雪が降っている。
肌を刺す冷気を、さほど感じなくなったのはいつからだっただろう。
かじかんだ指先の痛みが、判らなくなったのはいつからだっただろう。
廃屋の縁側の下に小さな体を丸め、こわごわと、虚ろな瞳で空を見上げる。
雪が、降っている。
ゆっくりと息を吐き出しても、それが白くなり瞳に映ることはない。
目の下に落ちてきた雪すら溶けず、その異物感にぱちりと瞬きをした。
―――死ぬかもしれないな。
彼はごく自然にそう思った。
全てを失った時はあんなに熱かったのに。なんだか滑稽な話だとぼんやり考える。
いつかの温もりも、賑やかさも、ここには欠片さえ存在しなくて。代わりに、今にも消えそうな自分と、降りしきる雪と、真っ白な世界だけが在った。
―――もう、いいのかな。
村は戦火に焼かれ、自分を知るひとは誰ひとりとしていなくなった。ここで死んでも、誰も自分に気づくことは無いだろう。誰も自分を悼むことは無いだろう。
自分の存在はどこまでも儚く、透明だ。
―――ならもう、いっそ………
見てみぬふりをしてきた眠気を受け入れて、ゆっくりと、目を閉じる。
すぐに柔らかなまどろみが全身を包んだ。あぁ、落ちる…そう思った時。
どこかで、歌が聞こえた。
思わず目をひらく。こんな時に歌なんて、聞こえるはずがない。空耳だ。
でも…とても暖かい、優しい歌だった。
―――あ、
ふと、自分が涙を流していることに気がつく。
泣いたのはいつぶりだろうか。
頬をつたうそれは暖かくて、まだ自分の中にそんな熱があったのかと驚く。
涙なんて、とうに枯れたと思っていた。大切なものが全てなくなったあの日に。どれだけ泣いても何も変わらないと思い知らされたあの日に。
―――思い、出した。
あの日。敵が攻め入ってきて、ろくな備えもしていなかった自分の村はあっという間に陥落してしまった。家には火が放たれ、物は奪われ、村人たちは容赦なく殺されていく。
そんな中で、自分は託されたのだ。
どうか生きて、と。
―――そうだ、おれは…生きないと。死んでなんてたまるもんか。
涙に濡れた目で空を見上げる。音のない世界に雪は降り続いている。しかし、彼の瞳はもう虚ろではなかった。
彼の世界にあの暖かい歌が響くのは、まだ少し先の話……
『脱稿した』
そんなメッセージと共に、漫画用原稿用紙を撒き散らし狂喜するスタンプが届いたのは、午後11時30分ちょうどのことだった。
『おめでとうございます』
ここ数日徹夜していたメッセージの送り主、瑠奈をとりあえず祝福する。ついでに『お疲れ様!』のスタンプも追加した。
『ありがとう 安心して死んでる
次のイベントちゃんと本出せます』
『よかったですね ルナ先輩あした学校来れそうですか?』
『わからん とりあえず寝るから起きれれば行く
レンカも早く寝なよ』
『おやすみなさい』のスタンプが送られてきて、あぁこれはマジで寝落ちるやつだな、と恋香は思う。
明日は自分が起こしに行かないといけないやつかもしれない。まあたっぷり寝て少しでも目の下のクマが薄くなればいいのだが。
翌朝。
いつものようにバス停へ向かうと、すでに瑠奈が来ていた。
「おはよーございます、センパイ……って、なんか、クマ濃くなってません?」
「あぁ、恋香…おはよう。実はちょっと寝てなくて」
「えっ!?昨日寝るって言ってたじゃないですか!」
いやぁ、と瑠奈が口をひらく。
「そうなんだけどさ、久々にツイッター開いたら見てなかった分いっぱい推しが出てきて……無限にスクロールしてたら朝になってたんだ」
うっわ……と苦虫を噛み潰したような顔になる恋香。
引く。流石に引く。
「これこそ朝チュンってな」
「本来の意味と違いますよね!?」
それは読者のオタノシミが大人の事情でまるっとカットされた時に使う言葉であるはずだ。知らんけど。
「昨日くらい寝て欲しかったのに……」
「はは、ごめんごめん。今日からはちゃんと寝るからさ」
と言いつつ瑠奈の手にはペンとノートが握られている。何を書いているのか聞けば、次の同人誌のシナリオだと返ってきた。
「もう!?早くないですか!」
「早くない。むしろ早割使いたいから早ければ早いほどいいんだ」
さらに瑠奈は言い放つ。
「終わってもまた始まる。それが同人活動なんだ」
ちゃんと休んでください!!と恋香の叫びがバス停にこだまするのだった。
(すっかり遅くなっちまった……)
夕方までのアルバイトのつもりが、店主にもう少し!と粘られてしまい断りきれなかった。刻々と空が暗くなり、もう既に星が輝き始めている。もっと早く切り上げればよかったのだが、「お給料はずむから〜!」というセリフに抗えなかったのだ。ドケチの習性である。おかげで当初の予定よりも多くの収入が入ったものの、目下の心配は――――――
「見つけたぞ!」
「げっ」
聞き覚えのある声に振り返れば、同居人がずんずんとこちらに向かってくるところだった。心内ではバレちまったと毒づきつつ、へらりとした笑顔を貼り付る。
「『げっ』とはなんだ!夕方までのバイトじゃなかったのか!?」
「いやぁその予定だったんですけどぉ、かくかくしかじかでぇ……」
「あ〜〜もういい。全く、おまえはまたそーゆー言葉に引っかかりおって………帰るぞ」
ほら、と言って差し出された手を握る。子供である自分の手とは比べ物にならないほど大きくて、硬くて、暖かい手だ。
「危ないことはなかったか?」
「はい。あ、時間外手当ってんでバイト代も弾んだんですよ〜!しばらく内職手伝ってもらわなくてもよさそーです」
「ほう?そしたら明日は家でみっちり予習復習に励めるなぁ?」
「え、いやそれとこれとはまた別っていうかぁ」
「バカタレ」
ごちん!とゲンコツが飛んでくる。
「……星が見えましたぁ」
「自業自得だ。……………――――――」
聞こえるか、聞こえないかギリギリの、かすかな言葉。人より敏感なその耳は、しっかりとそれを捉えていた。
「………先生」
「ん?」
「実は長く働かせたお詫びに、ってお土産もらったんですよね。今晩のおかずは一品増えますよ」
「おぉ、それは嬉しいな。で、何を貰ったんだ?」
ニヤリ、と笑って言う。
「練り物です」
「え゛っ」
ビタリと動きが止まる。それもそのはず、彼は練り物が大の苦手なのだ。さっきのゲンコツのお礼である。
「な〜んてのは冗談で、ただの筑前煮ですよ」
「驚かせるな!」
ごちん!
また視界の端に星が散った。
『……あまり、心配させるな』
心配してくれる人がいる。帰路を共にしてくれる人がいる。すこし前の、ひとりきりの自分には考えられなかったことだ。
(こういうのを、幸せっていうんだな)
胸に広がる気持ちは、繋いだ手にも負けないくらい暖かかった。
余談
悲しいかな、もらった筑前煮には練り物(ちくわ)が入っていた。ちくわは全て押し付けられた。
「『願いが1つ叶うならば』、かぁ……」
放課後の教室。人気のなくなったそこで、少女―――楓はひとり呟く。小説アプリで提示された「本日のお題」は、彼女の頭を悩ませているらしかった。
(願い。私の……もしくはキャラクターたちの)
楓は首をかしげる。ツインテールの髪が揺れた。
(私の、叶えたい願いは……)
「カエちゃん」
呼びかけられハッとして振り向くと、いつのまにか教室の入り口に親友の桜が立っていた。
「桜ちゃん、ごめん、もうバスの時間?」
「ううん、まだ大丈夫だよ。…わたしの方こそ、集中してる時にごめんね?」
「いや、集中してたっていうか…なんか思いつかなくって……」
「へぇ、珍しいね。カエちゃんが思いつかないなんて」
喋りながら桜は教室の中に入ってきて、楓と向かい合うように座る。
呑気に笑う親友を見て、楓は膨れっ面になって言った。
「私だってアイデアの宝庫じゃないんだよ〜、思いつかない時は思いつかないの〜!」
「ふふっ、そうだね〜」
楓の子供っぽい態度に、桜はさらに可笑しそうに笑う。
「あ、そうだ。桜ちゃんってさ、『叶えたい願い』ってある?」
「叶えたい…願い?」
「そ。今日のお題なんだけど、いいの思いつかなくてさ」
「それで悩んでたんだね」
叶えたい願い。突然言われたら確かに思いつかないかもしれない。普段あれだけああなればいいのにとかこうなればいいのにとか言っているくせに…と桜は自嘲する。
「確かに思いつかないや…カエちゃん、ほんとに何もないの?」
「ない。私、願いは自力で叶えるタイプなので」
「おぉ、かっこいいね」
かっこいいでしょ、もっと褒めてもいいんだよ。と、自身満々な顔で言う楓に、桜は思わず吹き出してしまった。
「あ、今ので思いついたかも」
「ほんと!?なになに教えて!」
「わたしの願いは――――――」
◇◇◆◇◇◆◇◇
「ねぇ、桜はさ、願いがなんでも一つ叶うとしたら、なにを叶えてもらう?」
「ぇ」
休み時間、クラスメイトから何気なく尋ねられて、桜は少々返答に詰まった。
一番最初に思い浮かんだのは「親友にもう一度逢いたい」だった。でも、それを願ったとしてどうしようもない。彼女にもう二度と会えないことは桜自身が一番よく解っていた。だから、考えるだけ無駄なのだ。
「いやぁ…ちょっと思いつかない、かな」
「意外だなぁ。てっきり、『最高の小説が書きたい!』とか言うと思ってた」
「それは…」
他人に願ってもしょうがないし、と言いかけて、前にもあったな、こんなやりとり…とふと思った。
二人きりの放課後の教室。まだ彼女と一緒にいられた頃。離れ離れになるなんて思いもしなかった頃。
桜が筆を執りはじめたのも、彼女との別れがキッカケだった。執らずにはいられなかった。少しでも近くに感じたかったから。
刹那、懐かしい思い出に浸って、桜は口を開く。
「確かにいつか最高の小説は書きたいけど……でもそれって自分の力でやるものでしょ?わたし、願いは自力で叶えるタイプなんだ」
「へぇ、かっこいいじゃん」
「でしょ?」
もっと褒めてくれてもいいんだよ、と桜は自慢げに笑った。
『―――カエちゃんとずっと仲良しでいたい、かな』
あの頃の願いはもう叶わなくとも。
いつか命が尽きるその日まで、ありったけの思い出を抱えて生きていく。
嗚呼、と声が出る。
嗚呼、貴方は酷い人だ。
自分に居場所を与えて、帰る家をつくってくれて。
ケチな自分に文句を言いつつも、結局いつも、なんだかんだ許してくれて。
いつの間にか貴方が居るのが当たり前になってたんだ、ほんとうに、いつの間にか。
この生活がずっと続くわけじゃないって、そんなの判っていた筈なのに。
学園を卒業したら、ほんとうに赤の他人になる。貴方と僕をつなぐものは何もなくなる。そして、それはそう遠くはない未来。ほんの、あと数ヶ月先には現実になってしまう。
『僕と先生は“赤の他人”ですから!』
今まで自分で散々そう言ってきたのに、今になって“赤の他人”という言葉に恐ろしくなる。
“他人”なのだ。たとえ、これまでどんなに同じ時間を過ごしていようとも。自分がどれほど貴方のことを想っていようとも。
きっと貴方は、僕がどんなことをしようと「大きくなったなぁ」なんて言って、父親か…先生の顔をして笑うんでしょうね。
先生、僕もう十五になったんですよ。
もう少しで卒業しちゃうんですよ。
もう少しで貴方の生徒じゃなくなるんですよ。
たまたま生い立ちが似てただけで。僕と貴方はただの他人で。一生僕が夢見るような関係には、貴方のとくべつには成れないって、解ってる。
解ってるけれど。
貴方がゆるしてくれる限り、ずっとそばに居たい。
そんなふうに、思ってしまう。
嗚呼、ほんとうに、貴方は酷い人だ。
貴方が僕の名を呼ぶことが。子供をあやすように頭を撫でることが。微笑みかけることが。
どれほど僕を傷つけるのか分かってますか?分かってませんよね。分かられたくもないのでそのままでいいですけど。
貴方は月みたいだ。美しく輝いているのに、決して手の届かない月。
でも、月を手に入れることは出来ずとも、見上げるくらいは、赦されるでしょう?
だから、今はまだ、もう少しだけ、貴方のそばに居させてくださいね、先生。