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1/28/2024, 5:33:42 AM

#優しさ
 

 
 子どものねずみが一匹、いました。
「やさしい」が何なのか、わからないねずみ
でした。
 やさしくならなきゃと、思っていました。
 心がきれいでやさしければ、いつか、しあわせに
なれる。どの物語にも、そう書いてあったからで
す。
 自分はワガママだと、子ねずみは思っていまし
た。なにがワガママなのか、子ねずみにはわかりません。でも、ワガママだとよく言われるのです。やさしくないのは、たしかです。やさしければ、しあわせのはずです。だから、やさしさが足りていないのです。やさしさが何かわからないのも、きっと、自分がやさしくないせいです。ワガママなねずみのせいです。

 みんなのやりたがらないことを、進んでやりましょう。
 大人たちは、そう言います。
 それがきっと、「やさしい」です。
 
 人気のないものばかりを、引きうけるように
なりました。
 ゴミ捨て係に立候補したり、チーズのおいしい部分をほかの子にあげたり、欲しいものをキライだと言って我慢したりしました。
 そのうち、他のねずみとちがう選択をする自分に酔うようになりました。本当は、いやな気持ちを
ごまかすためでした。「やさしい」と「召使い」の境界を、疑問に思いはじめました。あいかわらず、ワガママだと言われていました。なにが正解なのか、わからなくなっていました。
 
「やさしい」と褒められる他のねずみたちが、全員、ニセモノに見えました。
 アピールが上手いだけ、うわべを取り繕っているだけ、本心からの行動じゃない、だって、こんなに頑張っても、わたしはずっと「ワガママ」なのに。
 ワガママだと言われるのは、自分の話をするせいかもしれない。子ねずみは、自分の本音を、だれにも話さなくなりました。
 
 ある日、子ねずみはお土産やさんで、きれいな小皿を見つけました。
 万華鏡をのぞいたような、幾何学的な模様がついています。絵ではありません。色のちがう木をたくさん組み合わせて、模様をつくっているのです。寄せ木細工と書いてあります。
 びっくりしました。
 寄せ木細工なら、子ねずみも図工の授業でやったことがあります。でも、子ねずみがつくったのは、茶色い棒と白い棒を、丸太のように積み上げただけの箱でした。とても同じものには見えません。
 当然だと、子ねずみは思いました。この小皿を
見るまで、寄せ木細工がなんなのか、子ねずみは
さっぱり知らなかったのです。茶色い棒と白い棒を
渡されて、ただ「寄せ木細工をしろ」と言われたの
です。
 
 やっと、答えを見つけた気がしました。
 やさしくなれないのは、自分の心が醜いせいだと、ずっと思っていました。醜い自分が、大きらいでした。でも、ちがったようです。
 子ねずみがやさしくなれなかったのは、「やさしいねずみ」のお手本を、一度も見たことがなかった
せいなのです。






1/26/2024, 7:19:56 AM

#安心と不安
 
 
 
 
 茶色いねずみと、灰色のねずみは、一緒に旅行する約束をしました。
 
 一ヶ月前になると、茶色いねずみは旅先のくわしい地図を手に入れました。
 ぜったいに見るべき建物に丸をつけたり、おいしい食べ物やら定番のおみやげやらをリサーチしたり、準備に余念がありません。
 
 二週間前になると、茶色いねずみは旅の日程表をノートに書き上げました。
 美術館のひらく時間、チーズ工房見学ツアーの出発時間、バスや鉄道の時刻もびっしり書きこんであります。何度も、何度も、頭のなかで試行錯誤した、いちばん欲張りで、いちばん効率のいいルートです。だれが見ても、完璧です。
 一方、灰色のねずみも旅行先のガイドブックを手に入れました。ベッドに寝ころんでページをめくりながら、おいしそうなご飯やきれいな街並みにうっとりして、約束の日をワクワクしながら待っています。
 
 一週間前になると、茶色いねずみは荷造りをはじめました。もっと早くはじめる予定だったのですが、旅行のために新調したスーツケースが、なかなか届かなかったのです。
 部屋の真ん中にスーツケースをひろげ、着替えを詰めて、タオルと毛づくろい用ブラシを詰めて、靴下と、靴下の予備も詰めました。
 もしかしたら、むこうは寒いかもしれない。上着とひざ掛けを、もう一枚ずつ詰めます。もし、食べものが口に合わなかったら。お気に入りのチーズミックスを二袋、ひざ掛けの横に詰めます。転んでケガをしたら、どうしよう。ちいさな救急箱を、チーズミックスの横に詰めます。むこうで友だちができたりして。こちらの街のおいしいブドウジュースを三缶、救急箱の上に詰めます。灰色のねずみが、忘れものをするかも。予備の着替えと、靴下と、タオルを、ブドウジュースの下に詰めます。
 あんなに大きく見えたスーツケースは、もうパンパンです。忘れているものが本当にないか、茶色いねずみは旅行の前日の夜遅くまで部屋をウロウロして、何度も、何度も、確認しました。
 
 とうとう、約束の日が来ました。
 朝、駅に集まった二匹は、お互いを見てびっくり
しました。
 
「スーツケースはどうしたの?まさか、その
ちっちゃなカバンだけなんて、言わないよね?」
「キミこそ!そんな大荷物で、夜逃げでもするの?たったの二泊三日だよ?」

 列車に乗りこんでからも、お互い、驚くこと
ばかりです。
 
「日程表だって?うわぁ、すごく細かい!こんなによく調べたねぇ!」
「キミこそ、なにも調べてないの?うそでしょ!二週間もまえに作戦会議したのに!」
「たぶん、行けばわかるよ」
「入り口まで行って、休館日だったら困る。ムダ足
はごめんだよ」
「べつの場所を探せばいいよ」
「そこも閉まってたら?チケットが売り切れだったら?バスがちっとも来なかったら?」
「まあ、なるようになるさ」
「テキトウだなぁ!」
 
 しばらくおしゃべりしていた二匹は、おかしなことに気づきました。
 列車が出発しないのです。出発時刻を、もう20分も過ぎています。
 ザーザーと、車内アナウンスが流れました。
 すこし先の踏切を、羊の群れが渡っているようです。かなり大きな群れのようです。
 茶色いねずみはソワソワしながら、日程表を確認
しました。
 この列車が到着したら、まずはホテルに荷物を預けて、街を一周する遊覧ボートに乗る予定になっています。「12時から、40分」そう書いてあります。もう間に合いそうにありません。次のボートは13時です。でも、13時にはお昼ごはんを食べる予定なのです。さもないと、14時からの地下道探検ツアーには腹ぺこで参加することになってしまいます。

 列車が出発する気配は、ちっともありません。
「羊の通過に時間がかかっています」と、車内アナウンスが繰り返しています。
 茶色いねずみはソワソワしながら、時計と日程表を何度も、何度も、何度も、確認しました。
 
「まあ、落ち着けって」
「でも予定が!計画が!楽しみにしてたのに!」
 
 灰色のねずみは、茶色いねずみを見つめました。
 茶色いねずみが握りしめている日程表と、荷物置き場を占拠している大きなスーツケースに目をやって、小さくため息をつきました。

「ねえ、キミ。完璧な計画なんて、存在しないよ。完璧な準備も必要ない。ボクたちは遊びに行くんだよ。大事なのは、ハプニングすら楽しむ気持ちさ」
「だけど、遠くまで出かけるのに!取りこぼしがあったら、困るよ!ぜんぶ見て帰らなきゃ、じゃなきゃ、もったいない。だって、せっかく行くのに!」
「ボクが思うに、キミの日程表に詰まっているのは、キミの不安だよ。ボクたちがどんなにスカスカの旅行をしたって、価値があるかどうか、決めるのはボクたちだ。他のヤツらに口出しされる筋合い
なんて、あるもんか」
 
 茶色いねずみはびっくりして、灰色のねずみを
見つめました。
 子ねずみだった頃、よく、お母さんねずみに言われた言葉を思い出しました。
 
『あらまあ、こんな石ころを拾ってきたの?もったいない、せっかく森へ行ったのに』
 
 心の奥にずっと刺さっていたトゲが、とけていくのを感じました。
 とけたトゲが、目からポロポロ、流れだして
きました。
 となりに座った灰色のねずみは、泣いている友だちを、みじかい腕で、ぎゅうっと抱きしめてやりま
した。
 
 




 

1/20/2024, 8:09:31 PM

#海の底
 
 
 
 ちいさな人魚の子どもが、尾びれを止めてふり返りました。
 なにか、光った気がしたのです。
 泳ぎよって、そっと拾いあげてみます。
 
 オレンジ色の、丸い石です。
 ほんのり、透きとおっています。
 手のひらにのせると、サラサラします。
 
 この石のことは知っていました。これは
「お日さまのかけら」です。ときどき、海のなかに落ちています。波にとけたお日さまの光が、長い
あいだ海をただよって石になるのだそうです。
 年長の子どもたちのなかには、宝もの入れ
いっぱいにこの石を集めている子もいます。羨まし
くて仕方ありませんでした。自分の巣穴にもどって
くると、人魚の子どもは枕元の砂を掘りおこして、
ちいさな二枚貝の宝箱に、石を大切に しまいまし
た。
 
 つぎの朝。
 人魚の子どもは肩からポシェットをさげると、浅瀬へ泳いでいきました。大人たちに見つからないよう、こっそりと。
 
──ぜったいに、陸へ近づいてはいけません。
 
 人魚の子どもたちは、生まれたときから言い聞か
されます。
 ニンゲンは人魚たちの兄弟です。大昔、陸にあがった人魚たちの尾びれが裂けて、ニンゲンになったのです。けれど、人魚たちとちがって陸の兄弟は
乱暴です。やさしい海に見捨てられて、すべてを呪っているのです。呪いのせいで、陸の上だろうと海の上だろうと、好き勝手に暴れまわるのです。人魚たちはみんなそう信じています。

 それなのに、この子どもの人魚は、かまわず
泳いでいきます。

 ちいさな入り江までくると、ちゃぷんと海から顔を出して、尾びれで水面をぱちゃぱちゃ鳴らしまし
た。砂浜を歩いている影が、顔をあげてふり返りま
した。
 ニンゲンの子どもです。
 人魚の子どもに気づくと、こちらへ両腕を大きくふりました。砂浜からは桟橋が一本、まっすぐのびています。その先端まで歩いてきます。
 泳ぎよった人魚の子どもに、バナナの葉っぱの
帽子を持ちあげて、ニンゲンの男の子がニッと笑い
ました。

 この人魚の子どもだって、やっぱりニンゲンは怖いと思っています。
 でも、この男の子だけはとくべつです。命の恩人
なのです。
 はじめて入り江に迷いこんだときのことです。
ニンゲンの罠にひっかかって、痛くて暴れて泣いていたら、逃がしに来てくれたのです。海に飛び込んで、尾びれにギシギシ噛みついてくる見えない糸を、一本ずつ切ってくれたのです。

 きょうも男の子の足元には、大きなバケツが
置いてあります。
 先端に針のついたニセモノの魚、こわれたビーチ
サンダル、ボロボロのビニール袋、空き瓶空き缶がたくさん、あの恐ろしい透明な糸も、ぐるぐる巻き
で入っています。男の子は『ゴミ』と呼んでいます。『ゴミ』がなんなのか、人魚の子どもには
わかりません。

 人魚の子どもは、肩にさげたポシェットを
あけました。
 いちばん底から、二枚貝の宝箱をとりだします。そのなかの、いちばんの宝ものを、大切につまみ
あげます。
 きのう見つけた、お日さまのかけらです。
 明るい陽の光をあびて、きらきらオレンジ色に
かがやいています。海のなかで見るより、ずっと
鮮やかで、すてきに見えます。
 人魚の子どもはニコニコ笑って、桟橋の端っこで
しゃがんで待っている男の子に石を見せました。
男の子は、人魚の子どものいちばんの友だちです。
人魚の子どもが海から持ってくるものを、いつも
キラキラした目で熱心に眺めてくれます。だから、いちばん最初に教えたかったのです。だって、
「お日さまのかけら」を見つけたのです!

 男の子は、人魚の子どもが嬉しそうにかかげた
オレンジ色の石を見たとたん、凍りつきました。
 だれかの尾びれに引っぱたかれたような、
おかしな顔をしています。
 それから、唇をかみました。悔しそうに、恥ずかしそうに、まっ赤な顔をクシャクシャにしました。
 男の子がなにを言っているのか、人魚の子ども
にはわかりません。陸の言葉は、人魚にはヘンテコ
すぎるのです。
 でも、とても怒っていることはわかります。声がとげとげしています。悲しそうでもあります。
まっすぐな茶色い目に、涙がにじんでいます。
 オレンジ色にかがやくお日さまのかけらを睨みつけて、男の子が言いました。
 
『ゴミ』
 
 バケツを、こちらへ突きだしてきます。
 
『ゴミ』
『ゴミ!』
『ゴミ!!!』
 
 男の子の手が伸びてきて、むりやり石を奪い取ろうとしました。人魚の子どもはあわてて海にもぐりました。
 すこし沖合いの波間から顔をだして、信じられない気持ちで男の子を見つめました。
 追いかけてくる様子はありません。桟橋の端から身を乗りだして、バケツを抱えて、男の子が泣きながら叫んでいます。
 
『ゴミ!!』
『ゴミ!!!』
『ゴミーッ!!!!──────
 
 人魚の子どもはわけがわからず、一目散に海の
底へ逃げ返ってきました。
 こわくて、悲しくて、巣穴にとじこもって
ワアワア泣きました。もう二度と陸へは近づき
ませんでした。

 
 やがて男の子は大人になって、ニンゲンたちの
なかでも、とても偉いニンゲンになりました。
 彼の施策により、海辺の大量のゴミはすっかり姿を消し、捨てられた釣り糸にからまって命を落とす
たくさんの海の生きものたちもいなくなりました。海は少しだけ賑やさを取り戻し、人魚たちは少しだけ、ニンゲンを信じるようになりました。

 おなじ頃、海の底で人魚がひとり、二枚貝の小さ
な宝箱をあけました。
 はるか頭上でかがやく海面に、半透明の石を
すかしました。オレンジ色のやわらかい光を
見上げ、しくしく痛む胸の底から、ちいさな泡を
吐きました。
 
 


 
 
 
 


1/17/2024, 8:50:20 PM

#木枯らし
 
 
 凍えるほど寒い、冬の朝。
 スズメが一羽、庭木で目を覚ましました。
 仲間たちはまだ、同じねぐらにひと固まりに集まって、うとうとしています。けれどこのスズメだけは、朝焼けの空から冷たい風がビュウビュウ吹いてくるのに気づくと、あわてて飛びあがりました。
 スズメが飛んでいったのは、道端の掲示板です。
 掲示板には、すこし色あせたポスターがまばらに
貼られています。その中の一枚に、会いにいったの
です。
 黒いインクで刷られた貼り紙です。
 なにが書いてあるのか、スズメにはわかりませ
ん。
 
──ボクにも、わからないよ。
 
 首をかしげて覗きこんでいるスズメに、貼り紙
が答えました。
 
──どんな役目があるのか。なぜここに貼られたのか。考えていたこともあったよ。ボクはとくべつな
貼り紙なのかもって。けど、貼られちゃったから、ここにいる。それだけさ。けっきょくの
ところ。
 
 さみしそうな声でした。
 よく見ると、他より地味でみすぼらしい感じがします。カラフルなポスターのなかで、この一枚だけ、黒一色だからかもしれません。
 四隅をとめるはずの画鋲も、なぜか三つしかありません。左上がいつもヒラヒラ垂れています。
 自分みたいだと、スズメは思いました。
 スズメも、左の羽がすこし短いのです。ヒナの
ときにケガをして、左側だけうまく育たなかった
のです。
 きのうの夕方も、スズメはこの貼り紙に会いに行きました。明日はきっといい風が吹く、そう
渡り鳥たちが話していたからです。

 かまわないさ、と貼り紙が笑いました。
 けろっとした笑い方でした。胸がざわざわ
しました。
 
──ボクはむしろ、吹き飛ばされてしまいたい。貼られたから、貼りついていただけ。きっとこの掲示板も、すっきりするだろうさ。
 
 明け方の空を、スズメは必死に飛びました。
 強風にあおられて、左の羽がうまく動きません。ちっとも前に進んでいる気がしません。それでも
がむしゃらに羽ばたきました。
 

 スズメが掲示板にたどり着いたのは、すっかり陽がのぼった後でした。
 朝日に照らされた掲示板には、見慣れない空間が
空いています。ひとつだけ残った画鋲に、ちいさな切れ端がヒラヒラしています。黒い印刷のなごりが、ほんのすこし付いています。

 ビュウビュウ、風が吹いています。
 道ゆく人間たちも、散歩中の犬も、ゴミ箱を
ねらうカラスたちも、強い風にちょっと顔をしかめながら、いつもどおりの朝を過ごしています。

 ぽっかりあいた穴に気づいて涙を一粒こぼしたのは、小さなスズメだけでした。
 
 
 
 
 




1/15/2024, 8:10:22 PM

#この世界は
 
 
 
 ピピは、人魚の子どもです。
 海のずっとずっと深く、陽の光のとどかない、
まっ暗な谷底にすんでいます。
 昔は人魚たちも、浅瀬の明るい海にすんでいたのです。けれど、陸の兄弟たちは乱暴で、ひっきりなしに戦争をしていますから、彼らのすむ地上はとうとう毒まみれになり、その毒は海まで流れこんで、人魚たちも浅い海を捨てねばならなくなったのです。

 ピピは目をさますと、巣穴からそっと顔をだしました。
 するりと岩の割れ目をぬけて、しずかに泳ぎだしました。
 ピピがたてる小さな波におどろいて、プランクトンたちが星屑のように光っています。そのまたたきに、薄っぺらいナイフのような小魚たちが食いつきます。その小魚を、猛毒の腕でクラゲがからめとります。そのクラゲを、影のようにしのびよった大魚が丸呑みにします。
 ピピは、この谷底で生まれました。
 わずかな光があれば、暗闇のむこうまで見通せます。プランクトンの光がまぶしいくらいです。尾びれを蹴って、しずかに泳いでいきます。上をめざし
て泳いでいきます。
 やがて、ふしぎなほど明るい光が見えてきま
した。
 ここはまだ、深い深い、海の底です。陽の光はとどかないはずです。けれど巨大なサンゴに守られたその街だけは、海のうえの世界のようにまばゆくかがやいているのです。
 人魚のすむ都です。
 冷たく暗い海の底で、あの場所だけは光でみちています。海藻がたくさん生えます。生きものも
たくさんいます。けれどあの街に住めるのは、ひと握りの強い人魚たちだけです。弱い人魚たちは、海の底のさらに深い谷底に、みじめな巣穴を見つけるしかありません。
 サンゴの壁のむこうから、門番たちがピピをにらみました。
 するどい銛の先が光りました。
 ピピは街に近づきすぎないよう、距離をとって泳いでいきます。
 
 街の光はやがて、闇の底に見えなくなりました。
 ピピは尾びれをとめません。
 首からさげたポシェットがピピのおなかで跳ねています。ポシェットには、小さな貝殻がひとつ、入っています。青く光る、ふしぎな貝殻です。きのうの夜、巣穴の入り口で見つけました。
 貝殻を拾いあげたとたん、古い歌が胸いっぱいにあふれてきました。どこで聞いたか覚えていません。明るい海と、その上にひろがる海面をうたった歌です。海面は青い色をしているらしいのです。この貝殻と、おなじ色です。
 巣穴の奥で、ピピは一晩中、貝殻をながめて
いました。
 そうして、決めました。
 海面を目指すことを。
 光を、見にいくのです。
 
 小さな尾びれで、ピピは泳ぎつづけます。
 ピピの腕はやせ細って、胸にはあばらが浮いています。尾びれはくすんで、ウロコがあちこち剥げ落ちています。もうずっと食事をしていません。お腹いっぱい食べたことが、生まれてから一度もありません。
 海面を見てどうするのか、ピピにはわかりません。ただ、見てみたいのです。人魚たちがしあわせに暮らしていた浅瀬の光を。その光のなかを、ただ泳いでみたいのです。
 気の遠くなる闇を、ピピは上だけを見て泳いでいきます。

 どれだけ泳ぎつづけたのでしょう。
 はるか頭上に、とうとう、ほのかな光が見えてきました。
 ピピの尾びれは、もうボロボロです。
 ひと蹴りするごとに、ズキン、ズキンと、はげしく痛みます。やぶれた隙間から水がたくさん逃げていきます。
 それでもピピは、懸命に尾びれを動かしました。

 きらきらかがやく水面が、すこしずつ、すこしずつ、近づいてきます。

 ふるえる胸から、歌があふれだしてきます。
 争いを知らなかった頃の人魚たちの、のんきでしあわせな愛の歌です。

 明るい青い光が、ぐんぐん、ぐんぐん、近づいてきます。

 嬉しくて、しかたありませんでした。
 それは陸の毒でにごりきった光でしたが、暗闇しか知らないピピの目には、突き刺さるほどまぶしく見えたのです。








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