『君と』
君ともっと早く出会えていたら――そう思わずにはいられなかった。
戦いの最中に敵に懸想するなど馬鹿げた話だが、事実彼に目を奪われたのだから仕方がない。美しいエメラルドのような髪に少女のような顔立ちをしながら、その瞳は強い決意と意志を窺わせ、かといって師の仇である私に憎しみを抱いているわけではない、澄んだ清流と言えるほどの純真さであった。
彼は、かつて私が殺した男の弟子だったという。もし、あの男を殺す前にその事を知っていたら、私はあの男を殺すのを止めただろうか。そうすれば今のように敵として相対することもなかったのだろうか。
取り留めもなくあり得ない仮定の話を思い浮かべるが、軽く首を振った。詮無い話だ。歴史にもしはあり得ない。起こった事だけが事実だ。私は彼の師を殺した。だから彼は私の前に立った。当然の話だ。
私はあの男を殺したことは間違っていないと確信しているし、殺したことを悔いてもいなかった――君と出会うまでは。
あの男を殺したことで君と戦うことになったのを惜しく思う。もし、私が殺したあの男に済まなかったと一言詫びれば、君はきっと私を許し、戦いを避けることができるだろう。それはとても魅力的に思えた。
だが、それはできない。私は十二宮最後の宮を守る黄金聖闘士。私にもなすべきことがある。私的な感情で使命を放棄するわけにはいかないのだ。
未練を振り払うようにマントを翻す。
さぁ、君の力を見せてみろ。君の力も、思いも、私がすべて打ち砕いてみせよう。
『空に向かって』
空に向かって、ぐんぐんと体が昇っていく。
アテナの神像や十二宮の火時計は既に遥か下、首を巡らせば大きな月が眼前に見える程の高さまで来ていた。このまま上昇を続ければ、大気との摩擦熱に耐え切れずやがて体は燃え尽きてしまうだろう。
だが、それでも背後のこの男は、その瞬間まで決してオレを抱える手を放さないであろう事が確信できた。
その男は、オレに青臭い説教をしてオレを倒すと息巻いていた。オレにとってはその男も今まで倒してきた男と同じ、口だけは立派な下らない男だと思っていた。所詮力なき者の戯言、命の危機が訪れれば前言を撤回し無様に命乞いをするものだと思っていた。
しかし、その男は違った。聖衣をバラバラにされようが、どれだけ切り刻まれようがその目は輝きを失う事はなく、命の灯が消えかけようとも、いやまして輝きを増していた。その小宇宙は、黄金聖闘士であるオレをも凌駕した。
そして、オレを倒すためにいとも容易く自らの命を捧げた。何故そのような事が出来るのか。オレの叫びにその男はさも当然の如く答えた。アテナのためだ、と。
オレは衝撃を受けた。この世に、このような男がいたとは。まさにこの男こそ、真なるアテナの聖闘士に相応しい。
だが、このままではこの男はオレと共に宇宙の塵となるだろう。
死なせたくない――つい先程まで敵対していた相手にオレは心の底からそう思った。このような男こそ、これからの聖域に必要なのだ。そう思ったオレは、自らが纏う黄金聖衣に語り掛ける。
山羊座の黄金聖衣よ、お前が守るのはオレではない。この男こそ聖域を、アテナを、地上を守る真の聖闘士だ。これからの聖域に必要な男だ。黄金聖衣を纏う資格があるのはオレではない、この男――紫龍だ。紫龍を守ってくれ。死なせないでくれ。オレの命は喜んで差し出す。だから、どうか、この素晴らしい男を地上に帰してやってくれ。それが罪と業に塗れたオレの、最期の願いだ。
『帽子かぶって』
困ったわ。
どうしたらいいのかしら。
どうしたら、皆マスクをかぶってくれるんでしょう。
聖闘士にとって聖衣とは己の身を守る大切な鎧。マスクだって、ただの髪飾りやヘッドバンドに見えても、あれのあるなしで防御力が大きく変わるんですよ。聖衣に余計なパーツなど一切ないことは皆分かっているはずなのに、どうして皆最初からかぶっていない、あるいはかぶっていてもすぐに脱いでしまうんでしょう。
以前、ムウが星矢に対してマスクの重要性を語っていましたが、当のムウ本人自身もちゃんとマスクをかぶって戦っていたことなどありませんでした。そもそも、最初から最後までちゃんとマスクをかぶって戦った人がいたかしら……
特に、敵に吹っ飛ばされたときは皆頭から落ちてくるのだから、マスクの大切さは身に染みて分かっているはず。邪魔だからとか格好悪いとかいう理由で外していいものではないのです。
――あぁ、今星矢が敵に吹っ飛ばされました。
落ちた衝撃でマスクは外れてしまいましたが、直前まで着けていたお陰で衝撃がやわらぎ、頭から血を流すこともありません。そう、マスクは重要な防具なのです。
さあ星矢、もう一度マスクをかぶって――あぁ! どうしてマスクを放ったまま敵に向かうのです! マスクは壊れたわけではないのですよ!
――ほら、マスクをしていないから敵の攻撃で頭から流血してしまいました。どうしてかぶり直さないのです。それぐらいの時間、相手だって待ってくれますよ。
――星矢が敵を倒したようですね。小宇宙を爆発させた星矢なら、必ず勝てると信じてましたよ。さぁ、吹っ飛んだマスクを拾って――あぁ! まだマスクをかぶってないのにどうして走り出すんです! 急いでいるのは分かりますが、マスクをかぶり直す余裕ぐらいあるでしょう! それともマスクの存在自体を忘れてしまったのですか? 普段からかぶらないことが多いばかりに……
もう、どうすればいいの。
お願いだから皆マスクをかぶってください!
『わぁ!』
人がやってくる気配を感じ取った私は素早く双魚宮の柱の一つに隠れた。足音は一つ。徐々にこちらに近付いてくる。私は息を殺して待つ。やがて足音が私の隠れる柱のすぐそばまで来た時、私は満を持して「わぁ!」と叫び声を上げて柱から飛び出した。
私が脅かした人物――瞬は「わぁ」と声を上げたが、その声は形式的な棒読みで、表情にも驚きは一切見られなかった。大きな瞳は、とっくに気付いていたと物語っていた。
「やぁ瞬。今日もご苦労様」
「何で毎回脅かそうとするんですか。普通に声をかけてください」
私の挨拶に、瞬は呆れを含んだ声で返す。
「退屈な仕事に刺激を与えてあげようと思ってね」
「全然退屈じゃないですよ」
「それは何より。この後も忙しいのかい」
「いえ、今日はもう終わりですけど」
私は、それは良かった、とばかりに微笑んだ。実のところそんなことは既に把握済みなのだが、そんな態度はおくびにも出さない。
「なら、丁度美味しいクッキーをもらったのだ。食べていくといい」
嘘だ。今日のために私自らが用意したものだ。
「え、でも――」
「クッキーは嫌いかい」
「好きですけど――」
「では遠慮することはない。来たまえ」
そう言うと、私は強引に瞬の腕を掴んで引っ張っていく。瞬は何かを言おうとしたが、結局抵抗することもなくついてきた。
少し前から、瞬が聖域の仕事を手伝うようになり、十二宮に姿を見せることが増えた。仕事は教皇の間に行くことが多く、つまり双魚宮を必ず通るということだ。
私は従者に金を握らせ(ついでに口外無用だときつく脅しをかけて)、瞬の予定を調べさせた。お陰で、瞬がこちらに来るときは必ず彼を双魚宮に連れ込むことができた。
勿論、何か如何わしい真似をする訳ではない。他愛無い話をしたり、共に菓子を食べたりと、まるで子供同士の戯れだったが、私は楽しく、これまでにない幸福感を覚えた。
何故彼にここまで魅力を感じるのだろう。
黄金聖闘士である私を打ち倒したその力か、女性かと見紛うようなその美しさか、神の器に選ばれるほどのその純粋さか――考えてみても結論は出ず、結局のところ、人が人を好きになるのに大した理由もないし、一種の熱病のようなものなのだと思った。
生来楽観的な性格の私は、それならそれでこの熱病を楽しもうと思った。
まるで恋する乙女だ――そう自嘲しながらも、それでも瞬とのやり取りは楽しく、かけがえがなく、今日も私は柱の陰から彼を脅かすのだ。
『あなたへの贈り物』
「どうぞ、ソレント。プレゼントです」
突然そう言われて私は一瞬何のことか分からず、「はぁ」と間抜けな声を発して差し出されたきらびやかな袋を受け取った。
そして何か変だと思って、手元の袋とそれを渡したジュリアン様の顔を交互に見比べる。ジュリアン様はいつもの柔和な笑みをこちらに向けているが、私の反応を怪訝に思っているようでもあった。
頭の中で今の出来事を反芻して、ようやく何が起こったかを理解した。
「え、ジュリアン様が、私に……ですか?」
「はい」
「それは……ありがとうございます」
何と言うべきか分からず月並みな礼を述べると、ジュリアン様は「開けてみてください」と言ってきた。
未だに現実の事かと戸惑いながらも袋を開ける。中から出てきたのは手袋とハンドクリームの瓶だった。
「これは――」
「寒いですし、最近は乾燥も酷いですから、これでしっかりとケアしてもらいたいと思いまして」
そう言うジュリアン様の目が、キラリと光ったように思えた。
「先日の演奏会で、ミスをしたでしょう」
私は息を呑んだ。気付かれていたのか。
確かに、乾燥が酷かったこともあり、演奏中に僅かに笛を押さえる指が滑った。だが、音のずれはほんの少しで、聴衆の誰も気付いた者はいないと思っていた。しかし目の前の男はその僅かなずれに気付いていたのだ。
私が驚くと、ジュリアン様は苦笑した。
「そんなに驚かないでください。あなたの隣で、あなたの笛をどれだけ聴いていると思うんですか」
「すみません」
ジュリアン様は首を振って再び優しい微笑みを浮かべた。
「責めているわけではありません。あなたの笛の音は、子供たちにとって宝物です。勿論、あなた自身の存在も。あなたには、もっと自分をいたわって欲しいのです」
優しい言葉が胸に沁みた。私は正面からジュリアン様を見つめる。その目の輝きは、かつて海底神殿で見せた威厳ある海皇のそれではなく、世界を憂う一人の青年の純粋な輝きであった。
私は改めて思った。あぁ、これがこの人の真実の姿なのだと。神の器に選ばれる程の純粋さである、と。
「ありがとうございます」
ようやく私は心からの感謝と微笑みをジュリアン様に向けると、手袋を手に嵌めた。手袋は深い藍色で母なる海を思わせた。
「とても暖かいです」
「それは良かった」
ジュリアン様の微笑みを見て、私はこれからもずっと、この人について行こうと心から強く思った。