『大事にしたい』
これは僕の宝物。
幼い頃に兄さんからもらったこのペンダントは、常に僕の首に掛けてある。兄さんが、覚えていないけどきっと母さんの形見だろうと言って僕に渡してくれたものだ。僕は母さんの顔を知らないので正直そこまでの思い入れはないけど、でも兄さんが僕のこと、そして母さんのことを大事に思っていることが分かって嬉しかった。
このペンダントは、不思議なことに何があっても必ず僕の手元に戻ってきた。
小さい時にいつも僕のことをいじめていた子たちがこのペンダントを取っていったけど、すぐに返しに来て謝ってくれた。いつもは絶対謝ったりなんかしないのに。それから、うっかりペンダントを川に落として流されてしまった時も、翌日、近所の野良犬がペンダントを咥えて僕のところに来てくれた。ペンダントを失って泣いていた僕はとても嬉しかった。まるで、ペンダント自身が僕のことを持ち主だと認めているようだった――この考え方は少しファンタジーかな。
でも、ペンダントには『YOURS EVER』――永遠にあなたのもの、という文字が彫られている。だから、その考えもあながち間違っていないのかもしれない。そう思うと、尚更大事にしたいと思う気持ちが強くなった。もしかしたら、母さんが天国から僕と兄さんを見守ってくれているのかもしれないから。
僕はペンダントをそっと撫でた。ペンダントがそれに応えて輝いた気がした。
『時間よ止まれ』
まるで氷が溶け出すように、自分の体から力が流れ出していくのが分かった。天窓からは容赦なく陽の光が降り注ぎ、最早立ち上がるだけの力すら喪われ、仮初めの肉体が再び塵に還るのも時間の問題と思われた。
倒れている私を、一人の冥闘士が執拗に蹴り続けている。先程殴り飛ばしたことを根に持っているようだ。生憎、今の自分には苦痛を感じる痛覚もなければ、叫び声を上げる喉もないし、命乞いの目を向けるための視覚すらない。只、彼の上げる汚らしい声を聞く聴覚だけが働いている状態だ。尤も、そんなこと彼には関係ないようだが。私を蹴ることで鬱憤を晴らしたいだけなのだろう。
だがその時、天窓から希望の光が降り注いだ。それは冥闘士を吹き飛ばし、この暗い城にて燦然と輝いている。彼らが来たのだ。我々が未来を託した、希望に満ちた若き力が。
その中の一人が放つ凍気はかつて私が授けたもの。私が育て上げ、私と戦い、そして私を超えた氷の聖闘士。目が視えなくても分かる。彼は幾多もの戦いを乗り越え、大きく成長していた。既にその力は私の知るものではなかった。その力を感じて私は安堵した。
もう憂えることはない。彼と彼らは、必ずや冥王の野望を打ち砕き、地上に平和をもたらしてくれるだろう。叶うことなら自身の時間を止めて彼の成長とこれから歩む道を見ていたかったが、それは贅沢というものだろう。彼が私を見ていた。目が視えなくても、この耳と小宇宙さえあれば、彼の声は聞こえるし、私の遺志も伝わるだろう。
私はこれからもお前を見守っている。お前は女神のため、地上のために、その力を振るうのだ。
私は彼に微笑みかけながら塵へと還った。
『夜明け前』
闇夜の中、手刀を一閃すると鈍い音を立てて相手の首が地面に転がる。少し遅れて胴体の、首があったところから血が吹き出して、そしてゆっくりとその場に倒れた。
腕を一振りし、腕に付いた血を払う。これで勅命は済んだ。頭目を失えばあとは烏合の衆だ。遅かれ早かれ、反乱組織は瓦解することだろう。
目の前に転がった首を見下ろす。その瞳は無念さを滲ませていた。彼は何年も教皇の呼び掛けに応じず、それどころか賛同する者たちを集め、明確に聖域に反逆を企てていた。白銀聖闘士であるものの実力は高く、多くの者に慕われていたという。
オレが教皇の勅命により粛清に来た時、この男は黄金聖闘士であるオレに怯むことなく真っ直ぐに見返して教皇を非難した。その目は曇りなき済んだ目だった。教皇の手足となりかつての同胞を手に掛けるオレよりも、その姿は正義の聖闘士に相応しく思えた。
オレは首を振る。正義とは何だ? 力なき者の囀りや幻想のことではない。正義とは力だ。何者をも屈服させる強大な力。それこそが、この世界で唯一信じられる絶対のものだ。力なき者は力ある者に従うしかないのだ。それはオレ自身、よく分かっているはずだ。オレは、間違っていない。
オレは物言わぬ死体に背を向けて歩き出した。夜は、まだ明けそうにない。
『本気の恋』
彼女のことを、心から愛していた。勿論、彼女も同様に僕のことを愛してくれていた。この幸せな時間は未来永劫続くものだと思っていた。
だけど、たった一匹の小さな毒蛇が彼女の、そして僕の未来を奪ってしまった。
何故、どうして彼女が。僕は嘆き、彼女が噛まれた時に彼女の側にいなかったことを悔いた。もっと処置が早ければ、彼女は死なずに済んだかもしれないのに。彼女は決して手の届かないところに行ってしまった。
それから暫くの間、僕は何もせず死んだように過ごした。同僚たちも僕に気を遣い何も言わなかった。
ある日、何日も食事を摂らなかったことで一瞬気を失いかけた。その時に見えた幻視は神の思し召しか、それとも悪魔の誘惑か。僕は一つの手段に思い当たった。
だが、それは地上を守る聖闘士としてあるまじき行為であり、我らが主を裏切る行為だった。愛する人のためとはいえ、そのようなことをしてもいいのだろうか。
逡巡は一瞬だった。彼女のいない世界に何の価値があろうか。彼女のいない世界を守ることに何の意味があろうか。僕にとっての女神はアテナではない。ユリティースなのだ。
ユリティースの魂を救うため、彼女を連れ戻すため、僕は冥界に向かった。死を司るあの神なら、彼女を蘇らせることもできるだろう。どんな手を使っても、世の摂理を曲げてでも、必ず彼女を連れ戻す。
僕は決意を胸に秘め、竪琴を強く握り締めた。
『喪失感』
君を失って数日、未だに胸にはぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えている。
あの時、オレが躊躇わずに師の胸を貫いていれば、或いは師の攻撃をオレが避けなければ、君が死ぬことはなかったかもしれない。だが何度後悔しようと過去を変えることはできず、君が側にいない事実だけが突きつけられた。
独りでいると、オレの胸に空いた穴にじわじわと、黒い霧のようなものが染み込んでくるのが感じられた。
オレが倒した師が死の間際に遺した真実。それはオレの精神を苛み、暗い影を落とした。このオレの体に流れる血――いや、オレだけでなくあの屋敷にいた同世代の子供たち、実の弟も含むその全てに、忌まわしき悪魔の血が流れているということ。証拠はないが師の言葉には不思議な確信があり、オレはそれを荒唐無稽な出鱈目だと笑い飛ばすことはできなかった。
いつしかオレは、この世から悪魔の血を一掃することが己の使命だと思うようになった。最強の聖衣を手にしたオレにはそれをするだけの力がある。オレの手足となって働く者たちもいる。
やがてオレの胸の穴が黒く染まり切った日、オレは島を発った。この世の全てを憎悪し、この世から忌まわしき悪魔の血を一掃するために。それを成し遂げた時、オレもこの残酷な世界から消えて君に会いに行く。
それまで、少しの間だけ待っていてくれ。