西日が貴女の小さく丸まった背中を容赦なく刺しつける。
「………なにしてんの」
そう問いかけると貴女は、
「掃除してるの、今日田中さんたち忙しいから出来ないらしくて」
と、一切の混じり気がない瞳をこっちに向けてくる。私が自分の顔を覆って大きくため息をついて、
「それさ、都合いいと思われてるんじゃないの?」
と言うと、貴女は小さく首を左右に振って、
「そんなことないよ、田中さんたち、今日は部活のミーティングがあるんだって、言ってたもん」
「でも、あいつら幽霊部員じゃん、美術部の」
「……幽霊部員なら、尚更部活にいった方がいいじゃん」
「ほんとにいってると思うの?どうせ今頃カラオケでも行ってるんだよ?あんたがずっと掃除してる間に」
「………それでも、役に立ってるなら、それでいいよ」
「いいわけ無いでしょ。あんた別に田中さんの手下でも何でもないんでしょ?嫌な事は断っていかなきゃ」
「でも、田中さんの役には立ってるんでしょ?」
「立ってるっていうか、そもそもあいつの仕事なんだからあいつがやらなきゃダメでしょ。……それは、優しさじゃないんじゃないの」
「でも、田中さんは助かったんでしょ?」
「………そりゃあ、今日だけを切り取ったら、助かった、とは思う、けど」
「……なら、良いよ」
「良くないって」
「……あたし、優しいことしか取り柄、無いからさ、これだけでも、誰かの役に立てたら、それでいいんだ」
自分に言い聞かせるようにいう貴女のその顔は痛々しくて、私まで胸が苦しくなった。
「……優しいだけが取り柄なんて、そんなこと、ないよ。少なくとも私は、あんたのこと、人として、好き、だし」
「……ほんと?ありがとう」
そうやって上目遣いで微笑む貴女の笑みはパンジーのように綺麗で、私は自分の顔が赤くなってやしないかと不安に思った。黙って教室の奥にあるロッカーまで足を運び、箒をつかみとる。なにしてるの、と言う貴女の声を背中に浴びながら、貴女と反対方向の床を箒で掃き始める。
「…………手伝うよ、私も。ただ!田中には絶対に一回は、あんたの分の掃除、肩代わりさせるから。………だから、だからその時は、二人でカラオケでも、行こうよ」
沈みかけてる夕日が織り成す赤い薄紫色の光が、私たちを包み込む。この空気をずっと、持っていたいと、そう思った。
ノックと共にガチャリ、と扉を開ける音が聞こえて、瞬間的に目を覚ました。貴女の溌剌とした声が、耳朶を震わせる。
「夕ご飯できたけど、食べる?」
私は右手で自分の髪を梳かしながら、食べます、と答えてベッドから起き上がる。ダイニングに行くとすでに夕食は配膳されていた。藍美さんと向かい合わせになって座って、顔を見合わせて、いただきます、と手を合わせる。今日の献立は、お姉ちゃんが好きだったハンバーグだった。丁寧に焼き上げられたハンバーグを口に運ぶ。
「随分寝てたねえ」
「ちょっと、疲れてたから」
「まだ大学生になって二ヶ月しか立ってないもんねー。せめてここぐらいはリラックスしなよ?と言っても、下宿生活もまだ慣れないかもだけど」
肩口で切りそろえられた髪を小さく揺らしながら、藍美さんが微笑む。私の瞳は、その笑みの眩しさに焦がされてしまう。
東京の大学に行く事を決めた時、住む場所に困っていた私を救ってくれたのは、お姉ちゃんの友人の藍美さんだった。年は私の5つ上。新しい会社に入って、社会で働き出している藍美さんは、きっと私よりも大変なはずなのに、そんな素振りを一ミリも出さないで、私が過ごしやすいようにしてくれる。初めて、藍美さんと会った時の事を覚えている。お姉ちゃんが帰省した時に、ついでだからと藍美さんを連れてきたのだ。目があった瞬間、きれいな人だな、と思った。次第に、その言動やそぶりの愛らしさが、私の心を掴んで離さないようになって行った。それでも、藍美さんはお姉ちゃんの友達で、私はあまり接点がなかった。こんなに可愛い藍美さんの隣にずっと入れるお姉ちゃんが、ちょっと恨めしかった。お姉ちゃんは、私と比べてとても賢くて、クールな人だった。感情を表に出さないけど、しっかりと周りの事を気遣える、そんな素敵な人だった。半年前に亡くなってしまったが。ある朝、お姉ちゃんは電車に跳ね飛ばされたそうだ。その時間は早朝で、現場検証によるとお姉ちゃんの周りに人はいなかったらしい。
「もう六月かあ」
藍美さんは天井をずっと見つめている。大学生になったらお姉ちゃんと同居する予定を立てていた私は、受験前の大事な時期に露頭に迷うこととなった。正確には精神的にはそれどころじゃなかったのだけれど。その時、藍美さんが拾ってくれたのだ。でも、藍美さんと一緒に暮らしていて、ある違和感を感じることがあった。
「リリはハンバーグが大好きでさー。ファミレスいったらいっつも頼んでたのよ。私が作るハンバーグもいつも美味しそうに食べてくれて。ねえ、夜子ちゃん、ハンバーグ、美味しい?」
「……美味しいよ」
いつも、お姉ちゃんの話しかしないのだ。ずっと、どこか遠くを見つめて、藍美さんはお姉ちゃんの話しかしない。きっと、藍美さんは私にお姉ちゃんの幻影を重ねているのだ。強くそう思う。
「リリにももっと、食べさせてあげたかったなあ……」
藍美さんの瞳から涙が溢れる。私は淡白な声音になるように努めながら、
「食べてるんじゃない?きっと向こうで」
と答える。藍美さんは、お姉ちゃんを救えなかった代償行為で私を住まわせてくれている。きっと彼女にとって、私は、お姉ちゃんの綺麗な姿のプラネタリウムでしか無いのだろう。それでも、藍美さんと一緒にいれるのなら十分だ、と私は自分に言い聞かせる。
一口啜った味噌汁は、なんだか少ししょっぱかった。
小さな雨粒が、ため池をさわさわと揺らす。
ため池に跳ねる雨粒と、東屋の屋根から伝って落ちてくる水が一種のハーモニーを作り上げている。私は、この雨の時節の静かな騒々しさが結構好きだったりする。隣では、雨で濡れそぼった君の肩口が、小さく震えている。
「ハンカチ、使う?」
そう言ってポケットの中のハンカチを取り出して差し出す。
「いいよ、日向ちゃんだって濡れてるじゃん。それにあたし、結構丈夫だし」
私は尚もハンカチを差し出そうとしたが、藤原さんはどうしても受け取ろうとしなかったので、仕方なくハンカチをポケットにしまう。
部活帰りに二人で歩いていた私たちは、両方とも天気予報を見ておらず、急に降り出した雨にびっくりしながら近くの公園の東屋で雨宿りすることになった。
「そういえば、もう大会まで二週間だね」
藤原さんが頰杖をついたままそう話しかける。私は、そうだね、そろそろ小道具も仕上げて行かないと、としどろもどろに答える。
藤原さんとは小学校も同じだったが、私とは違って派手なグループに居たので、そんなに関わりは無かった。私たちの関係性の転換点となったのは中学校に入った時だ。中学校では珍しい演劇部という部活に入った私たちは、元々家が近かったのもあって、すぐに仲良くなった。派手でスタイルが良くて、明るく皆に人気者の藤原さんは役者を、対する私は照明をやっていた。隠と陽、と言う属性がぴったり当てはまる私たちは、まさに部活での仕事もそんな感じで、こうして藤原さんの隣にいるのも、本当は少し烏滸がましく感じている。
「そういえば日向ちゃんはなんで照明をやろうと思ったの?」
揺れる水面を眺めながら藤原さんが私に聞いてくる。私も同じ様に水面を眺めながら、
「私、舞台演劇が好きだけど、あんまり人前に出るのが得意じゃなくって、だから、せめて舞台で演技する人たちを、陰からでも、明るく照らしたいな、ってそう、思って」
半分、嘘をつく。人前に出るのが得意なのは本当だった。でも、私が本当に照らしていたいのは、舞台で演技する人たち、なんて言う漠然としたものじゃなくって、藤原さん、だけだった。雨に打たれて冷え切ったはずの体が火照り出す。藤原さんは私の答えを聞くと、そうなんだあ、と少し平坦な声で言った後、
「私はね、私が舞台の上で輝くのを、見せたい人がいて。最初はただただ目立てるから、楽しそうだから、って理由なんだったんだけど、今ではもう、その人の目にどれだけ魅力的に写るか、それだけを考えてる」
膝を抱えながらそう言う彼女の横顔は、恋をしている表情をしていて、やっぱり藤原さんにもそういう相手がいるんだな、と思って私は少し胸が痛くなった。何の気もない風を装って、
「因みに、どんな人なの?」
と聞いてみる。すると藤原さんはまっすぐ私の目をみながら顔を紅色に染めて、
「その人はね、ちょっと地味で、引っ込み思案で、でも面白くて、優しくて、小柄なのに意外と包容力があって、可愛い人」
と言ってくる。私は藤原さんの思わせぶりな態度に動揺しつつ、
「可愛い人って、女の人なんだ」
と呟き、藤原さんにそういう相手が居ない事に、内心大きく安堵する。すると藤原さんは少し怒ったように
「………後、自分が十分魅力的な事にも気づかずに人の魅力を引き出すのに躍起になってて、鈍感な人かな」
と尚も”その人”の特徴を言ってくる。私は心音のボリュームが大きくなっていくのに気付きながら、
「その人は、随分自信がないんだね」
と言ってみる。藤原さんは、
「そう、自分に自信がなくて、ここまで言ってもまだ気づいてないフリをしてて、未だに私の事を藤原さん、って呼んでくる人」
と言ってくる。いつの間にか藤原さんが私の近くまで来ていて、藤原さんの肩と、私の肩がピト、とくっつく。
「そんな事言われると、私勘違いしちゃうじゃん」
私はそう言葉を絞り出すのが精一杯だった。藤原さんが自らの腕を私の腕に絡めてくる。
「勘違いじゃ、ないんじゃない?」
そういう藤原さんの声は、普段の元気いっぱいな声でも、たまに見せるローテンションな声でも無く、いつもよりも可愛くて、そして、震えていた。
「でも、私なんか、別にそんな魅力なんかないし……」
焦って変なことを口走ってしまう。藤原さんは真っ赤な顔に微笑みを浮かべて
「さっき散々言ったのに、まだ言われ足りないの?」
と言い、耳元にその瑞々しい唇を近づけ、
「優しくて、可愛くて、辛い時でもそっと見守ってくれるところ、ずっと大好きだったんだけどなあ」
と言ってくる。頭の中が藤原さんの声で蹂躙される。私は顔を真っ赤にしながら
「分かった、分かったから!……その、ほんとに、私なんかが好きなんだ……」
と一旦藤原さんを振りほどく。藤原さんは自分のしている事に気がついたのか、少し焦った様子で
「いや、そうだよね、き、急に言われても困るもんね、こんな、ただの友達から、なんて」
と弁明してくる。覚悟を決めなきゃ。そう思った私は、そんな藤原さんの手をそっと握って、
「私もね、さっき、舞台に立つ人たちを照らしたい、って言ってたけど」
藤原さんの大粒の瞳がハッと見開かれる。
「実は、あれ、半分嘘なんだよね。本当は、藤原さんだけを、照らしたくて、一番美しい貴女を、一番美しく見せたくて、だから、照明をやってるの」
驚愕で固まっている藤原さんの、細くて美しい指を、私の指と絡める。
「だから、私も藤原さんの事が好き、なんだ」
と言い放つ。藤原さんはもう暫く固まった後
「…………本当に?」
と聞いてくる。少し余裕が出てきた私は
「本当だよ。ていうか、藤原さんから先に告ってきたんでしょ」
と返す。藤原さんは、そうなんだ、そっかあ、と一人でひとしきり呟いた後、
「じゃあ、これからもよろしくお願い、します」
とよそよそしく言う。そんな藤原さんの姿が面白くて、私は思わず笑ってしまう。藤原さんが恥ずかしそうに、ちょっと、笑わないでよ、と言ってくる。私はごめんごめん、といいながら笑いを納めて、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と言って上半身だけで礼をする。
池の水面で芽吹き出している睡蓮の鮮やかな緑色が、ふと目に入った。
もしもタイムマシンがあったなら、もしも、タイムマシンが実在したならば。
私は、一体貴女にどんな言葉をかけるのだろう。
薄明かりに照らされて橙色に染まった瞼をゆっくりと開き、真っ白な天井を仰ぎ見る。閉め切っている窓を貫通してくる蝉の鳴き声が、夏の朝の気怠さを加速させる。そっと、眦に溜まっていた涙を掬う。消えかけている夢の残骸と、涙の源となる毒のような悲しみが綯交ぜになった頭をクリアにしようと、軽く深呼吸をする。冷え切っていない部屋の曖昧な空気が肺を満たすのを感じる。体に弾みをつけて起き上がり、腕を伸ばして大きく伸びをする。パキパキ、という小気味いい音と共に、背筋がピンと伸びる。枕元に置いてあったスマホを手にとって、時刻を確認する。午前5時52分。少し早起きしすぎた。スマホを片手に持ったままもう一度寝転がる。右手に握られたスマホの待ち受け画面に写っているある少女と目が合う。私は、その少女、僅か四ヶ月前に去った幼なじみ、の写真を改めて眺める。初詣の時に引いたおみくじを持って、雪景色の中、私と彼女が笑顔で写っている。確か、彼女のおみくじは大吉だったはずだ。おみくじを引いた時の彼女の無邪気な笑みが、その鈴の音のような笑い声と共に脳裏に浮かぶ。私は、切なさをエッセンスに加えた愛しさに駆られて、思わず写真の中の彼女の頬を、タッチパネル越しに撫でる。彼女が生きていた、その確たる証拠に縋る。
あの日、私たちは二人きりで花見に行く予定だった。朝から食べ物の段取りをしていた私へ、家の外から場所取り行ってくる!と元気いっぱいに呼びかける貴女の声が、私が聞けた最後の声だった。午前10時半頃、間延びした街の中でスマホを眺めながら信号を待っていた彼女は、夜勤明けで意識が朦朧としている若手の会社員のミニバンに跳ね飛ばされ、首の骨を折って泡を吹いてその命を儚く散らした。私が彼女に追いつこうと家に出た時には、彼女はもう病院でその煌びやかな瞳孔に光を当てられていた。公園で彼女を待っている時に見たあの桜の、残酷的なまでの美しさを、未だに覚えている。きっとあの桜の下には、彼女の死体が埋められているんだろう、今となってはそう思う。彼女の死は、全国ニュースで15秒取り上げられるほどのごく些細なことで、彼女が死んでも、世界は当たり前のようにその運用を停止しなくて、そんな中、私だけが、狂わされて世界から取り残されている。その苦しさも、彼女の死に対して自分本位な苦しさを抱えているという事実も、全てが嫌だった。あの日、貴女が家の前を通り過ぎる前に、私が家の玄関を出て、貴女に何か声をかけていれば、貴女は今も、その豊かな表情を、時折感じさせてくる思慮深さを、いつも元気なくせに夜中になったら急にさびしがりやになる所を、私に見せていてくれただろうか。
そんな事を考えながら、また、目をつぶる。
未だ夏の焦燥を含有している秋風が、足下を疾走する。
いつもと違う華やかな装いに彩られた学校は、絶えず学生たちの笑い声で満たされていて、何だか違う生き物みたいだった。そんな文化祭の中でもとりわけ視聴覚室は、本当に教育機関なのかと疑うレベルで、若々しい熱気が渦巻く場所となっていた。その熱気を作り出している学生が一斉に目を向け、そんな視線の前で、まるで世界中のスポットライトを当てられたスタアの様にギターをかき鳴らし歌っているのが、他でもない私だった。小刻みにブリッジミュートを繰り返しながら流行りのロックチューンを大声を張り上げながら歌う私に呼応して、観客が飛び跳ねて声をあげる。肉体の疲労なのか、精神の高揚なのか、どっちとも取れる精神状態によって、メンバー全員が曲全体のBPMを跳ね上げていく。普段なら冷や汗が出る程の走り方だが、今はその疾走感が、私たちの青春の刹那を表している様で心地よい。私も、観客の皆も顔を真っ赤にして、全員が一つになっていくのが分かる。生演奏特有のグルーヴ感に酔いしれながら、アウトロのコードをかき鳴らし、飛び跳ねる。ドラムの締めのキックの余韻に合わせて、センキュー、と軽く言い放つ。次の曲の構成上必要のない、私のテレキャスをギタースタンドに立てかけ、アンプの上に置いていたぬるい水を口に含んだのち、
「いやーにしてもまだ暑いですねー」
と、MCを始める。リードギターの荒井くんが、
「めっちゃわかる、俺も今日半袖だもん」
と、同調すると同時に、観客から、お前は冬も半袖だろ!という野次が飛び、観客全体がドッと笑いに包まれる。いかにも内輪ノリと言うMCパート。いつもならノリノリで参加していた所だったが、今日は少し訳が違っていた。隣の席の、安田さん。常時ヘッドホンに黒マスクという、他人に壁を作る装備を徹底し、クールな印象でこの高校生活自体を俯瞰する癖があるその人は、聞いているバンドが同じという理由だけで、何故か私とだけ、仲が良かった。いつもクールぶっているのに偶に見せてくる抜けている所、好きなものを語る時の饒舌さ、少し低い落ち着く声、ぱっちりとした二重の目をくにゃりと曲げて示されるその微笑みに、私が籠絡されるのに、そう時間はかからなかった。今一番欲しいもの、というテーマで自分のエピソードトークを繰り広げる荒井くんの相槌を打ちながら、視線だけで安田さんを探す。しかし、私の今一番欲しいもの、そのひとの姿は、見つからなかった。今一番欲しいものは何か、と荒井くんに聞かれた私は、バンドメンバーと視線を交わして小さく頷きながら、
「今私が一番欲しい物は!皆の大きな声です!声、足りてるー!?」
と、観客を煽り立て、ラストの曲いくぞー!!!と良い、ドラムの入りからなるイントロに体を調和させていく。手で観客をこまねいて、自分自身もジャンプしながら、もっともっと!と叫ぶ。Aメロの歌詞は何かの始まりを予感させるように明るく、Bメロでは、情感をサビにどんどん高めていくイメージで、抑揚豊かに歌声を吐き出す。サビ前のドラムのフィルインに合わせて、お前らついてこい!と高くジャンプし、サビで感情を爆発させる。とそこで観客席の後ろ、出口の近くで、壁に凭れかかって静かに音楽に体を揺らしている安田さんの姿が目に入る。見にきてくれたんだ、と言う気持ちに頭が沸騰しそうになりながら、サビを歌い切る。元々、この学園祭で、結果がどうあれ、告白しようと思っていた。安田さんと二人で遊びに行った帰りに、余りの幸福度に悶えた時に目にした夕日が、舞台照明と重なって脳裏にチラつく。今だ、となんの確信もなく思った。荒井くんのバチバチのギターソロの裏で、私は観客席にまで下がり、両手を広げて次々と学生たちの間を走り抜け、ハイタッチをする。教室の端っこまで行った時、安田さんが軽く頭を下げて会釈しているのを、見た。私は、この熱さを、安田さんにも捧げたいと思った。いつもどこか冷めている安田さんに、この熱を、そっくりそのまま私ごと移したいと、そう考えた。会釈している安田さんの手を引っ張って私の元まで近づけ、安田さんのその細くて綺麗な指と、ギターにより硬くなった私の指とを絡ませる。安田さんが、驚きで目を見開く。友達から、それ以外に。明らかに関係性が変化していく感覚に、脳が震える。私は、安田さんの黒いマスクの片方を外して、観客側にはその口元を隠した状態で、安田さんのその真っ白な肌と共に見事なコントラストを作り上げているその桃色の瑞々しい唇に、これまでの歌唱による疲労なのか、この胸の高鳴りからなのか、それともどっちものせいで荒い息を絶えず吐き出している私の唇を、そっと合わせた。