その日、ラフィルは領内の視察で巡回するエルンストに同行する予定だったが、雨に見舞われて中止になった。この雨の中領地をぐるぐる回るのかと憂鬱な気持ちに陥ったラフィルが執務室に呼ばれて告げられたのは、視察の延期という嬉しい知らせだった。
「その代わりに今日は、ライエン領地の抱える深刻な問題について考えるよ」
深刻な、と付いたことで、ラフィルの目がキラリと光った。この領地は問題だらけだ。田舎で何もないのはまあいいとしても、なよなよした領主に無礼な従者、馴れ馴れしいルーカスと庭師に、礼儀を知らぬ領民一同。自分が太公爵の直孫だと知らないことを差し引いても、領主であるエルンストに対する態度は酷いものだった。なんてことない顔で受け入れているようで、実はきちんと問題視していたのだと解釈したラフィルの中でエルンストの株が上がった。
しかし、エルンストが問題だと指し示したのは、部屋の隅に置かれた植木鉢だった。
植木鉢は全部で10鉢あった。一鉢くらい違うものを植えればいいのに、全部同じ赤い花だ。各植木鉢には、それぞれ単語が記載されていた。そのうちの一つ『庭園』とラベリングされた赤い花を眺めているうちに、ラフィルの中で勝手に膨らんだエルンストへの期待が萎んだ。この男に貴族の威厳や威光を期待しても無駄だ。
「この花、もう咲いたのですね」
最初に来た時から半年くらい経ったのか。部屋の中に植木鉢が何個も置かれているのは気になっていたが、特に尋ねることもなかった。
「アジサイは今の季節だからね」
「アジサイ?えっ、この赤い花が?」
「そう、だから早急に対応しなければならないんだ」
赤いアジサイが深刻な問題?
そういえば、前にルーカスが話していた。領主は他の仕事もしていると。庭園だけはヴィッカー家の本邸と同じくらい広く、植木鉢にわざわざアジサイを植えて花の色にこだわっている。
他の仕事というのが、この花のことだろうか。
目を引くといえば聞こえはいいが、毒々しさを感じる赤い色だ。派手好きな成金なら面白がって買いそうだが、貴婦人には受けが悪そうだ。
「……アジサイの品種改良なら成功したのではありませんか?」
エルンストは少し考える素振りを見せた後、王都では青紫の方が主流だよねと言った。
「花の色が赤いのは、品種改良じゃなくて、この領地の土のせいなんだ」
「土?それじゃあこの『庭園』は、屋敷の庭園ですか?」
「そうだよ。領内のあらゆる場所の土を貰ってアジサイを育てているんだ。まあ見事に全部赤い花が咲いちゃったんだけど」
何故そんなことを。エルンストに花を愛でる趣味はない。花の品種改良が目的ではないのなら、調べているのは土?
「この前の授業で、家庭教師から酸性とアルカリ性について習ったでしょ。土にもね、酸性の土とアルカリ性の土があるんだよ」
酸性なら青、アルカリ性なら赤いアジサイが咲く。植木鉢に入っている土は、全てアルカリ性になる。
屋敷内の倉庫に眠っている小麦のほとんどが他領地産のものだと知り、ラフィルは愕然とする。
「そういうわけで、今、領内の農地を整備しているんだ」
まあ一長一短って感じだけどね。
もし、また小麦の不作が続けば……。
ラフィルは、赤いアジサイから目を逸らした。
森で暮らしていた頃、ルトは鶏の世話を任されていた。炊事も薪割りも牛馬の世話も苦手な自分が、ようやく任された役割だった。
毎朝、鶏小屋に行き、一日に使う卵をいただく。鶏の具合を確認し、小屋の掃除をする。一人で全てこなし、時には偏屈な鳥医とやりとりしなければならないこの仕事を疎むギータは多かったが、ルトは鶏の世話が嫌いではなかった。
「おはよー今日も寒いねえ」
人間の主に仕える身となった今も、その習慣は変わらない。毎朝太陽が昇る頃に起き、朝一番に鶏小屋に行く。最近では主がお世話になっている寮母の調理を手伝うようになった。といっても、相変わらず料理は苦手で、カトラリーを並べたり配膳したりするのがメインだ。
ギータ種族は早寝早起きだと言われている。太陽の光を浴びてエネルギーを蓄えるその体質故に、朝早くに目覚めてしまうのだ。
主に仕え始めた頃、ルトを見習って俺も早起きするよと、一緒に鶏の世話をしたことがあった。しかし、その数日後、
『ごめん、冬は寒いし眠い……ごめん……』
まだ冬も訪れていない晩秋の頃、主は早起きをリタイヤした。
多分、春になっても夏になっても、主と鶏小屋に一緒に行くことはないだろう。たった数日間でも色んなことを話しながら歩いた道を一人で進むのは少し寂しいが、寮の規則の消灯時間ギリギリまで机に向かっている主に無理強いするつもりはない。
「ふぅ……」
ルトの吐くその息は白い。
冬が到来した今、主はますます起きなくなった。寒い寒い寒いと布団から出てこない主のために部屋を暖めたら、部屋が暖かいから寒い外に出たくないと言う。
でも、相変わらず寒いといえば寒いけれど、今日は少し暖かい気がする。久しぶりに太陽が顔を覗かせているからだ。
卵を持って帰って、スーザさんの料理を手伝い終わったら、今日も主の部屋を暖めよう。雪が降ってないことを伝えたら、寒がりの主人も少しは外に出たくなるだろう……なってほしいと思う。
卵を入れた籠を持ち、ルトは来た道を戻っていった。
あと3組いなくなれば校門から出る。
日中は閉めている門も、人の出入りが多い今日は開けている。リュカ達のように写真撮影のために並んでいる生徒がいる一方、そんなものには目もくれず校門を出る生徒もいる。
写真を撮り終わった生徒達が離れ、1組分列が前に進んだ。
「あと2組、あと2組」
「もっと多いかと思ったけど意外と少ないな。小学校の方が多かった気がする」
「オライヴ生そういうの興味なさげだよね」
「まあ中等部の卒業式って卒業って感じしないし。校舎も学食も面子も変わり映えが殆どないじゃん」
「流石に高等部はヤバいって聞いたよ。3年生だけじゃなくて、在校生や昔の卒業生、保護者、他校の卒業生、縁もゆかりもない一般人まで並ぶらしいし」
「えーそうなの?それなら3年後リュカを呼んで撮れば良かったじゃん」
な?と振られたリュカは、後ろの校舎から視線を戻し、友人達を見た。
「え?お前らと3年後も仲が良いとは限らないじゃん」
途端に左隣の友人に小突かれ、右隣の友人に頬を突かれ、前に並んでいた友人3人にゲラゲラ笑われた。
「…………そういうところだぞリュカ」
「その冷徹な性格、神術学校では隠しなさいよ」
「何でいなくなる奴が一番クライヴ生拗らせてんの」
「まあ実際オレたちもどうなってるかわからないけどさ」
「わー、そういうこと言うんだサイテー」
あ、もう1組前になったと友人の一人が気づき、足を進める。
次の写真撮影が終わったら、学校を出る。
卒業式っていったって、ここにいる生徒のほぼ全員が、高等部に進学する。来月にはネクタイとリボンだけが変化した制服を着て、ほとんど変わり映えのしない学校生活を送り始める。篩い分けされた習熟度クラスに分かれて高度な授業を受け、大学生顔負けの課外活動に励み、冷めている割に行事ごとには精を出し、夜は狭い寮の部屋に閉じこもって勉強に明け暮れる。
その場に、自分はいない。
とうとう写真撮影の順番が回ってきた。
リュカはここだ友人達に押し出され、看板の右隣に立たされる。あれだけ卒業した気分じゃないと言っていた友人達が左隣の位置を狙って揉めている。
ー王立クライヴ学院中等部 卒業証書授与式ー
ついさっき潜り抜けた校門を、最初に潜ったのは10歳の時、学院祭の日だった。来る予定はなかった。あの日、たまたまピアノの習い事が早く終わり、でも家に帰りたくないからと寄り道をした先に、学院があった。
ジャンケンに勝利した友人が左隣の座をゲットし、その横に一人、リュカの左に一人、前に二人が座る。
活気的な空気に惹かれ、門を潜ってしまったのが全ての始まりだった。世の中に神術学校以外の六年制の学校が存在する。そんな当たり前のことを、リュカはしみじみと実感した。その後、学院について情報を集め、王国随一の普通科の名門校だと知った。筆記の入学試験は、他のどの学校よりも難しい。学力でいえば、あのリーナ神術学校よりも頭が良い……筆記試験の普通科と実技試験の神術科を比較しても無意味なのに、リュカの心は踊った。
(踊っていられたのは最初だけだったな)
それからはもう勉強地獄の日々だった。参考書を見てもわからない問題だらけだし、頼んで付けてもらった家庭教師は色々な意味で優しくないし、模擬試験で公開できないような点数を取って部屋に引き篭もったこともあった。術士にならないの?と聞く大人もいれば、神術が使えるんだから大人しく神術学校に入学しろよと迫る同級生もいた。ワンランク下げて受験した方が合格できるとアドバイスをくれる大人もいた。そういえば、その道を諦めたきっかけを与えながら「えー、どうしてピアノ辞めちゃうの?辞めちゃやだあ」と泣き出す年下もいた。
クライヴの入試頃になっても、リュカの成績は合格安全圏とはいえなかった。五分五分より少し確率が高い、ゴーサインを出すには危うい学力だったにも関わらず、家庭教師はリュカの意志を尊重した。受験について、最後までリュカの進退に口を挟まなかったのは、両親とあの厳格な家庭教師だけだった。
結果として、自己最高得点を叩き出して合格したものの、その成績は合格最低点より少し上という滑り込みで中等部に入学した。当然、成績は下の方からスタートした。端から見れば凄い難関校でも、その校内では1からビリまで更に序列化されてしまう。一年次の前期、リュカと同じ下位の習熟度クラスに分別された生徒達は勉強にやる気を見出せず、傷の舐め合いをしあうような劣等感漂う空気が蔓延っていた。それでも得意科目では優れた成績を出したり、勉強から逃げた先の課外活動で高い評価を得たりするあたり、腐っても最難関を潜り抜けた猛者なんだなと後に感心するが、一年生だったリュカは、彼らと距離を置いて本分を諦めなかった。彼らのように得意なことや熱中できることはたくさんあった。しかし、それでは数ある学校の中でクライヴに固執した意味がなくなるし、なにより才能のある分野を極めたいならば周りの言う通り神術学校に入学すればよかったと認めてしまうような気がした。それだけは嫌だった。
身を結んだのは、2年の夏。習熟度に分かれる科目の全てでA評価を貰った。Aクラスの進度についていくのは大変で、最後まで上の中の成績から抜け出せなかったが、たった今卒業写真を一緒に撮った友人達と巡り会った。
……良い3年間だった。
人生で最も楽しかった時期は、多分この3年間になる。
写真を撮り終えたリュカ達は、その場を離れる。街のクレープ屋に行きたいと言い出したのをきっかけに、とりあえず街に行けばなにかしらご飯があるだろうという空気になり、繁華街に歩き始める。
「なあリュカ、オレ高等部でも神術方陣の研究するからさ、また試してくれよ」
世に存在するあらゆる図形に美を見出す変態は、自分では使えない神術方陣に魅了され、よくリュカにその成果を試させていた。
「もちろん。学校でも使うつもりだよ」
「おお、マジ?出来たらまた連絡するから、予定があった時に会おうぜ」
道ゆく人々は、その集団がクライヴの卒業生だとわかると羨望の眼差しを向けてくる。すっかり慣れきっている友人達は全く気づかないが、リュカはひしひしとその視線を噛み締めていた。もう二度と向けられることがないかもしれない、そのまっすぐな目。
リーナ神術学校に入学するということは、今日までの楽しかった日々を自ら捨てることになる。大術師の両親の息子、ついて回るそのレッテルを甘んじて受けなければならない。校内では親の目、親絡みの知り合いの目、自分の能力を値踏みする生徒達の目に追いかけ回され、気が休まる時がない。ブランクもあるし、授業についていくのは大変だろう。どうせ高等部から入るのなら、最初から神術学校に行けばよかったじゃないか、と言う人もたくさんいるはずだ。
悩んだ末に決めた進路に対して後悔は全くしてないが、やっぱり少し不安だ。主に対人関係。
「うわあ、ここも並んでる」
「他の店にする?私クレープ以外でも良いよ」
「歩いているうちにクレープの気分になったわ」
「そんじゃ他のクレープ屋探すか。昼時だし、どこも並びそうだけど」
「クレープならすぐできるし、後ろに並んでもすぐ買えるんじゃない」
何頼もうかなとメニュー表を見る。なぜか皆被らないように注文したがるため、一方がバナナチョコといえば、もう一方がいちごといい、果てはサラダクレープあるじゃん!とスイーツから離れる。
新しい環境に身を投じるのは不安だが。
あの3年間を乗り越えた今なら、きっとどんな場所でも大丈夫だ。もう着ることはない制服のポケットから、リュカは財布を取り出し
今日で世界が終わるとしたら、最期に何をしたいか。
「私は君と一緒に過ごしたいな」
「……酒にでも酔ったか、冗談も休み休み言え」
10分前は、領地の酒の銘柄について談義していたはずだ。それがいつの間にか過去のベストセラー恋愛小説の話題に変わってしまった。
「冗談じゃないよ本当だよ。大臣との会議や諸王とのやり取りで時間を費やす最期より、気心の知れた相手と一緒に過ごして終わる人生の方がよほど良いじゃないか」
「太子の台詞とは思えんな。世界の滅亡を阻止して国を守るのが仕事だろ」
一宮じゃない。誰が耳をすましているのかわからない地方公務先で、他愛もない話とはいえ太子の素質を疑われるような発言は止めたかった。しかし、この不毛な会話を太子は続けたいらしい。
「世界が滅ぶ期限がわかってて手の施しようもないなら、最期くらいやりたいことをやって終わりたいよ」
「……何かあったか?」
いくら気心が知れている仲とはいえ、ここまで本心を曝け出すのは珍しい。よくよく太子の顔を見ると、少しやつれているようだった。
「ん、まあ色々。私一応娘婿なんだけどなあ」
「…………」
太子の舅は6人いる。実母の後ろ盾がさほど期待できなかった太子は、即位後の盤石な基盤作りのために手中に収めたい家の娘を娶った。結果、今や太子派なんて呼ばれる一大派閥ができた反面、権力を持つ外戚との関係に苦労している。
よくやってられるな、と思う。昔から。
「おっ、くれるの。ありがとう」
「これで最後だぞ、明日も明後日も人生は続くんだから」
とぽとぽ酒を注ぐと、太子は破顔した。酒好きで体質も弱くない方だが、万一のことがあってはならないと普段から自制している。
本当によくやっている。自分ならとっくに逃げ出している。
「マーヤ、いつかの約束の期限はまだ来てない?」
学舎卒業の一年前だった。久々に校内に姿を見せた太子は、帰ろうとする真穂を昔の愛称で呼び止めた。
嫌な予感がした。マーヤ呼びに、妙に緊張した様子。昔戯れにした約束。最近耳に入ってくる一花の噂。
妃選びが上手くいっていないのは知っていた。元々太子に釣り合う娘が少ないことや、継承問題のゴタゴタがあった後で周囲も様子見をしていた時期だった。タイミングが悪かった。きっとお家騒動がなければ、妃の件だってすんなり決まったはずだ。
「あの約束は婿養子にって意味だろ。私が六花の庭園の主人になるのは約束が違う」
「わかっている。あの時の約束は、お互い本気にしていたわけじゃない戯れの言葉だったってこともわかっている」
太子は本気だった。
それから真穂の生活は一変した。
「マーヤは何をしたい?」
「そんなあり得ない出来事は来ないさ」
「それじゃ死ぬ前に何をしたい?」
こいつ世界の滅亡から変えやがった、真穂は自分の老後を想像した。
子供はいるだろう。美琴妃や小雪妃のように後継者を望まれているわけでもなし、澪子妃のように神力が高い子供を期待されているわけでもない。自分の子供が帝に即位するとは思えない。実家には跡継ぎがいるから王家と縁組することこともないだろう。
他の多くの皇子皇女のように新たな王に冊封されるか、他王家か上級貴族と結婚か、神官職か王宮の名誉職に就くか。その頃には、誰が後継者になるか粗方決まって、太子妃も選定されているはずだ。私の一花の役割はもう終わっているだろう。
「誰の監視もなく買い物がしたい……死ぬ前というか晩年にしたいことだな」
「いいじゃん、今は飲んでみたい地酒があっても酒屋で試飲なんてできないしねえ」
「おい、あんたもいるのか」
「えー、だって私一人で買い物したことないし」
「ボンボンめ」
地酒の試飲ね……。
昔ながらの酒屋で、偏屈な老婆の隣で楽しそうに酒を飲む爺。実際は近くに護衛が付いているに違いない。太子も自分もそんな簡単に街を散策できる立場になるとは思えないが、小説の中で世界が滅亡するように想像だけなら自由だろう。
案外悪くないかもと真穂は思った。
「エルンスト様、再来月のラフィル様の誕生日プレゼントを預かっていただけませんか」
領地に一時帰宅したルーカスが、包装紙でラッピングされた箱を差し出した。
「私?いいけど、ベルンの方が預け先として優秀なんじゃないの。30分後くらいには戻ってくるよ」
流石に誕生日プレゼントの存在は忘れないと思うが、ルーカスがこんな頼みをするのは珍しかった。
「……それはそうなんですが……中身がちょっと……」
箱の大きさはそれほど大きくない。が、持ってみると意外とずっしりした重みを感じた。最近ではラフィルの教育係まで兼ねるようになった執事が良く思わない物、物はそれほど大きくない。何となく察しがついたエルンストは、快諾して書斎机の鍵付きの引き出しにそれをしまった。
「ラフィルが王都にいる君に頼み込んだの?」
「強いて言うならという感じでした。他の子供みたいに欲しくてたまらないというよりは、どんなものか興味はあるくらいのニュアンスです」
「ルーカスにはそういうこと言うんだ……」
てっきりその手のものに興味がないのかと思っていたが、人並みに知りたい気持ちはあるらしい。それを自分の前ではおくびに出さないのに、ルーカスには打ち明けていたのは少しショックだったが、立場上仕方ないのかもしれない。
「ラフィル様がこのお屋敷に来て、もう5年が経ちますね」
「そうだね。最初はあなた達ケンカばっかりしてたのに、気がつけばプレゼントを送るような仲になっちゃって」
「……ラフィル様が家出した時のこと覚えていますか」
なるべく自然に聞こうとした。
「そりゃあね。ラフィルが失踪しただけでも手一杯なのに、ルーカスは行き先もロクに言わずに追いかけるわ、挙句二人とも半日経っても見つからないわで大騒動だったんだから。ようやく見つかったと思えば、ラフィルは知恵熱で倒れて一週間寝込んだっけ」
今度家出する時は行き先を言ってから出て行ってよ、と言うエルンストの口調に軽い。もう過去の出来事として片付いているのか、あるいは適当にかわそうとしているのか。ルーカスはシャツの裾を握り締めた。
「この領地、隣国に繋がっているんですか」
最初に妙だなと思ったのは去年の夏、地理の授業だった。北方に広がる山脈の講義中、
(うちの領地もナーデル山脈地帯でまとめられているけど、あそこの剣針山の森の木って針葉じゃないよな……?)
森の名前に剣や針が入っているため、何となく刺々しい印象を持っていたが、葉自体はもっと丸みがある。この長い山脈が領内で見えるのは確かだし、同じ山ということでまとめられたのだろう。元々、地方の農村地域の地形図は、調査隊の手が及んでいないことがあり、現地の領民の発言を元に学者が手を加えたってよく言われるし……。地理も植物も、学校で習う知識くらいしか知らないルーカスは、勝手に結論付けて納得した。
「帰って来た後、一人で森に行きました。行ったっていっても山菜が手に入る近場までですが、やっぱり剣針山なんて名前の割に葉は尖ってなかったです」
次に
「エルンスト様は、ある日唐突にここの領主になるように命じられた、あんなのは貴族の嫌がらせだってルーカスが前に言ってたけど、本当はどうなんですか」
「僕があの日お世話になったのはパルオン民族という隣国に住む先住民族で、あそこに住む人たちはうちの国の言葉だけでなく、隣国の言葉や古語を話すこともできて」
あの日の光景が思い浮かぶ。老人が妹に似た響きを持つ単語を口にしていたこと。自国の言葉が使える人がずっと自分たちのお世話をしてくれたこと。その人が子供や老人にはそれぞれ言葉を変えて話していたこと。熱で苦しげなラフィルが、病気から回復する儀式の音楽に対してうるさそうに身を捩って寝ていたこと。
「あの時の出来事をラフィル様は熱の時に見た悪夢だと思ってらっしゃいますが、それでなくともラフィル様は絶対気付きますよ」
あんなに大変な出来事だったのに、屋敷に戻ってくれば特に思い出すことはなかった。しかし、今、鮮明に甦って来る。
「気付いたって、ラフィルは今や、農業に片足を突っ込んだ教育官泣かせだよ」
「ラフィルは領民を殺せないよ」
顔を上げても、エルンストは穏やかに笑っていた。
何か言おうとして口を開きかけたのに、いつもと変わらないエルンストの様子に真一文字に閉口した。
「ねえルーカス。その推測、誰かに話した?話に出て来た絵を描く友人は知ってるの?」
エルンストは柔和な顔付きで、その見た目を裏切らず誰に対しても温和で優しかった。身寄りのないルーカスを拾って執事見習いにし、高慢な貴族然としていたラフィルの心を溶かした。領民に交じって農作業に従事するラフィルの今の夢は「領内の農地の発展のために農業科の大学に行くこと」だ。貴族にあるまじき行動や目標に、ベルンは難色を示したがエルンストは受け入れた。
ラフィルは今の方がいい顔になったじゃないか。そんな尤もらしい理由を付けて、エルンストは、ラフィルの変化を好意的に認めた。
「いいえ」
間違ってはならない。全身から汗が吹き出そうだった。
「まずはエルンスト様に伺って、答えを知りたいと思いました。友人は何も知りません」
「私の答えは一つだよ、知恵熱を出して忘れなさい」