君の目を見つめると
なるはやで持ってきて。
無愛想な声で指示して上司は会議室へ消えた。
はあ?自分が伝えておくのを忘れておいて何がなるはやだ?ていうかごめんねなるべく早く持ってきてくれるかな、とか言えないのか?
むかつきを抑えきれないままどすどす足音をたてて資料を取りに向かう。こちらを心配そうに伺う視線を感じたがあえて無視した。こちとらなるはやで行かないといけないもんでね。
無事資料を届け席に戻った。疲れた。今週はこんなことが多い。歯車が噛み合わなくていらいらする。6秒待っても怒りはどこへも消えていかない。
「大丈夫?」
彼女が声をかけてくる。
ありがとう、もう大丈夫。答えると同時にチャイムが鳴った。昼休みだ。
スマホを取り出して画面を眺める。そしてそっと彼女の横顔を盗み見る。こんなことってあるんだなあ。
画面にうつる茶色のふわふわとそっくりな瞳。
君の目を見つめると、午後からもがんばろうと思えるんだ。
1つだけ
「ひとつだけあげる」
それがあの子の口癖だった。特にほしいと言ったわけでもないのに、クッキーも飴もなんでもひとつだけくれるのだ。
あるときは限定品のキーホルダーをくれようとした。それはあの子に好意を持っている隣のクラスの男子があの子にくれたものだったから断ったのだれど。ていうかもとからひとつしかないものだし。
とにかくあの子は僕になにかひとつあげなくてはいけないと考えてるみたいだった。僕らは家が隣の幼馴染…というわけでもなく、高校2年のときに初めて同じクラスになり、席が近いわけでもなく、同じ委員会で活動したこともないただのクラスメートだった。
そんな僕になぜあの子はひとつだけ物をくれたのだろう。
自覚はないが物欲しそうな顔をしていたのだろうか。
今のなっては理由はわからないけれど、この頃よくあの子のことをよく思い出す。
僕のとなりをよちよち歩く、この世にやってきてほんの数年の小さな人間が、自分のものをひとつ僕にくれようとするときに。
何気ないふり
今日は暑い。昨日の寒さが嘘のようだ。
まだ3月なのに日傘を必要とする日射し。
用心して厚手のジャケットにしたことを後悔しながらひたすら歩いていく。鳥達が楽しげに鳴きかわす声が聞こえる。もう春なのだ。
山道を進み目的の施設が見えてきた。ここを訪れるのは3年ぶりだ。最後に来たのは、季節は同じなのに雪がちらつく寒い日だった。
深呼吸してインターホンを鳴らす。お待ちください、と懐かしい声がしてドアが開いた。
いらっしゃい、久しぶり。
あの頃と同じように迎えてくれる。
私も変わらぬそぶりでこんにちは、と答える。
歩いてくるの暑かったでしょう。昨日は雪が降ったんだけどね。
彼はそう言いながら部屋へ案内してくれる。
ここに来るのが1日違えば、あの雪の日を思い出して昔と同じように振る舞えなかったかもしれない。
ほんの少しの違いが運命を変えるのだ。あのときも今も。
特別な存在
突風で地面から桜色が舞い上がる。
すでに花は散り始めており、歩道には踏まれて黒ずんだ花びらと、まだ舞い降りたばかりの真新しい花びら。
しばらく足元を見つめてからわたしは顔をあげる。
待ち人来る。
初詣でひいたおみくじにあった言葉だ。
なんとなくここにいれば会える気がしている。
何十年も前の一方的な口約束。また会おうね。絶対だよ。
あのときわたしは心の中で誓った。必ずあなたに再会すると。
風は依然として強い。顔にまとわりつく髪を払いながら目を凝らす。
前方からなにかがやってきてわたしの前でとまった。
迎えにきたよ。
そう言われた気がした。
あの頃と変わらずこちらを真っすぐ見つめる黒い瞳。
わたしは今日ここに別れを告げて旅立つ。
大好きで特別な存在とともに。
二人ぼっち
真冬の朝に
雪のつもった階段
ゆっくり上がる後ろ姿を追いながら
わたしも登る