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蒼は頭、いいもんね。
十二月、片田舎の真っ白な畦道で二人、コンビニの少し冷めたコロッケを食べながら塾から帰った、受験期の聖夜。どれだけ雪が白くても染まらない、彼女そのものの芯の強さを表すような黒髪が揺れる中、ん、と喉だけで返事をする貴女を、今でも覚えている。
あれから、丁度7年。私は地元の国立大学に進学し、なんとなく地元企業に就職し、そこで出会った二個上の先輩と結婚することになった。挙式は年明けにする予定だ。殆どの知り合いには、手紙かメールで、結婚報告と結婚式の出席案内を済ませていたが、小中高とずっと一緒に過ごしてきた蒼にはどうしても直接伝えたくて、高校卒業後に上京した蒼の元まで、私は片道二時間かけて新幹線ではるばるやってきた。東京特有の騒がしさと、それとは裏腹な、冷たい無関心さが私の肌を撫でる。蒼とは御茶ノ水の居酒屋で待ち合わせをしていた。最後に連絡しあったのは五年前。『成人式、行く?』と送った私に対して、蒼は『行かない』と一言だけで返信してきて、それっきりだった。元々淡白な性格の子だった。淡白で、ミステリアスで、だからこそ、カッコ良かった。そんな遠い日の記憶に思いを馳せていると、
「……久しぶり」
蒼が、私の元までやってきた。けれど、その姿は私が知っている蒼とは大きく異なっていた。絹のように光沢に溢れていて流麗だった黒髪は好き放題に伸びてぼさぼさで、肌は荒れ放題、その癖、化粧っ気もない。服は高校時代のジャージ。華奢な背中には分不相応なほどに質量を纏った、大きすぎるリュック。幾ら今日が土曜日の夜だからって、普通の社会人が、ましてや東京だなんて言う、この日本で最も華やかさに気を使わなければならない町でのその風貌は、明らかに他と比べて異質だった。
「………………なんか、感じ変わった?」
敢えて何もなかったかのように、聞いてみる。蒼は、そう?と、あの頃みたいに無愛想に答えた。
とりあえず二人でお酒を頼み、乾杯する。私はカシスオレンジで、蒼はストロングゼロ。まるでガソリンを充填する壊れたロボットみたいに一気飲みする蒼は、少しデカダンチズムな雰囲気を纏っていた。口数が少ない蒼に近況を聞く。
聞くところによると彼女は、かの東京大学にどうしても学びたい教授が居たらしく、その教授のためだけにわざわざ7年もの間、受験勉強をし続けているそうだ。所謂、多浪生。しかも文系。あの頃の高貴で天才的なイメージとは程遠い彼女に、私も唖然とする他、無かった。確かに行き道にも思ったが、御茶ノ水は予備校が多い街だった。蒼は、隣の駿台から直で、この店まで来たのだ。発展英作文の授業の後に。
ストロングゼロを八杯飲み干した蒼は、顔を真っ赤にしながらいつぞやの年の受験問題の批判を早口で繰り広げている。その年は丁度、私が今の夫と出会った歳だった。さっきの話ぶりからするに、その蒼が学びたかった教授は、三年前に退職したらしい。では、蒼は一体何のために、誰のために地元の大地主である親のスネをかじって、自分の人生を棒に振り続けるのか。きっと、彼女にもわかっていないのだろう。そう思いながら、カシスオレンジを口に含んだ。
泥酔した蒼の家の住所をなんとか聞き出し、介抱しながら何とかタクシーに乗せ、家に連れてく。蒼はタクシーの運転手に学歴を聞いて、やれ東大の足切りの点数が高いだの低いだの、今の年代じゃ誰もしないような話をして一人で大声を出して笑っている。高校までの蒼では考えられないような仕草だった。大声ではしたなく笑っている姿なんて、少なくとも私は、一度も見たことがなかった。タクシーの中から見える無数の光線は、一つ一つが星粒のように綺麗で、そんな街に取り込まれている蒼を思うと、街が綺麗であればあるほどに、胸が痛かった。
蒼のリュックサックの前ポケットから鍵を取り出し、蒼を抱き抱えながらドアを開ける。刹那に聞こえてくるゴミが崩れ落ちる音。まるでマインスイーパーの様にゴミを避けながら蒼をワンルームの奥のベッドまで連れて行き、寝かせる。終電も無くなったし、今日はここで寝るしかないな、と思い、教材で溢れている蒼のベッドを片付けて二人分寝れるスペースを作っていると、不意に蒼が私の左手を掴んできた。私の左手を天井のライトに透かし、しげしげと眺める。
「これ、指輪、くすりゆびについてるじゃん」
ようやく本題に入れた。私はそう思いながら、決して自慢げに聞こえないように気を使いながら、結婚報告をした。蒼は、目を大きく見開いて、嘘でしょ、と小さく呟いた、蒼の目線があちらこちらを行ったり来たりする。貼り付けられてある五年前のA判定の模試結果。目がチカチカするくらいカラフルな、参考書で埋め尽くされた本棚、それ以外には飲食物のゴミが散乱している、何も甲斐性がない、無機質な部屋。その部屋が、蒼が失った7年を、これほどないまでに如実に表していた。蒼が苦しげな呻き声をあげる。どうしたの、と近寄ったところで、腕をとても強い力で引っ張られ、ベッドに押し倒される。急に入れ替わった視線に私が困惑している間に、蒼が私の腹部に馬乗りになってくる。途端に、首にギリギリと力が加わる。普段回っているはずの血が急に堰き止められる感覚によって、私は今、蒼に首を締められているんだ、と理解した。呼吸が浅くなる。震える手で蒼の腕を抑える。蒼の長い髪が私の元に降りかかる。蒼の瞳から、大粒の涙が零れ落ちて、私の唇に滴下されていく。
「何幸せになってんのよ!!私より頭悪かったくせに、私よりセンター取れてなかったくせに!!」
蒼の悲痛な叫びが、真っ赤になっていく私の頭蓋にこだまする。
「ねえ、私、成人式も行ってない。まだ大学生にもなれてない。後輩だった子たちが、みんな私の受験スケジュール組んでるんだよ!?7年!!7年失ったの、私、7年だよ?もう大垣先生もいなくなって、学びたいこともないのに、未だに受験勉強をして、もう7年。でも、私もう、これ以外に生きてる意味ないんだよ……」
蒼は、私の首を締めていた手を話して、自らの涙を拭い、爪をかみ出す。スーッとした、頭の中に溜まっていた血が、一気に全身に降りてくる感覚。思わず大きく咳き込んだ後、蒼の涙を親指でそっと拭う。上手くいかない時に爪を噛み出すのは、受験期の蒼の癖だった。遠い日の記憶が、またもやフッと蘇ってくる。命の危険があった状況なのにも関わらず、ノスタルジックな気分になる。蒼は依然、泣き声を上げて、自室にある模試日程のカレンダーを、じっと眺めている。私にとっては遠い青春の追憶でも、蒼にとっては今もなお続くことなんだ。そんな残酷な真実を、改めて理解する。私は、こんな立場で何を言ったらいいかも分からないまま、蒼にとって、祝福なのか、はたまた呪いなのか、両方かもしれない、そんな言葉を、投げかけた。
「………来年は絶対、受かるよ」

7/17/2024, 10:07:49 PM