『通り雨』
聖域から帰ってきたら、弟子が一人減っていた。
ただひたすら泣き続けるもう一人の弟子――氷河から何とか話を聞き出すと、海底に眠る母に会いに行く途中に激しい潮流に流された、そこで気を失ったが微かにアイザックの声が聞こえたので、自分を助ける代わりに流されてしまったのかもしれない、という事だった。事実、アイザックは姿を見せず、私は数日間海底を含め捜索したが彼を見付け出すことはできなかった。
氷河は、自分のせいだと自らを責めていた。それは事実そうだろう。私やアイザックから諫められても彼は母親に会おうとすることを止めなかった。彼の甘い考えが、アイザックの命を奪ったかもしれないのだから。
だが、私は氷河を責めることをしなかった。彼を責めてアイザックが帰ってくる訳では無いし、常日頃からクールであれと教えている私自身が感情に任せて彼を咎めることはできない。何より、今の彼にそのようなことを言えば、彼はきっと自ら命を断つか、そうでなくてもこの地から去ってしまうだろう。弟子を二人とも失うわけにはいかなかった。
私はなおも一週間、アイザックを探し続けたが彼を見付け出すことはできず、ひょっこりと戻ってくるようなこともなかった。ここに至り、私は彼が死んだという事実を認めざるを得なかった。
私は氷原に立つ。目の前には氷河が開け、そしてアイザックがそこから飛び込んだとされる大きな穴があった。その穴をじっと見つめていると、突如雨が降り始めた。それは徐々に強くなり私の体を打つ。先程まで晴れていたので、恐らくただの通り雨、すぐにやむだろう。
私は手を広げる。周囲の空気が冷え、天から降る雨は雪に変わった。これは鎮魂の雪だ。彼が死の間際、どのような想いを抱いていたかは分からないが、せめて魂は安らかに眠って欲しいと思った。
私は踵を返し歩き出す。頬に一筋の涙が流れるが、私は振り返りはしなかった。
『秋🍁』
暑い……
九月も後半だというのにこの暑さは何なんだ。もう秋じゃないのか。いつまで夏が居座っているんだ。シベリアの寒さに慣れた自分には日本は暑すぎる。この時期だけでもシベリアに避暑に行きたかった。そんな愚痴をこぼしながら冷感シーツを引いたソファに寝そべっていると、周りの奴らが声を掛けてきた。
「このくらいの暑さでだらしないなぁ、氷河」
星矢こそ、何でこの暑さの中平気で走り回っているんだ。お前十二月生まれらしいが、絶対夏生まれの間違いだろう。
「気持ちは分かるが、だらけ過ぎだ。『心頭滅却すれば火もまた涼し』という諺があってだな――」
いつもなら気にならない紫龍の小言も、この暑さだと煩わしさ以外の何ものでもなかった。
「……惰弱な」
うるさいゴリラ。
「氷河、大丈夫? 僕だって耐えられないぐらいだし、氷河は余計辛いよね。はい、氷枕」
心配してくれたのは瞬だけだ。瞬マジ天使。
しかし暑すぎる。せめてプールにでも行こうと思ったが、この暑さでは人が多過ぎるだろう。それに日中は日差しが強すぎて涼むどころではない。どこか、人がいなくて涼しいところに行きたい……。オレはぼうっとした頭をフル回転させた。
「――次のニュースです。今朝未明、〇〇動物園のホッキョクグマの飼育エリアの中で少年が泳いでいるのを飼育員が発見しました。少年は駆け付けた警察に保護されました。少年に怪我はありませんでした。泳いでいた理由を聞かれた少年は、『暑すぎる日本が悪い』と答えたとのことです。なお、飼育エリア内のホッキョクグマ二頭にも怪我はありませんでしたが、二頭の両後ろ足が氷のようなもので固められており、警察は関連を調べています。それでは、次のニュースです」
『窓から見える景色』
部屋の外で大勢の話し声と、鎧が激しく擦れる音が聞こえる。戦いを前に、彼らもいきり立っているようだった。かつてハインシュタイン城と呼ばれたハーデス城。その自室で私はソファに深く腰掛け、大きく深呼吸した。
長かった。冥王ハーデス様がこの世に顕れて十三年。これまで戦いの準備を進めるとともに、百八の魔星すべてが復活するのを待っていたが、退屈な時もあった。だが全ては双子神の思し召し通りだった。ハーデス様の依り代となる肉体も、清らかな心を持ったまま成長した。ハーデス様の器として申し分ない。いよいよ時は来た。聖域に攻め込み、半減した聖闘士どもを皆殺しにし、アテナの首を取る。そうすれば、地上はハーデス様のものとなる。
ふと、頭の隅に小さな疑問が湧いた。地上がハーデス様のものとなった時、地上に生きる人間や生物は全て死に絶えるのではないか。私の家族と同じように、すべての生物が等しく――
私はかぶりを振った。何を下らないことを考えている。双子神が言っていたではないか。ハーデス様はこの醜く穢れた地上を洗い流し、清らかな心を持つ者だけが永遠の命を与えられ、安寧の時を過ごすことができる理想郷にすると。私の家族も結局は醜く穢れたウジ虫同然の存在に過ぎなかったという事だ。
「パンドラ様、皆大広間に集まってございます」
部屋の外から、ラダマンティスの声がした。百八の魔星の頂点に立つ冥界三巨頭の一人。最も忠義厚い男。
「今行く。待っておれ」
短く答えると私は立ち上がり、壁に立て掛けてあった槍を取る。双子神から賜ったこの槍は、冥闘士を統べる力を私に与えてくれた。私の力で、聖闘士どもを殲滅し、ハーデス様の理想の世界を作るのだ。
私は窓際に向かい外を見る。窓から見える景色は今日も灰色だった。
『形のないもの』
よく勘違いされるが、周囲はオレのことを『愛を知らない』だの『愛の持つ力を信じていない』と思っている節があるが、酷い誤解だ。むしろ、オレほど愛のことをよく理解している人間はいない。
愛の力は偉大だ。愛ゆえに人は己の持つ以上の力を発揮できるが、同時に愛ゆえに人は破滅に向かう。
人は愛の力を過信するあまり、何があっても疑問に思わない。目の前に死んだ人間が現れたり、とてもあり得ない事象が起ころうが、愛ゆえに人は盲目となり、勝手に自分を納得させちまう。その結果がさっきの三人だ。
自分が殺した師匠が目の前に現れたというのに。
自分の姉が不自然な形で正体を現したというのに。
自分自身が「兄は死んだ」と認めているというのに。
奴らは疑い、或いはオレの仕業と分かっていたにも拘らず、最終的に愛を忘れられず倒れた。奴らの姿が滑稽で仕方なかった。
それを、目の前のこいつにも教えてやらねばならない。愛も涙も捨てたと言うが、そんな人間がいるはずがない。人は愛を忘れることなどできない。人は愛の奴隷なのだ。
――ほら、やっぱりだ。心の奥底に、封印されたかのように眠る一人の少女。愛を捨てたなど笑わせてくれる。お前も奴らと同じだ。オレの命が尽きる前に、思い知らせてくれる。
オレは嘲り笑いながら立ち上がった。
『秋恋』
「星矢ちゃん、ちゃんとご飯食べないと駄目だよ」
「分かってるよ、だけど忙しくてつい適当に済ませちゃうんだよな」
悪びれもしないで雑誌を読みながら答える星矢ちゃんに、もうっ、と悪態をついて再び手元の包丁に目を落とす。さつま芋はその半分位が一口大に切られている。私は残り半分を切り始めた。
星矢ちゃんの住むヨットハウスは男の子らしく物が散乱していて少し臭かったけど、逆に星矢ちゃんの存在を感じられて嬉しくもあった。
星矢ちゃんは聖闘士として何度も戦い、その度にボロボロになってたけど必ず帰ってきてくれた。私の前では弱音一つ吐かないけど、その姿に星矢ちゃんが昔と変わっていないと安堵すると同時に、自分が置いていかれてるようで寂しくもあった。だからこうして、星矢ちゃんの家で二人でいる時間はとても尊いと感じた。
「あ痛」
そんなことを考えていたら、包丁で指を切ってしまった。咄嗟に指を咥える。星矢ちゃんがそれに気付きこっちに来て手元を覗き込む。
「大丈夫か? ほら絆創膏。美穂ちゃんは昔からそそっかしいから気を付けなよ」
「誰がそそっかしいのよ」
私の文句に星矢ちゃんは無邪気な笑顔で答えていたけど、急に真剣な顔になってこちらを見つめてきた。
「何?」
思わず、私も同じような顔になって見上げる。気付いたけど、星矢ちゃんは前に会った時より背が伸びていたようだった。前はこんなに見上げていたっけ、と思った。そんな私の思考を中断するように、星矢ちゃんが口を開いた。
「好きなんだ、オレ」
え、ええっ⁉ こんな時にいきなり告白⁉ 不意打ちの言葉に返す言葉もなく私がドギマギしていると、星矢ちゃんが続けた。
「その芋も、そっちの栗もオレ大好きなんだよ。腹減ったし、早く作ってくれよ」
そう言って、また無邪気な笑顔を見せた。私は気が抜けてしまい、一つ息を吐く。
「分かってるわよ、ちょっと待ってて」
絆創膏を指に巻くと星矢ちゃんの背中を押した。星矢ちゃんは「気を付けなよ」と言って再び窓際に座った。私は台所に向き直る。
「……私も好きだよ」
星矢ちゃんに聞かれないよう、私は口の中で呟いた。