『落ちていく』
暗い、昏い穴をオレは落ちていく。それはまるで永劫とも思えるように長い。
途切れつつある意識の中、オレはさっきまでの出来事を回想する。
まさか、青銅の小僧なんかにこのオレが負けるとはなぁ。しかも、黄金聖衣には逃げられた上、丸裸の相手に、オレの縄張りでやられたときたもんだ。言い訳のしようもねぇ。まったく、末代までの笑い者だぜ。
――ま、このオレにゃ相応しい末路だったかもしれねぇがな。
オレは今でも自分の行いが間違っていたとは思っていねぇし、やってきたことに後悔も反省もねぇ。だが、自分の行いが到底褒められたモンじゃねぇことぐらい自分でも分かってる。だから、自分の行いが回り回って自分に返ってきた、因果応報だと言われても、はいそうですねとしか言えねぇ。
それに、オレ自身畳の上で死ねるとか、ましてや極楽に行けるなんかこれっぽっちも思っちゃいねぇ。望んでこの手を血に染めたオレには、地獄が相応しい。
あとは、オレに青臭い説教をしてきたあいつがこの先どこまで行けるのか。その結末を見られねぇのはちょっと残念だな。
ともあれ、オレは一抜けだ。じゃあな、シュラ、アフロディーテ、それにサガ。先に地獄で待ってるぜ。
『どうすればいいの?』
「どうしましょうかねぇ」
私はそう独りごちると、パラパラと手元のノートをめくる。
それは去年の日記で、様々な出来事を記録したものだ。そこには今私が悩んでいる、クリスマスプレゼントのことも書いてあった。
私の弟子の貴鬼。聖闘士候補生の弟子ではあるがまだ小さい子供なので、クリスマスには毎年プレゼントをあげている。今年はどうしようかと悩んでいるところだ。
定番は、私自身が作成したアクセサリーだ。その精巧な出来に貴鬼は目を輝かせて喜んでくれるが、去年もあげている。さすがにニ年連続だと感動も薄れてしまうだろう。
やはり子供らしく、玩具やゲーム機などだろうか。しかしそんなものを与えてしまっては聖闘士としての修行が疎かになるのは目に見えている。
かといって、聖衣修復士になるための参考になる書籍など与えて「これで修行に励みなさい」と言ったところで、「折角のクリスマスプレゼントがこれ?」と、感謝どころか失望されるのが関の山だ。向こう三年は根に持たれそうな気がする。
「意外と難しいものですね」
まぁ、クリスマスまではまだ一ヶ月ある。もうちょっと考えよう。何なら、アルデバランなどに聞いてみてもいいかもしれない。彼ならいいアドバイスをくれそうだ。
私は溜め息をつき、パタンと日記を閉じた。
『柔らかい雨』
僕が修行した地、アンドロメダ島は過酷な環境だった。
昼は灼熱地獄、夜は凍り付くような極寒で、僕は初日から熱を出して寝込んだ。ダイダロス先生がいなければ、半年ももたずに命を落としていたと思う。
そのダイダロス先生に僕は師事し、聖闘士になるための修行を受けた。先生の修行はとても厳しいものだった。でもそれは、僕を聖闘士にするため、そして、この過酷な地で生き抜くための力を付けさせるためだったんだと思う。事実、僕は一年も経つとこの環境に慣れていった。
でも先生には悪いけど、僕は聖闘士になるのが目的ではなかった。僕はこの修行に耐え、聖衣を持ち帰って兄さんと再会することこそ、僕の生きる目的だった。
だから、例え修行とはいえ先生や、共に修行を受けるジュネさんに拳を向けることがどうしても躊躇われた。修行を続けるうち、僕の中に巨大な小宇宙が育ち目覚めつつあったのも理由の一つだ。このまま修行を続ければ、二人を傷付けることになりかねない――そう感じた僕は、先生にある試練を受けることを告げた。
サクリファイス――決して切れることのないアンドロメダの鎖で体を縛り付け、海が満潮になる前に小宇宙を目覚めさせ、鎖を操り脱出する。
アンドロメダの聖衣を手に入れるために伝統的に行われてきた試練だ。失敗すれば勿論命はない。僕は覚悟の上でその試練を受けた。
そして、僕は体内の小宇宙を爆発させ試練に打ち勝った。僕はアンドロメダの聖衣を授かり、これで兄さんに再び会うことができる。僕の心は希望で満たされた。
その時、頬に一粒の水滴が落ちて僕は空を見上げた。いつの間にか雲が広がり、雨が降り始めていた。折りしも一ヶ月ぶりに降る雨はまるで僕を労うように優しく、柔らかかった。
『懐かしく思うこと』
眼前で目に涙を溜めている貴鬼を見て、私は自分の幼い頃を思い出した。
師からサイコキネシスの課題を出されたが、なかなか上手くいかなかった。もどかしい思いは焦りと情けなさを生み、今の貴鬼と同じように悔しくて泣いたものだった。
あの時、涙をぐっと堪えながらも強く拳を握り締めていた私に、師は何と言っただろうか。思い出しながら、それをそのまま口に出す。
「最初から完璧にこなそうとする必要はありません。焦らず、一つ一つ、ゆっくりと確実に進めなさい」
私の言葉に貴鬼はハッと顔を上げ、こちらを見た。私は微笑み、頷いてやる。「はい!」と元気な返事をすると、再び集中を始めた。その姿に私は目を細めた。私の幼い頃そっくりだ。私の師も、まるで父のように私のことを見てくれていた。
私は懐かしみ、昔の師の顔を思い出す。二百年以上を生きてその顔には深い皺が刻まれており、同じく眉間にも皺が刻まれ――あれ?
思っていたイメージと違い、私は首を捻りよく思い出す。
――そうだ、我が師は最初こそ優しく声を掛けていたが、あまりに私が何度も失敗すると最終的には苛立って「うろたえるな小僧!」と私のことを吹っ飛ばしていた。あの人に吹っ飛ばされた回数など、両手両足を使っても数え切れない。本当にあの人は見た目よりも短気で――
「うわーん! ごめんなさいムウ樣! オイラもっと頑張るからそんなに怖い顔しないでください!」
気が付くと、貴鬼が私の顔を見て泣き出していた。どうやら自分でも知らぬ間に怖い顔をしていたようだった。私は慌てて貴鬼の頭を撫でてやった。
『行かないで』
夢を見た――
そこは聖域だった。かつてのような、晴天の日でもどこか薄暗い雰囲気の漂うそれではなく、地上を守る戦女神の加護を受けた輝かしい場所としてだ。それはきっと、十三年間聖域を欺き続けた邪悪が討たれ、本物の女神が帰還されたからだろう。
その聖域で、オレの隣にカミュが立っていた。カミュはいつものように柔らかな微笑みを浮かべていた。そこには一切の翳りがなくオレは嬉しくなった。
『これからは、本当の女神のために戦おうな』
そう言ってカミュの肩に掛けようとした手は空振りに終わった。オレは怪訝な顔でカミュを見る。その笑顔は、寂しげなものに変わっていた。カミュは首を振る。
――そうだ、カミュは、死んだ。自らが育てた弟子の手で。カミュが持つその力と意思を弟子に託して。
カミュが歩き出す。その先には光が溢れていた。その時確信した。二度と、彼と会えなくなるということを。
オレはカミュを止めようとその後を追う。だが不思議なことにカミュとの距離は開くばかりだった。カミュは歩き、オレは走っているにもかかわらず。オレの手は彼に届かず、カミュは今まさに光の中に消えようとしていた。
『待て、行くな!』
オレの叫びにカミュは足を止めて振り向いた。その表情は既に寂しいものではなく、安らかな微笑みに満ちていた。憂いも心残りも、何一つ無いというように。
『氷河を、頼む――』
彼はそう言い残し、光の中に消えた。あとに残されたオレは、ただ立ち尽くすだけだった。
目が覚めたオレの脳裏には夢の出来事と、カミュの言葉がはっきりと残っていた。カミュは死んだ。だが、その遺志をオレは確かに受け取った。
自宮を出たオレは走り出し、ずっと下の白羊宮に向かった。そして、オレの突然の来訪に驚く白羊宮の主に告げた。
「オレの血を、氷河の聖衣に使ってくれ」