遠くの声
何故か私だけ微かに耳に届く謎の声。
それも何度も何度も、、、
それは波長、音響でもない何か。
ただ誰かに呼ばれる気がする。
でも私がいる場所は空白の世界で辺りを見渡しても
わたし以外誰もいない。
それに寒くも、苦しくもないし
なんだかここに居るととても居心地が良くて離れたら
いけないと直感的に思う。
何故だろうか?
ん?私はまず誰なんだろうか?
真実
まゆみ!まゆみ!聞こえる?
ねぇ、目を覚ましてよ、、、、
私は血だらけの娘を抱きしめながら病院の集中治療室で祈るように願う。
娘は数時間前まで友達と出掛けるんだと嬉しそうな笑顔をみせ家を出たばかりだった。
警察の話によると娘は横断歩道の信号を待っている間にアクセルとブレーキを踏み間違えた乗用車に後ろから突っ込まれたのだという。
最近よくニュースで話題になってたとはいえまさかうちの娘が巻き込まれるなんて想像もしてなかった。
お医者さんは最善を尽くすと行ったっきり戻ってこない
私はそれでも一筋の光に希望を見出し事故直前まで私との通話記録があるボロボロの携帯電話を握りしめて。
幸せ
名前も分からない。何故ここにいるのかも分からない。
とりあえず歩いてみようかな?
私は身体を起こし裸足で歩き出す。
ペタ、ペタ、ペタ
地面は少しひんやりしている。
時々頭を突き刺すような鋭い痛みがあるが慣れれば
なんてことは無い。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ
ひたすら歩き続けるが見える世界は相変わらずだ。
はぁ、早く家に帰りたいな。
お腹すい、、、た?
いや、お腹なんて空くはず無いのに何言ってんの私、、
そう思いながら歩を進めていくと目の前に色鮮やかな
景色と花が咲きみだれている綺麗な橋がかかった場所に辿り着いていた。
わぁ、綺麗な所、、、
お母さんに見せてあげたいな、、、、
【ーーーーー】
【……………】
ん?私を誰か呼んでる?
まあいっか
それよりこの景色を携帯で撮ればよかったな、、
帰ったらお母さんに自慢しよ。
私は嬉しくなり小走りで橋を渡った。
願い
娘を亡くしてはや5年が過ぎた。
当時の娘は中学生に上がったばかりでこれから輝かしい未来を歩む際に起こった不慮の事故。
未だに脳裏に焼き付く娘との最後の会話。
当事者は罪を償っているが私はやつが許せないしこれからも許すつもりもない。
私はあれから高齢者の免許返納活動に積極的に参加している。
当時の娘が受けた被害が二度と繰り返さないように。
返納によって助かる命が1つでもある事を伝えるために。
この物語はフィクションです。
ひとひら
意味は薄く平らなものの一枚。
春が終わりを迎え新たな季節への段階に進む時期。
名残惜しくも儚い言葉だが桜が散るように一瞬の記憶を残すのも風情があって良いものである。
ひらり、はらりの言葉遣いは植物によく使われるが
人間にも使うと一気に印象が異なる。
ひとひらの想いをのせて。
はらりと切なく散る恋心。
物語の始まりと終わりを含む言葉でもありながら何処か身にまといし物をふつふつと感じさせる事も出来る。
ひらりと舞い散る桜を記憶に焼き付けるのもよし。
画像として手元に置いておくのもよし。
香りや味を楽しむのもとして栞や特殊な保存方法で食卓を彩る物として扱うのも良し。
何をするにしてもその人の個性が出るのもまた面白い。
来年の春のおとずれはどんな景色を観られるのだろうか
心を弾ませながら待つとしよう。
新しい地図
地図といえば何を思い浮かべる事が出来るだろう?
まず初めに日本地図、世界地図を思い浮かべる人も多そうだ。
一方で住宅地図、デジタル地図、道路地図、観光地図など普段何気なく使っている物にも地図は存在するのだがその事実を知っている人の割合はどのくらいだろうかと疑問に思う。
新しい地図はそもそも存在するものなのだろうか?
自分で一から創るオリジナルだからこそ地図と呼べるものでは無いかと私は考えている。
年齢や性別などは関係がない。
ただ少しの勇気と行動力、そして探究心こそ磨かれた
感性を生みそれが自信に繋がる。
実際に建物や道路などは埋立地の上に成り立っており
割合もかなり高めだと聞く。
地図はその上にしか建てないのも事実だ。
また私達の身近に新しい地図を創り叶えてる人も多く
いる。
一軒家がまさにその例だとしたらどうだろうか。
事実を知った事で行動力に繋がるだけでなく
異なる視点を持つことで得られる事も数多くあるのも
また地図を知る上での魅力だと私は考える。
※一軒家は住宅地図に分類されているが諸説あり。
幼き頃の探究心を大人になっても忘れずにもっておくのはとても大切である。
心の拠り所が少しでも増えるように地図上にある自分の好きを増やしていきたいと思う。
7色
なないろと聞くと何を思い浮かべるだろう。
虹は安易に想像できるだろう。
それから色鉛筆やクレヨンなんかも大体7色入りで入っている事が多いだろう。
子供の頃はよりカラフルな物を手に取る事があったが
大人になるにつれ環境に馴染もうと落ち着いた色合いを好む人が多くいる。
服装がまさに例である。
人の視覚として統一性が出る服装が1番好まれる傾向がある。特に2〜3色で収めるとより清潔感があり好印象に繋がるが個性と捉えるには余りにも淡白すぎると私は思っている。
だが個性的過ぎると逆に奇抜と捉えられ煙たがれるのも考えものであり何事にも程々が1番だと考える。
感情はどうだろうか?
喜怒哀楽に色はないが貴方自身が思い描く喜怒哀楽に
色は必ずあるはずだ。
どんな色も欠けてしまえば物足りなくなるように
一つ一つの色を大切に扱いたいものである。
今の時代無個性も1つの個性として認めれる時代にはなってきているがやはり大きな舞台だと上手く伝えれる手段の選択肢が少なく悔しい思いをしてきた人や苦い経験をしてきた人も数多くいる事は事実としてある。
今は1つしか無い色でも経験や知識、更に行動を積めば
鮮やかな色や思いがけない色も見つかる可能性は極めて高いとふむ。
人というオリジナルは他人が造る物ではなく自分自身の力で創るとより深みが増しそれが個性としての色を放つことができる。
そしてその色を素敵だと言ってくれる人と出逢うのも
また人生である。
可能性を自分で否定しない事が何より大切で難しくもあるからこそ周りの人達の色を真似る事も自分を知る材料になる。
時にずる賢く、貪欲に、ありのままに。
なないろから始まる人生を謳歌していきたい。
透明
目には見えないし、触れれない。
だが透明を活用した景色をレンズ越しに見る事は出来る
実際に目で見るのとは違う感覚でありとても幻想的な空間に心を掴まれることも多くあるだろう。
人間ではどうかな?
私たちは沢山の色を身にまとっている。
肌の色、髪の色、目の色、口の色。
まるでひとつの芸術作品だ。
透明になることは不可能に近いが色を付け加えて
より鮮やかな色を生み出すことは可能である。
恋愛のように色鮮やかな組み合わせも良し。
世間のように複雑な色をより複雑化し組み合わせる
のも良し。
自分自身のようにまっさらなキャンバスに少しずつ沢山の色を付け加えるのも良し。
時に深く濃い色を付け加える事があったとしてもそれも味があって良いではないか。
大事なのは色をつけた後の工程だと私は考える。
皆同じだとつまらないではないか。
味がある人生こそ貴方の魅力というものを引き出し
見つけ出してくれる場所がある。
さて今日という1日は何色で描いていこうか、、、
たまには透明な色でもつけて鮮やかな視界が見える日にしようかな。
私は再び筆を走らせ人生というページにまたひとつ色を付け加えるのであった。