すると同時に、観客から、お前は冬も半袖だろ!という野次が飛び、観客全体がドッと笑いに包まれる。いかにも内輪ノリと言うMCパート。いつもならノリノリで参加していた所だったが、今日は少し訳が違っていた。隣の席の、安田さん。常時ヘッドホンに黒マスクという、他人に壁を作る装備を徹底し、クールな印象でこの高校生活自体を俯瞰する癖があるその人は、聞いているバンドが同じという理由だけで、何故か私とだけ、仲が良かった。いつもクールぶっているのに偶に見せてくる抜けている所、好きなものを語る時の饒舌さ、少し低い落ち着く声、ぱっちりとした二重の目をくにゃりと曲げて示されるその微笑みに、私が籠絡されるのに、そう時間はかからなかった。今一番欲しいもの、というテーマで自分のエピソードトークを繰り広げる荒井くんの相槌を打ちながら、視線だけで安田さんを探す。しかし、私の今一番欲しいもの、そのひとの姿は、見つからなかった。今一番欲しいものは何か、と荒井くんに聞かれた私は、バンドメンバーと視線を交わして小さく頷きながら、
「今私が一番欲しい物は!皆の大きな声です!声、足りてるー!?」
と、観客を煽り立て、ラストの曲いくぞー!!!と良い、ドラムの入りからなるイントロに体を調和させていく。手で観客をこまねいて、自分自身もジャンプしながら、もっともっと!と叫ぶ。Aメロの歌詞は何かの始まりを予感させるように明るく、Bメロでは、情感をサビにどんどん高めていくイメージで、抑揚豊かに歌声を吐き出す。サビ前のドラムのフィルインに合わせて、お前らついてこい!と高くジャンプし、サビで感情を爆発させる。とそこで観客席の後ろ、出口の近くで、壁に凭れかかって静かに音楽に体を揺らしている安田さんの姿が目に入る。見にきてくれたんだ、と言う気持ちに頭が沸騰しそうになりながら、サビを歌い切る。元々、この学園祭で、結果がどうあれ、告白しようと思っていた。安田さんと二人で遊びに行った帰りに、余りの幸福度に悶えた時に目にした夕日が、舞台照明と重なって脳裏にチラつく。今だ、となんの確信もなく思った。荒井くんのバチバチのギターソロの裏で、私は観客席にまで下がり、両手を広げて次々と学生たちの間を走り抜け、ハイタッチをする。教室の端っこまで行った時、安田さんが軽く頭を下げて会釈しているのを、見た。私は、この熱さを、安田さんにも捧げたいと思った。いつもどこか冷めている安田さんに、この熱を、そっくりそのまま私ごと移したいと、そう考えた。会釈している安田さんの手を引っ張って私の元まで近づけ、安田さんのその細くて綺麗な指と、ギターにより硬くなった私の指とを絡ませる。安田さんが、驚きで目を見開く。友達から、それ以外に。明らかに関係性が変化していく感覚に、脳が震える。私は、安田さんの黒いマスクの片方を外して、観客側にはその口元を隠した状態で、安田さんのその真っ白な肌と共に見事なコントラストを作り上げているその桃色の瑞々しい唇に、これまでの歌唱による疲労なのか、この胸の高鳴りからなのか、それともどっちものせいで荒い息を絶えず吐き出している私の唇を、そっと合わせた。
ねえ、どっちが先に落ちるか、勝負しない?
昔の夢を見た。今から5年くらい前。まだ、私もあなたも、あどけなさと、強制的に身に付けさせられた大人っぽさの間で彷徨していた時期。サラサラとした貴女の艶やかな黒髪を、真っ黒でまるで澱のような川のもとへ爽やかに吹き抜ける夜風が撫ぜる。私たちは、明かりもついていない真っ暗闇の中、昨日の昼間にたまたま倉庫から見つけた線香花火で遊んでいた。幾らか本数があったので、この前学校であった話や、これからの夢の話など、他愛もない話をしながら。そして、とうとうお互い最後の一本となった時、貴女は少しいたづらっぽく、私にそう笑いかけてきたのだった。二人同時に、目の前に置いてある蝋燭から火を灯す。提灯のような真っ赤な光に、貴女のしどけない横顔が照らされる。思わず見惚れていると、そんな私の視線に気づいたのか貴女は、なに見てんの、花火見なきゃ。これで最後だよ、と私に目線を合わせて笑いかけてくれる。私はその視線にまた心臓の鼓動を早めながら、本当だね、と言って気もそぞろに線香花火に視線を落とす。
と、そこで目が覚めた。まっすぐ目に飛び込んでくる陽光に目を瞬かせながら、夜と朝、夢と現の間で混濁した意識を少しずつ覚ましていく。結局どっちが勝ったんだっけ。遠い昔の記憶が、頭のどこかでひっかかる。軒先から、愛子ちゃあん?と言う清子の声が飛び込んでくる。今の時刻は7時45分。今日は8時30分から市内で火災対策に建物の撤去作業がある。ヤバい。焦る意識のままに体を動かし、身支度を整えて玄関を飛びだす。母親のいってらっしゃいと言う声をサラっと聞き流して、清子に声をかけ、二人で市内へと足を早める。集合時間まで後走って五分程。今日は間に合いそうだ。そう考えていると、いつも遅刻なんて絶対に許さない優等生な清子が、今日は珍しく立ち止まり、私の裾をギュッと掴んでくる。
「どうしたの?遅れちゃうよ?」
上がりきった息のままにそう聞く私に対して、清子は視線を落としたまま、
「……今日は、ちょっと遅れてかない?」
と言ってきた。驚いた私が理由を聞くと清子は、何か凄く嫌な予感がするの、と。それだけをポツリと答えた。
困惑しつつも、良いよ、何か話したいことでもあるの?と聞いてみる。すると清子は凄く深刻そうな表情で、小さく頷いた後、
「だから、これだけはどうしても聞いておきたくて……愛子ちゃんは、恋とかって、してる?」
と、まさかの恋愛話を持ちかけてきた。さっきまでの不穏な空気とは裏腹にえらく可愛らしい話だ。私はその落差に毒気を抜かれて、思わず笑ってしまう。しかし、恋愛話は恋愛話で、私にとっては不都合な話題だった。そりゃあ私だって、恋くらいはしている。しかし、一番の問題は、その私が恋をしている相手が、目の前で、真剣な表情を浮かべている清子、その人であることだ。産めよ増やせよお国のために、だなんて標語がお国から発表されたのが6年前。女は出来るだけ多く子供を産む。それが絶対的な生き方として定められてる今この刻において、まさか幼なじみに、ずっと片思いをしているだなんて、そんな事を知られたら、一体誰に何をされるか分からない。目の前の相手にずっと抱いて拗らせてきた思いを拒絶される事と、社会的な死への恐怖が、私の言動を鈍らせる。
「してないことは、してない、けど……」
気恥ずかしさから思わず清子から目線を逸らして、遠く彼方の空を見つめる。今日はよく晴れていて、いい天気だ。もくもくと立ち上る入道雲が、真っ青な空と二色の美しい対比を作っている。清子は、なんだかショックを受けたような表情で、「そうなんだ………愛子ちゃんの好きな人は、今どこにいるの?徴兵、行ってるんでしょ?」
と聞いてくる。私は、今目の前に!なんて言ってその顔に指をさしてやりたい衝動をグッと堪えて、
「意外と近く、かなあ……そういう清子ちゃんは、急にこんな話題振ってきて。好きな人でもいるの?」
と逆に質問してみる。すると清子は、ビクリと体を震わせて、顔を真っ赤にしながら、いつもの明朗なそれとは全く異なった、わたわたとした感じで、喋り出した。
「わ、私の好きな人はね、その、い、いつもちょっとだらしなくて、遅刻気味で、でも、足が早くて、ちょっと抜けてるところも、逆に支えてあげたくなるっていうか、そんな感じの人で」
それって私のことじゃん、なんて言いたくなる、いくら自分が清子の事が好きだからって流石に自惚れ癖が強すぎる、そんな自分を押し殺そうと、私がもう一度、清子から目線を外して空を見上げた時だった。銀色の、鋭く光る戦闘機が空気を切り裂く。空襲だ、それもここから近い。その戦闘機が禍々しくも爆弾を出産する光景が、私の瞳に反射する。
多分、助からない。
「そ、それでそれでその人はね、今、私の目の前にいて」
言いかけた清子の体を抱き寄せて、押し倒し、清子の上に覆いかぶさる。すっかり目が蕩けた清子の唇に自分の唇を重ね合わせる。多分、私たちは両想いであることに、ずっと前からなんとなく気づいていたんだろう。それでも、拒絶されるのが怖くて、中々すり合わせられなくて、そんな青春の臆病心を、許してくれるほど、この世界は甘く、ゆっくりと進んではくれなかった。私が死んだ後でもせめて、私が清子に恋をしていたことが伝わるように、そんな必死な想いを胸に、もう一度、唇を重ねる。清子の視界には、私しか映っていない。それでいい、と私は心から歓喜した。
あ、と私は幽かな声を漏らす。思い、だした。五年前の、あの線香花火をした日。二人とも揃って慎重に持っていた線香花火は、すぐに消えゆく運命に抵抗するかのように、バチバチと、大きく弾けた。そうして弾けて弾けて、私たちがきれいだね、と笑みを交わし合った次の瞬間、その線香花火は、突風に吹かれて、ポテっと同時に、地に堕ちていった。
蹴り飛ばした椅子が立てる大きな音が、しんとした教室の中に鳴り響く。隣にたっている友達の金切り声が、まるで恋愛映画のラストシーンのようにこだまする。その金切り声が形成している言葉は、罵声だった。純粋に他人を貶める為だけの、醜悪な言葉。その言葉をかけている張本人は、さも自分が正義だと言う風に勝ち誇った笑みを浮かべている。そして、言われる側は、というと。真っ白な髪をくしゃ、と握りながら俯き、何もなかったような表情で、罵声が聞こえなかったフリをしていた。その態度がさらに癇に触るのか、友達のボルテージが更に上がる。真っ白な髪が引っ張られ、顕になった新雪のような肌に紅葉が降り注ぎそうになる。刹那、黙って耐えることしか能がないような無表情に、その瞳に、少しの希望の色が宿った。救いを求める感情をそのまま写し出している、私の心を真っ直ぐと射ぬいてくる、その視線を私はフッとそらし、窓の外の昼下がりの青空を見る。私が飛行機雲を見付けたのと、パン、という乾いた音がなって、小雪の頬に紅が刺されたのは、ちょうど同じ時間だった。
そして、放課後。
鋭い痛みに顔を歪ませる小雪を空き教室に待たせていた私は、友達との別れを済ませ、辺りを伺いながら指定した空き教室に向かう。扉の前で一つ深呼吸をして、今までの人間関係での"私"を、完全に埋没させる。自然に緩む口角に身を任せ、私は勢いよく扉を開けた。中には、小雪が座って私の方をまっすぐと見ている。小雪が、自分の鎖骨の辺りの場所で小さく手を振る。私は、精一杯申し訳なさそうな顔をしながら、小雪にかけよる。大丈夫、痛くない?なんて言葉を、あの救いの目線をしらこく無視している分際で。小雪は未だ残響する痛みに顔を歪ませながらも、何でもないような顔で、教室では滅多に見せないような微笑をたたえ、私の手を恋人繋ぎで握ってくる。私は、ごめんなさい。田中さんったら乱暴よね、小雪がこんなに可愛いからって、いじめて、暴力なんてふるって。皆、田中さんが怖いのよ。だから、本当にごめんね。そうやって、自分が悪くないといううすっぺらい欺瞞を、美しい言葉のヴェールで包む。自分に言い聞かせるように。小雪は無邪気にも、可愛い何て言ってくれるの、八坂さんだけですよ、なんてはにかむ。田中さんをけしかけているのは、私だ。クラスの中で一番"イケてる"存在になった私が、クラスにとっては毒にも薬にもならないような存在の小雪を、苛めさせたのだ。理由はただひとつ。小雪が可愛すぎて、私が常に小雪の一番になっていたいからだ。だからクラスの中でのいじめられっ子ポジションにして、小雪の心に消えない傷を毎日植え付けて、私だけがそれを癒すようにする。そうすれば、小雪は私しか見れなくなる。私が考えた作戦は、見事に成功しきった。私は、私の顔で埋め尽くされた小雪の瞳を真っ直ぐ見たあと、本当にいたそう。なんて言葉を掛けながら、小雪の頬にあるぶたれた痕に、くっきりとついた田中の指先まで、一つ一つ、丁寧に唇を落としていった。小雪のか細く、甲高い声が私の頭の中に極上のアリアとして刻み付けられる。こんなに感情豊かで、蕩けきった顔も、こんなに可愛い声も、全部私だけのものなのだ。そんなドス黒い感情が、白と赤で彩られた小雪の肌を、埋め尽くしていく。
蒼は頭、いいもんね。
十二月、片田舎の真っ白な畦道で二人、コンビニの少し冷めたコロッケを食べながら塾から帰った、受験期の聖夜。どれだけ雪が白くても染まらない、彼女そのものの芯の強さを表すような黒髪が揺れる中、ん、と喉だけで返事をする貴女を、今でも覚えている。
あれから、丁度7年。私は地元の国立大学に進学し、なんとなく地元企業に就職し、そこで出会った二個上の先輩と結婚することになった。挙式は年明けにする予定だ。殆どの知り合いには、手紙かメールで、結婚報告と結婚式の出席案内を済ませていたが、小中高とずっと一緒に過ごしてきた蒼にはどうしても直接伝えたくて、高校卒業後に上京した蒼の元まで、私は片道二時間かけて新幹線ではるばるやってきた。東京特有の騒がしさと、それとは裏腹な、冷たい無関心さが私の肌を撫でる。蒼とは御茶ノ水の居酒屋で待ち合わせをしていた。最後に連絡しあったのは五年前。『成人式、行く?』と送った私に対して、蒼は『行かない』と一言だけで返信してきて、それっきりだった。元々淡白な性格の子だった。淡白で、ミステリアスで、だからこそ、カッコ良かった。そんな遠い日の記憶に思いを馳せていると、
「……久しぶり」
蒼が、私の元までやってきた。けれど、その姿は私が知っている蒼とは大きく異なっていた。絹のように光沢に溢れていて流麗だった黒髪は好き放題に伸びてぼさぼさで、肌は荒れ放題、その癖、化粧っ気もない。服は高校時代のジャージ。華奢な背中には分不相応なほどに質量を纏った、大きすぎるリュック。幾ら今日が土曜日の夜だからって、普通の社会人が、ましてや東京だなんて言う、この日本で最も華やかさに気を使わなければならない町でのその風貌は、明らかに他と比べて異質だった。
「………………なんか、感じ変わった?」
敢えて何もなかったかのように、聞いてみる。蒼は、そう?と、あの頃みたいに無愛想に答えた。
とりあえず二人でお酒を頼み、乾杯する。私はカシスオレンジで、蒼はストロングゼロ。まるでガソリンを充填する壊れたロボットみたいに一気飲みする蒼は、少しデカダンチズムな雰囲気を纏っていた。口数が少ない蒼に近況を聞く。
聞くところによると彼女は、かの東京大学にどうしても学びたい教授が居たらしく、その教授のためだけにわざわざ7年もの間、受験勉強をし続けているそうだ。所謂、多浪生。しかも文系。あの頃の高貴で天才的なイメージとは程遠い彼女に、私も唖然とする他、無かった。確かに行き道にも思ったが、御茶ノ水は予備校が多い街だった。蒼は、隣の駿台から直で、この店まで来たのだ。発展英作文の授業の後に。
ストロングゼロを八杯飲み干した蒼は、顔を真っ赤にしながらいつぞやの年の受験問題の批判を早口で繰り広げている。その年は丁度、私が今の夫と出会った歳だった。さっきの話ぶりからするに、その蒼が学びたかった教授は、三年前に退職したらしい。では、蒼は一体何のために、誰のために地元の大地主である親のスネをかじって、自分の人生を棒に振り続けるのか。きっと、彼女にもわかっていないのだろう。そう思いながら、カシスオレンジを口に含んだ。
泥酔した蒼の家の住所をなんとか聞き出し、介抱しながら何とかタクシーに乗せ、家に連れてく。蒼はタクシーの運転手に学歴を聞いて、やれ東大の足切りの点数が高いだの低いだの、今の年代じゃ誰もしないような話をして一人で大声を出して笑っている。高校までの蒼では考えられないような仕草だった。大声ではしたなく笑っている姿なんて、少なくとも私は、一度も見たことがなかった。タクシーの中から見える無数の光線は、一つ一つが星粒のように綺麗で、そんな街に取り込まれている蒼を思うと、街が綺麗であればあるほどに、胸が痛かった。
蒼のリュックサックの前ポケットから鍵を取り出し、蒼を抱き抱えながらドアを開ける。刹那に聞こえてくるゴミが崩れ落ちる音。まるでマインスイーパーの様にゴミを避けながら蒼をワンルームの奥のベッドまで連れて行き、寝かせる。終電も無くなったし、今日はここで寝るしかないな、と思い、教材で溢れている蒼のベッドを片付けて二人分寝れるスペースを作っていると、不意に蒼が私の左手を掴んできた。私の左手を天井のライトに透かし、しげしげと眺める。
「これ、指輪、くすりゆびについてるじゃん」
ようやく本題に入れた。私はそう思いながら、決して自慢げに聞こえないように気を使いながら、結婚報告をした。蒼は、目を大きく見開いて、嘘でしょ、と小さく呟いた、蒼の目線があちらこちらを行ったり来たりする。貼り付けられてある五年前のA判定の模試結果。目がチカチカするくらいカラフルな、参考書で埋め尽くされた本棚、それ以外には飲食物のゴミが散乱している、何も甲斐性がない、無機質な部屋。その部屋が、蒼が失った7年を、これほどないまでに如実に表していた。蒼が苦しげな呻き声をあげる。どうしたの、と近寄ったところで、腕をとても強い力で引っ張られ、ベッドに押し倒される。急に入れ替わった視線に私が困惑している間に、蒼が私の腹部に馬乗りになってくる。途端に、首にギリギリと力が加わる。普段回っているはずの血が急に堰き止められる感覚によって、私は今、蒼に首を締められているんだ、と理解した。呼吸が浅くなる。震える手で蒼の腕を抑える。蒼の長い髪が私の元に降りかかる。蒼の瞳から、大粒の涙が零れ落ちて、私の唇に滴下されていく。
「何幸せになってんのよ!!私より頭悪かったくせに、私よりセンター取れてなかったくせに!!」
蒼の悲痛な叫びが、真っ赤になっていく私の頭蓋にこだまする。
「ねえ、私、成人式も行ってない。まだ大学生にもなれてない。後輩だった子たちが、みんな私の受験スケジュール組んでるんだよ!?7年!!7年失ったの、私、7年だよ?もう大垣先生もいなくなって、学びたいこともないのに、未だに受験勉強をして、もう7年。でも、私もう、これ以外に生きてる意味ないんだよ……」
蒼は、私の首を締めていた手を話して、自らの涙を拭い、爪をかみ出す。スーッとした、頭の中に溜まっていた血が、一気に全身に降りてくる感覚。思わず大きく咳き込んだ後、蒼の涙を親指でそっと拭う。上手くいかない時に爪を噛み出すのは、受験期の蒼の癖だった。遠い日の記憶が、またもやフッと蘇ってくる。命の危険があった状況なのにも関わらず、ノスタルジックな気分になる。蒼は依然、泣き声を上げて、自室にある模試日程のカレンダーを、じっと眺めている。私にとっては遠い青春の追憶でも、蒼にとっては今もなお続くことなんだ。そんな残酷な真実を、改めて理解する。私は、こんな立場で何を言ったらいいかも分からないまま、蒼にとって、祝福なのか、はたまた呪いなのか、両方かもしれない、そんな言葉を、投げかけた。
「………来年は絶対、受かるよ」
サワサワと吹き込んでくる春風が桜の花びらを教室に運んでくる。
午前授業が終わった後特有の間延びした空気の中、純白のカーテンの裏でじっと空を眺めているリョウのスカートが、花びらと共にさらりと揺れる。私はリョウに話しかけるために、自分の体をカーテンと共に潜らせる。
「……何してんの?」
「……別に?」
リョウは平然とした様子で、目線だけを私に合わせてそう答えた。でも、その様子は、いつものミステリアスさとは少し違っていて、なんだかわざとらしかった。
「………抜けたんだっけ、バンド」
「………」
「まあさ、音楽なんて、これっていう形なんかないんだから、そりゃ方向性も違ってくるよ」
あたしのバンドは中学生の時には解散したしさあ、なんて笑い飛ばすけど、リョウは尚も空を見つめている。その雰囲気に当てられて私まで押し黙ってしまう。
「……虹夏はさ、何歳まで生きる、とか決めてる?」
リョウはこうやっていつも、突然訳のわからないことを言う。私は窓から半身を出しているリョウの隣で、同じ仕草で窓に凭れかかって少し神妙に、
「……80才、くらい、かな」
と答えてみる。するとリョウは少し驚いた様にこっちを見て、長いね、と呟く。
そんなものなんじゃないの?普通。てか、急になんなの?
と聞いてみると、リョウは今度は私の目を真っ直ぐに見据えながら、
「私はさ、自分が生きてる姿、25歳くらいまでしかイメージできないんだよね」
と言った。25才、なんだか中途半端な数字だ。
「何それ、後8年しかないじゃん」
「そう、後8年くらい」
そういってリョウはもう一度ぼんやりと空を見上げた。春の陽光に柔らかに照らされたリョウは、凄く美しいのに、凄く儚くて、そんなリョウの瞳を見ると、急に後8年、と言う単語が現実味を帯びてきた。私が次第に滲み出てくる不安に苛まれていることなんて全く知らないかのように、リョウは再び言葉を紡ぐ。
「こうやって、いろんなバンドを抜けたり入ったりしてると、凄い忙しないし、凄いしんどい時だってあるのに、終わった後に何も残らないんだなって気持ちになるんだよね。そうやって刹那的に生きてきたら気付いたら17年も経っちゃって、こんなに毎日毎日長いのに、まだ17年しか経ってなくて。そう思うと、私が死ぬまでって、後8年くらいなのかなって」
そういって淡々と、平坦な声音で自らの死期を語るリョウは、本当に、気付いたら空に吸い込まれそうな雰囲気を纏っていて、なんで神様はこんな日に限って空に雲を無くしてしまったんだろう、こんな空だったらすぐにリョウはどこかに連れ去られてしまうんじゃないか、そんな事を思って、なんだか胸がキュッとなった。リョウがいなくなるだなんて私は一回も考えたことが無かったのに、そんな未来を当たり前のように話す目の前の幼なじみが、少し怖かった。リョウに足りないのはきっと、居場所なんじゃないだろうか。そんな事を考えた、いや、本当はリョウがいなくなることが怖くて怖くてたまらない私が、ずっとリョウの隣で、その手を掴んで話したくないだけなんじゃないか、そんなことを思いながら、私はリョウにあることを打ち明けた。
「私さ、バンド組んで、有名になって、お姉ちゃんがやってるライブハウスを有名にしたいの。でも、まだ、私一人しかそのバンドのメンバーがいなくってさ。だから」
そこでもう一回一呼吸置いて、リョウの目をまっすぐと見る。
「だから、私と、バンド、組まない?私、リョウが弾くベースの音、好きなんだよね」
そう言い放つと、リョウは目を瞬かせて、正気?と聞いてきた。私が黙って頷くと、リョウは、少し宙を見つめてから、
「いいよ。バンド組もう、虹夏」
と言って、手を差し出してきた。幼馴染の仲なのに今更握手だなんて、普段だったら絶対に気恥ずかしい事だけれど、私はリョウの手を、しっかりと握った。空に吸い込まれそうなリョウを、私がずっと、斜め右前に留めていようと、そう考えて。